No.13



大型の台風がきた。
珍しく、交通機関が止まるくらい大型の台風で、外ではびょうびょうと風が鳴っている。
大学は休校となり、思いがけない休みになった。

雨の休日が好きだ。
外が嵐なら、尚良い。

みんな自分の家に閉じこもって、人の気配が消えて、世界はとても静かになる。
私は守られていると感じる。

そして、ここに彼がいれば完璧なのにと、つい思ってしまうのだ。

私は淡い期待をしかけて、慌てて止める。

急に休みになったからといって、今日きっと、教授がここに来ることはまずない。
彼の妻は何故か大学の事情に詳しいから(大学の教員用のサイトの情報を隈無くチェックしているのではないかと思われる)、休校になっていることをとっくに知っているだろうし、そんな中家を抜け出すなどしたら、きっと半狂乱になるに違いない。




『妻が気づいているみたいだ』

教授に最初にそう言われた時、そう、と私は言った。

事もなげにそう言ってのけたあの頃の私は、とても屈強だった。
教授を愛しているというだけで、無敵だった。

けれど、彼が妻に私たちの関係が知られる事を恐れていると気がついた瞬間、私は屈強でも、無敵でもなくなった。

教授は妻に捨てられることを恐れていたのだし、私は教授に捨てられることを恐れていた。

結局私は(私にしては賢明な判断で)大学を離れることにしたけれど、そんな決心も数年経って教授に求められたら軽く吹き飛んでしまった。

全くもって何も学ばない、ばかな私。







「台風がきているけど、大丈夫?」
『えぇ。でも大変だったわ、外のものを中に入れたり色々…。
台風が過ぎたら、少しは涼しくなると良いけれど』

電話の向こう側で笑う叔母の声を聞いて、ほっと安堵する。

仕事が立て込みはじめて暫く地元に帰れなくなってしまったので(これは多分言い訳。本当は何となく足が向かなくなった。理由はきっと烏養くん)、今は叔母の安否を電話でしか確認できない。

この歳になって、何故こんなにも彼女に執着するようになったのか、不思議に思う。
彼女の夫が亡くならなければ、きっとこんな風にはならなかっただろう。

孤独さを分かち合いたいのだろうか。

その発想は、私を失望させる。

私はどんどん弱く、無価値になっていく。
孤独など知らない顔をして、余裕を持って彼を愛することができるからこそ、私は彼にとってきっと価値があったというのに。

いつの間に孤独を、息苦しく感じるようになってしまったのだろう。
じわじわと、水の中から酸素がなくなって死んでいく魚みたいに、私ははくはくと口で息をする。


『美貴ちゃん?』
「なぁに?」

急に黙り込んでしまった私に、叔母が心配気に声を掛ける。
私は、何事もないようにして返事をする。

『電波が悪いのかしら?声が途切れて…』
「台風のせいかしら。でももう大丈夫よ」
『あら、本当ね』


嘘つき、と暗がりで私が笑う。
そんな声は聞こえない振りをして、他愛ない話の合間に窓に雨がぶつかる音を聞いていた。
あぁ守られている、と私は胸を撫で下ろす。
息ができる。




そうそう、と叔母が思いついたように言った。

『私、旅に出ようと思うの』
「へぇ、いいわね。どこへ行くの?」

叔父が生きていた頃、2人はよく旅に出ていた。

“ちょっと旅に出てくるわね”

そう言って、嬉しそうに笑う叔母を見ていると、“旅”がとても良いものに思えて好きだった。
思い出の地でも巡るのだろうか?と、想像する。


『そうね。どこに行こうかしら。海外でもいいかもしれない』
「なぁに、それ。まだ行き先決めてないの?」
『えぇ、そうなの。行き先も帰る日も、何も決まってないの。
出発する日は決まっているのだけれど』

美味しいもの沢山食べて、お酒を真昼間から飲んで、もしかしたら恋に落ちちゃったり、そんな旅がしたいのよ、と楽しそうに言って、そして、。

『そう思うと、期限なんて決めたらダメだと思わない?
帰りたいなぁって思うまで帰らないつもり。だからもしかしたら、もうずっと帰らないかもしれない』

穏やかに、でも決然と、そう言った。

叔母の言っている言葉が、うまく理解できない。

「で、でも、叔母さま…そんなの、危ないわ」

歳だって若くないんだし、何があるか分かんないんだし、と次々に口から転び出る言葉を聞きながら、何よこれ、と私は愕然とする。

この口ぶりは、この否定の仕方は、母にそっくりではないか。
一番嫌っていた女に、私は。


『まぁ、失礼ね』

叔母さまの柔らかく諭す声に、ハッと我に帰る。

『年齢っていったって、私貴方と10くらいしか変わらないのよ』

分かっている。
違う、そんなことを言いたかった訳ではない。

私が思っていたよりずっと、彼女は若く、強く、自由な人間だということに、私が打ちのめされているだけ。
私が今、彼女を頼りにして生きていることなど、彼女の人生には関係のないことなのだ。

「…ごめんなさい、びっくりしてしまって…」

弱々しくそう言うと、驚かせてごめんなさいね、と叔母が微笑むのがわかる。

『でももう決めちゃったの。
誰にも言わずにいくつもりだったのだけれど、貴方だけにはと思って』

きっと誰が何を言っても、彼女の気持ちは変わらないだろうと思わせる口ぶりで、叔母は言う。
思えば昔から、突飛なことを言い出して、しかも絶対に曲げない人だった。

『貴方に家の鍵を預かって欲しいのだけれど、お家に送ってもいい?
そして貴方にこの家を預けたいの』

そして、私は昔から、ねぇ、どうかお願い、と叔母の懇願するような声に弱い。

「…えぇ、分かったわ。でも、時々でいいから連絡をくれない?」
『うーん…そうね、じゃあ、私の家に手紙を出すようにするわ』

貴方もこれから引っ越したり色々あるかもしれないものね、と言う叔母の言葉に、あぁもうこの人は本当に帰ってこないつもりなんだ、と諦めに似た感情が心の内を占める。

「それでいいわ。叔母さまの旅が、素敵なものになることを祈ってる」
『ありがとう。素敵なものになるわ、きっと』

叔母はきっぱりとそう言って、さようなら、という言葉とともに電話は切られた。



いつ出発するのかは聞かなかった。
きっと、聞かれたくないだろうと思って。

寂しい行かないでって言えばよかったのに、と暗がりの中の私が、言えないことを分かっていて意地悪く笑う。
それを言ったとしても、きっと私は置いていかれたに決まってるわ、と私は言い返す。

それに、そんな事を言って、彼女に嫌われることの方がずっと怖い。




それから2週間程経って、紺色の封筒に入って鍵と手紙が送られてきた。

『拝啓 
家のこと、引き受けてくれて有難う。
貴方にあげるつもりだった家なので、自由に使ってください。

また手紙を書きます。

追伸:
いつまでも同じ場所に留まるには、1人では苦しくてとても無理ね。
貴方にとって、一所に留まるのが幸せになるような相手が現れますように』


“あげる”という表現が叔母らしくて、思わず笑ってしまった。
追伸を読んで、また少し笑って、それから1人でお酒を飲みながら少しだけ泣いた。