No.4



塚本…さん…?、と遠慮がちに呼ばれたそれが、私は最初自分の名前だと気がつかなかった。

学生に、先生お知り合いですか?、と好奇心の入り混じった声で聞かれて、初めてその呼び掛けが私に向けられたものであることに気がついても、私はきょとんとした顔をしただけだった。

その時のことを、彼、烏養くんは、ひでぇよなぁ、と振り返って笑い、私を揶揄う。

ひでぇよなぁ。

その笑顔は、バーの仄暗い暗がりにいるのに、なぜか、真昼間の校庭の端っこの明るさを思わせた。

この人は、きっと、ずっと、"こうこうせい"の"おとこのこ"を、自分の中に持っている人なのだろう。

私はバーの薄暗がりの中で、ジントニックをちびちびと啜った。







往々にして、出逢いというものは避けられないようになっていて、それは唐突に、なんの迷いもなく、いつの間にか目の前にあったりする。

そして、いつも、ずっとずっと後になって、あれは避けようがなかったものなんだと、不意に気がつくものなのだ。

この日の、この時の、烏養くんとの出逢いは、まさにそれだった。



「あの…ごめんなさい、」

どなたでしたか、と言おうとして言えずに口籠もると、彼は、そりゃ覚えてねぇよな、と頬を引っ掻いた。

「高3の夏、烏野の坊主、練習試合の帰り。
…思い出さねぇ?」

そう言って目元に赤みが差す。
それを見て、あ、と、もう随分古くなった、忘れていた記憶を思い出した。

真夏の空、誰もいない水飲み場、煩いくらいの蝉の声にも負けないくらい大きな声で、好きです、と言った、鋭い目つきの、坊主頭の男の子。

あの時の私は、吃驚してボトルを取り落として、ごめんなさい、と小さな声で言うのが精一杯だった。

そして、30過ぎた大人の私は、今、目の前の、やはり同じ歳の彼を、しげしげと眺めた。

多分、普段着慣れていないのであろうスーツに、がっしりとした健康的な身体を窮屈そうに押し込んだ、今や鋭さの中に温かみを宿した瞳の、その彼を。






「しかし、すげぇ偶然だな」

そう言って隣で笑う烏養くんが、グラスを傾けた。
男の人らしいその、ごつごつとした手に無骨なロックグラスが良く合う。


斯くして我々は、ホテルのラウンジバーにいる。

誘ったのは私の方だった。

彼が居てくれるお陰で、私はここに1人で帰って来ずに済み、さよならと別れた後もきっと、"寂しさ"は少しは遠慮してくれるんじゃないかと踏んで。

烏養くんは、とても善良な人だ。
それはきっと今も昔も変わらないのだろう。

結局名前を覚えていなかった私に、彼は快く、そうかあの時名乗ってなかったかな、と笑って言って名前を教えてくれた。

烏養、烏養繋心だ。

そう言って、照れたように笑った顔は屈託がなくて、気持ちが良い人だと思った。

つられて笑ってしまいながら、私は、教授のいない夜に別の男の人といることに、少しの罪悪感と安堵と、そして、絶望を感じる。
彼だけが私の世界の全てじゃないこと、彼が気まぐれにやって来るのを待つだけの女では、今はないんだと、感じることに対して。

烏養くんは色々な話をしてくれた。

今日は偶然仙台市内で結婚式があって出てきていたこと、ふらっと入った居酒屋で私を見つけて思わず声をかけてしまったこと、仕事は母方の実家を継いで地元の小さな商店をしていること、普段は専らジャージを着て烏野高校のバレー部のコーチをしている(どうりでスーツに着られてると思った、と言ったら、そうか?と憮然とした表情をして、私はくすくすと笑った)こと。

数年前に烏野高校バレー部のコーチになった時のことを話してくれながら、当時の写真を見せてくれた。

派手な髪色で陽気に笑っている彼が、今の彼とも、坊主頭の青年だった彼とも結びつかなくて、人って変わるのねぇ、としみじみ呟くと、烏養くんは、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「なんだ、普通に話できるな」

烏養くんは含んだ笑いのまま、頬杖をついてそう言った。

「え?」

言いたいことが直ぐに飲み込めなくて、聞き返すと視線を外して、考えるような顔をする。

「いや、こんなふうに笑って話すようなイメージなかったから。
さっきも、なんつーか、」

濁して続かない言葉の続きを、私は察する。
いつか昔、同じゼミの男の子に言われたこととか、他の教員達が噂しているのを思い出しながら。

「あぁ…お高く止まってるように見えた?」

そう尋ねると、烏養くんは、いやそうじゃねぇけど、と慌てた。
私をそれを見て、あぁやっぱりこの人は善良な人だ、と思う。

「そりゃあ、学生の前ではね」

そしてあの人の前では。

心の中で付け足して、私は薄く笑う。

彼の見ている前では、彼の求める私でいること。
それが私の第一命題だ。

学生といる時には彼が居なくても、私は、彼が用意した助教という枠に嵌らざるを得ないから、そうなる。

『美貴さんの影のある、その孤独な美しさが好きだよ』

彼の言葉は、甘くて、とても甘くて、とろとろに私を溶かすけれど、彼が居ない時に私はその言葉を頼りに生きるしかないのだ。

あぁ困った。あの人に会いたい。

揺れるキャンドルの灯りを見ながら、私は、懸命に彼の声とか、首のラインとか、鎖骨の形を思い出そうとしていた。