No.5



塚本美貴。

もう遠い、俺にとっては青春の一部のその名前は、特別な響きを持っていた。

一目惚れ、だったのだと思う。

高1の夏、白鳥沢との練習試合で彼女を見た時、時間が止まったように感じたことを鮮明に覚えている。
夏だというのに透けるような肌の白さや、高い位置で括った黒髪の艶とか、頬を伝った汗を拭う仕草とか、彼女の全てに目を奪われた。

無論、あの頃思春期真っ最中の俺は、話しかけることは愚か近づくことさえできなかったわけだが。

時折ある練習試合の度に、彼女の姿を探した。
運動をしてきたわけでもなさそうな、そのぎこちない身体の動かし方を見ているだけで、俺としては満足だったし、きっとそんな気持ちを抱いていたのは、俺だけではなかったのではないかと思う。

だから、彼女が白鳥沢の主将と付き合っているという噂を聞いた時も、特段驚きはしなかった。

バレーがうまくて、背が高くて、優しくて、頭が良くて、男から見ても格好良い。
そんな彼氏が、彼女には似合っていると思った。

顔が良いわけでも、頭が良いわけでもない、ずっとベンチを温めているだけの俺になんか、届くわけのない存在だと、そう思って、手を伸ばすことすらしようとしなかった。

高3の夏のあれは、だからきっと、文字通り、気の迷いだったのだと思う。

久しぶりの白鳥沢との練習試合で、控え選手として少しだけ試合にでた。
正セッターを休ませる為の繋ぎでも、試合に出られることが嬉しかった。
でも結局、いつものことではあったが、思うように身体は動かず、試合が終われば自己嫌悪だけが募っていく。
交代してから後、試合中ずっと俺より上手い奴らを見ながら、自分の試合中の動きを振り返っていた。

そんないつもの苦い気持ちと、高3の夏という時期に感じる焦燥で、煮えてしまいそうな頭を冷やそうと1人で水飲み場にいた時だった。

「あの」

頭からかぶっていた水音の隙間から、女子の声が聞こえて顔を上げたら、彼女が立っていた。
突然のことに驚いて固まっている俺を、少し背の低い彼女が見上げてきて目が合った。

「大丈夫ですか?」
「は…?え、ぁ、はい、大丈夫です!」

情けなく裏返る声に、恥ずかしさで顔が熱くなる。

「良かった…結構長い時間水かぶってたから、もしかして熱中症にでもなったのかと…」

ほっとしたような口調で続ける彼女を、俺はぼんやりと眺めていた。
近くで見ると意外に小せぇ、とか、腕細ぇな、とか、睫毛長ぇ、とか、そんなどうでも良いことを考えていた。

「あの、もし良かったらこれ」

そう言って、彼女の白い手が伸びてきて俺の手を取った。
触れられている箇所が酷く熱くて、そこから血が逆流してくるように感じた。
されるがままに掌を開くと、ころりと黄色いストライプの包みが転がった。

「塩レモンキャンディー、美味しいですよ」

彼女はにこりと笑うと、ボトルの中身を捨ててくるりと背中を向けた。
ポーニーテールの髪が揺れて、ふわりと良い匂いが漂って、俺は居ても立っても居られなくなって、気がついたら大声で想いを告げていた。

結果、完璧に玉砕したわけだ。

思い出すだに恥ずかしい、恋と呼ぶにはあまりにお粗末な、青臭い思い出。


あれから10数年。
思わず声を掛けてしまったあの瞬間。
考えるより先に、口が動いていた。

あの頃から成長しねぇな、俺は。

バーの薄暗がりの中、どこか物憂げに揺れるキャンドルの火を眺める彼女を見て、声に出さずに呟いた。

今も昔も、彼女はどこか遠いところにいるように感じる。
俺の手の届かない、どこか遠いところに。
昔と違うのはその場所が、彼女にとって幸せな場所ではきっとないんだろうな、と思わせる何かだ。
楽しそうに話していたかと思えば、ふと漂うその影が、昔とは違う彼女になったことを告げていた。