No.12
子供の頃、匂いのする物が好きだった。
紙石鹸、良い匂いの消しゴムや練り消し、インクに香りのついたペンとか、小瓶に入った匂いビーズ、こすると甘い匂いのするシール。
叔母から貰った洋菓子の菓子箱に、それらを丁寧に小さな袋に小分けにして入れて、匂いが混ざらないように保管していた。
それでも、その菓子箱の蓋を開けると、甘ったるくて華やかな香りがふわっと立ち上って、その香りを吸い込む瞬間が大好きだった。
よく、叔母の家のぽっかりと陽の当たる縁側で、白くて細い足を投げ出して大切にその宝箱を抱え込むように眺めていた。
暖かい場所だと、香りはもっとはっきり感じられる気がした。
「だからね、教授の匂いを嗅ぐと、子供の頃のことを思い出すんです」
私は思い出を語って、彼の鎖骨の窪みに鼻を擦り付ける。
教授は喉を鳴らして笑って、犬みたいだな、と言った。
それがまた愛おしくて、私は目を瞑る。
子供時代、私は確かに幸福だったけれど、教授と恋をはじめた頃が人生で最も幸福だったのかもしれない。
・
「それじゃあ」
「えぇ、また」
幸福に満たされて聞こえるように、私は注意を払って別れの挨拶をする。
教授は目だけで微笑んで、そして、玄関の扉が音も立てずに閉じた。
部屋に戻った所で携帯が鳴り出し、手を伸ばして見ると烏養くんからの電話だった。
出るつもりのない携帯電話を眺めているうちに、音は鳴りやんでしまった。
もう数回、こうして烏養くんからの電話をやり過ごしている。
地元に帰った時に話して以降、一度も話していない。
日曜の夜、仕事が一段落ついて、映画を見ていたら教授がやってきた。
彼はいつも唐突に、そしてとても良いタイミングで家にやってくる(結局のところ、私にとってタイミングはいつだっていいだけなのだけれど)。
ベットの幸福の中で、私が家にいなかったらどうするの?と聞いたことがある。
彼は年相応の皺を目尻にはっきりとつけて優しく優しく微笑んだ後、君が家にいるような気がするっていうその勘は、不思議と外したことがないんだ、と言った。
私はその言葉が堪らなく嬉しくて、彼の足に自分の足を巻き付けた。
それが勘でもなんでもなくて、ただ窓の明かりや車が停まっているかで判断しているだけだとしても。
そして、私も貴方が何処にいるか、直ぐに、はっきり分かるのよって言えたらいいのに、と思うのだ。
けれど、私がそれを言うことはない。
実際は本当に、直ぐに分かるからだ。
彼が居るところといえば、平日は大学で、休日は妻が家にいれば、その妻と一緒に家にいる以外はないのだから。
今日は大方、妻の方が外泊しているか何かだろう。
この夫婦はずっと崩壊寸前なのに、何故かずっとその状態を保ち続けている。
カーテンと窓を開けて、教授の帰った部屋を片付けていく。
ワイングラス、チーズと無花果を並べていた皿、フォークを手際よく纏め台所へ運び、乱雑に乱れたベットのシーツをはいで新しいものに取り替える。
教授のいた痕跡が消えて行く。
それは物悲しいけれど、とてつもなく清々しい行為だ。
彼がいないと身体がばらばらになりそうなくらい寂しいのに、彼が帰るとすぐにでも彼の遺した空気を消したくなる。
真新しいシーツを敷いて、そこに横になる。
晩夏の涼しくなり始めた夜風が滑り込んできて、肌を撫でていく。
シーツからは最近気に入っている洗剤(ハーブが入っているらしい。レモングラスくらいしか知っているものはなかったけれど)の香りが立ち上った。
動き回って汗ばんだ身体が少しずつつ冷えていくのを感じる。
あぁとても草臥れた。
私は満足した心持ちを作って、心の中でそう呟いた。
あの日。
最後に烏養くんに会った時。
『拒絶じゃなくて、八つ当たりだろ?なら、問題ねぇよ』
烏養くんの顔を見たら、前の晩に烏養くんが言った言葉を思い出した。
そして、不意に嵐のような寂しさが襲ってきた。
私を受け止めてくれるであろう人は目の前にいるけれど、私はこんなに遠く遠くの場所にいる。
私はこんなところになぜ1人っぽっちでいるのだろう、と思いかけて、でもそれは貴方が決めたことじゃない、と暗がりにペタリと座り込んでいる私が言う。
薄暗い幸福の中に留まることを決めたでしょう?
明るい陽の下に出て、自分の心や体の形をちゃんと受け止めて、貴方生きていける?
誰かの影でなくて、貴方自身として。
暗がりの中の私の言うことは、きっと正しい。
窓の外を流れていく景色を見ながら、私は殆ど泣き出しそうな気持ちだった。
私のエゴで洗いざらい吐き出してしまったとして、多分、烏養くんはそれを許してくれると思うと、それがとても悲しかった。
私も烏養くんも、寂しくて、悲しすぎる。
こんなことをすべきじゃなかった。
いつもいつも、私の心の中にこの言葉がある。
この恋をはじめたときも、また大学に戻った時にも、烏養くんのことを知り始めた今も。
それで結局私は、私の暮らす街に戻った。
たった1人ぽっちで。
続