No.3



「それじゃあ、皆さん手元に飲み物は行き渡りましたか?」

幹事の男子学生が声を掛けると、若者たちは一斉に、おー!とかはーい!とか、相槌をうって笑顔をつくった。

「では、学会運営、準備諸々、お疲れ様でした!」

威勢のいいその声に、皆が賛同するように杯を上げる。
私は気圧されながら、でもそこにいる違和感を残さないように、小さく杯を上げた。

この、纏まり感みたいなものが、私は酷く苦手だ。
皆と同じでなくてはならないと、共感を求められるような、その迫られる感じが堪らなく嫌だった。
それは、もうずっと昔から。

馴染もうとして馴染めない、違和感が拭えない。
大勢の人の中にいればいるほど、私はずっと1人だった。

それはそれで、良いのだと思うようになった。
それは、私だけではなかったから。






『どうかな、大学に戻ってくる気はないかい?』

大学の先輩の退職に伴う代替で、大きな病院の精神科に勤務して2年程が経過した頃、私を呼び戻したのは、彼だった。

博士課程を修了した後、大学に残ることもできたけれど大学を離れることに決めたのは、ふとした気まぐれのようなものだった。
もしかたら、逃げたかたったのかもしれない。
慈しみと優しさに溢れた、あの檻のような彼の視線や、いつでも彼とそれ以外の人間が明確に分かれて見えた、あの研究室の独特な空間から。

ようやくその感覚が薄れかけ、彼なしでも私はある程度上手く、立派に生きていけると感じ始めた頃だった。

『どうかな?大学に戻ってくる気はないかい?』

彼の言葉は、まるで、家出娘を優しく諭す父親のそれだった。

私はそれに抗えない。

私は彼に恐ろしく従順で、誠実であろうとしてしまう。

助教のポストは予想に反してすぐに準備され、年度の替わりと共にそのポストに着くことになった。
研究室はやはり卒業当時のままで、彼とそれ以外が明確に分かれて見える不思議な空間だった。

一度出て、入り直したことで、私は強く感じることになる。
私が“纏まらなくて”済む理由は、彼なのだと。

セーターの網目から飛び出した毛糸のように、セザンヌの一つだけ溢れた林檎のように、私たちはいつも、何かから外れていた。
外れているお互いを認識し、認め合っていた。
ひっそりと、お互いがお互いの影のように、私たちは繋がりあい、離れがたい存在だった。

それは、絶望的な幸福だ。

私は結局、その、暗く暖かい湿った幸福の中に戻ってきたのだ。

それから1年が経とうとしている。
後輩の世話すら苦手で、というよりも、それ以前に自分さえ上手く面倒を見てやれない私が、助教として年若い学生達の面倒を見ている。

『大丈夫。美貴さんは出来る子だから』

そう言って、額に落とされた口付けと、呪いのような言葉の通りに。





「そういえば、今日の撤収作業、教授来てませんでしたね。
来るって言ってたのに」

近くに座る男子学生が、ふと思いついたようにいった。

「あぁ…そうね、そういえば」

私はたった今気がついたかのような顔をして、視線を泳がす。

「あれよ。ほら、夫人」
「あー…夫人か。そういえば前日に来てたっけ」

学生達の訳知り顔を見て苦笑する。
私と教授の密やかな関係は、完璧に隠されているという、安心感と自信と優越感をもって。

「塚本先生は夫人とのお付き合いがあったりするんですか?」

興味津々といった様子で、真向かいに座った女子学生が身を乗り出した。
私はその顔を見て、ゆったりと微笑む。

「事務的な連絡で、何度かやり取りさせて頂いたくらいかしら。
あまり深くは知らないかな。
それに、教授のプライベートって昔から謎なのよ」

いけしゃしゃあと。

ふと、学生時代に彼女に言われた言葉を思い出す。

いけしゃあしゃあと、よくも、と、彼女は怒りに震える声で言った。

結局あの頃から、教授も彼女も私も、何一つ変わっていない。
ただただ積み重ねた時間の延長線上で、猫が鼠を追いかけるように、同じことを繰り返している。