No.14



「海を見に行こう」

そう、突然教授が言い出したから、私たちは今、秋の海にいる。









“冬季の学会の件で相談があるんだが、今夜打ち合わせは可能かな?“

勿論、打ち合わせが必要な冬季の学会などない。

“承知致しました“

私の簡素な返事を見て、教授はきっと、ふと微笑むに違いないと、確信めいた予想をする。

馬鹿じゃない?

暗がりの私が呆れたように言うけれど、私は気にしない。

何せ今夜、私は教授のものなのだから。
不安も悲観も寂しさも、今はひっそりと鳴りを潜めている。

そうだった筈なのに。








秋の海は灰色で、どんよりと曇って薄暗い。
日が暮れかかる中、不穏な雲がゆったりと流れていった。
私たちは砂浜に腰を下ろして、その様子をじっと息を殺すようにして見つめている。

太陽はもう少しで、水平線の向こう側へ落ちてしまいそうだ。
微かな光が、名残惜しげにゆっくりと消えていく。

「寒くないかい?」
「えぇ、大丈夫よ」

私を気遣う素振りを見せて、緩く微笑んだ教授に、私もまた微笑みを返す。

あぁ、と私は、視界に入る全てを見ながら思う。

今この瞬間を切り取って、永遠にできたらいいのに。

それはできないことは重々分かっているから、私はそっと教授の体にくっつく。




「ここね、昔よく妻と来たんだよ」

ぽつり、と教授が言った。
彼の、いつもの、呟くような聞き取りづらいその言い方で。

「そう」

私もいつものように、丁寧な言葉遣いで返す。
静かな波音がじわじわと私を侵食するようで、酷く耳障りに感じる。


暫くの沈黙の後、教授が息を吸って無理矢理口を開けるようにして言った。


「僕の妻が、不倫を、している」


誰が、何をしているのか、を確かめるように、教授はその一音一音を口にする。

くっついた腕から、彼の怒りと、悲しみと、絶望がヒシヒシと伝わってくる。
私は途方に暮れてしまう。
どうしてあげたら、彼を安心させてあげられるのかを考えるけれど、私には無理であることもよく分かっている。

ざまぁみろぉ。

暗がりの私が笑っている。

「来て」

その声を掻き消すように腕を広げて教授を誘うと、吸い込まれるように彼が腕の中に入ってきた。
小さな子供のように、顔を私の肩と首の隙間に埋める。

これで少しでも彼が安心できればいいのだけれど。

私は本気で心配してそう思う。

「耐えられない、こんなこと」

小さな声を震わせて、私の腕の中で縮こまっている男を私は愛おしく思う。
白髪の混じり始めた細い髪を梳くようにして頭を撫でてやると、震えが少しずつ落ち着いていった。



彼の妻の不倫相手は、事務課の若い職員らしい。
彼女の不倫は今に始まったことではなく(勿論彼の不倫も)、かなり露骨なので学内でも専らの噂であった。
まだ若く美しい彼女(実は私とそう年齢は変わらない)の相手は誘えばいくらでもいるようで、気まぐれに相手を変えては教授を動揺させた。


そういうやり方でこの人を繋ぎ止めようとしてるのよねぇ、きっと。哀れな女。


暗がりの私が言うことに賛同しつつ、しかし、彼女の企みが大きな効果を発揮していることもまた、私は知っている。

彼女がこうやって彼を繋ぎ止めようとしているのと同じように、私は彼を慰めることで、彼を繋ぎ止めようとしている。
ぐるぐると、私たちはいつまでも同じ螺旋階段を降り続けている。



「…耐えられないわね、確かに」

びゅうと、強い海風が吹いて心が一気にがらんどうになってしまった気がしたが、私の呟きは風にかき消されてしまったようで、教授は何も言わなかった。