No.6
教授はメールや電話といった"デンシキキ"が好きではない。
いや、ほとんど嫌悪していると言っていい。
だから、研究に必要なデータを統計で分析しなくてはいけなくても、自分では絶対にその作業をしようとしない。
(人の生きた声や思いや考えを、数字や記号に置き換えるのは野暮だと思っているらしい。心理学とはそういう学問なのに。矛盾だ。)
そういうのは専ら、私や、学生達の仕事だ。
しかしそんな教授も、メールを寄越すことがある。(電話はない。これまで、ただの1度も)
事務的な連絡に見せかけたそれは、大抵の場合約束への謝罪が含まれる。
ゼミの日程変更だの、学生との飲み会に参加できなくなっただの、そういう口実に見せかけてメールしてくるのだ。
メールなんてくれなくていいのに、と私は思う。
約束の場所、時間に現れなかったとしても、それはそれで、と思うから。
その無いなら無くてもいいメールは、いつも私を、憂鬱で空虚で物悲しい気持ちにさせた。
そのメールの裏側にある、彼の私への気遣いも含めて。
“今日と、そして明日の夜の研究会だが、すまないが僕の用事で休会にすると学生に伝えてくれ”
無機質なその文字に、私は視線を落とした。
あぁやだ、とそうやって携帯をじっと見つめる、湿った空気を纏う自分にうんざりする。
研究室で1人、半分灯の消えた黒と白の天井を見上げた。
椅子が、ぎっ、と音を立てる。
今ここで、私が泣きながら彼に電話をしたとしたら。
彼は一体どうするだろう。
不意に手の中で携帯が震えた。
「はい」
『おぅ。俺だ、烏養』
「烏養くん。こんばんは」
烏養くんとは、あの日の偶然の再会以来、時折こうして連絡をとっている。
連絡をとっているといっても、無精な私と違って(意外にも)マメな彼が連絡してくる事ばかりだけれど。
烏養くんはこんなふうにふと、気がついた時に電話やメールをしてくる。
その内容は大体が他愛無いものが多くて(バレー部の子の話とか、お店の話とか、そういう最近あった細々とした彼の日常のことが大半)、随分長い間具体的な要件がないと使用しなかったその“連絡手段”で、そういった話を聞くのは変な感じがしたが、最近は慣れてきた。
烏養くんから聞くその話は、私の住む世界とは全く違う場所の平和な話に聞こえて、それを聞くのが私は結構好きだった。
その話を聞いている間は、嫉妬とか恨みがましい気持ちとか、寂しさや不安から、一時でも離れられるような気がして。
『塚本?』
「うん?何?」
烏養くんの声で、椅子に張り付いていた腰を浮かせて立ち上がった。
白衣を脱いで椅子の背にかけ、引き出しから鞄を取り出す。
『今から帰るのか?』
「うん、今仕事終わったから」
『そっか。明日も仕事?』
「明日は、」
仕事、と言いかけて止まる。
「明日は休みになったから、のんびりしようかなって」
そう言って研究室の電気を消し、扉に鍵を閉めた。
『あー。えぇっと、その、もし明日暇で、興味があるなら、バレーの試合観に行かねぇ?』
思いがけない誘いに一瞬廊下を歩く足が緩む。
三十路の男にしては初心なその誘い方がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
『な、何だよ』
「ふふ…。ごめん、違うの、何だかあんまり緊張してるみたいで、可笑しくて。
明日ね…。誘ってくれてありがとう」
そう言いながら思う。
都合良く、彼の優しさや、その気持ちを、私はきっと上手く利用してるんだろうな、と。
この人はある一定の線は越えてこない、そういう確信と安心感も甘えてしまう原因なんだろう。
「行こうかな。何時にどこにいたらいい?」
『よし、じゃあ決まりな。迎え行く』
「え、でも遠いよ?」
『いいって、俺が誘ったんだから。それに高速乗ればすぐだ。
住所送ってくれ。じゃ、明日10時な』
有無を言わせない勢いで切られてしまって、手の中の携帯を見て苦笑した。
下手だなぁ、と思うけれど、そういうところも含めて彼の暖かさなのだろう。
烏養くんは明らかに、今まで出会ってきたどんな男たちとも違う。
それにしても、と車に乗り込みながら考える。
休みの日に誰かと出かけるなんていつぶりだろう。
今現在、友達もいない、恋人もいない(教授のことを私は絶対にそう呼ばない)私にとってそれは、久しく忘れていた感覚だ。
スポーツ観戦なんだからやっぱりパンツの方がいいかな、とか柄にもないことを思いながら車のキーを回した。
続