No.7
「プロって凄いのね。迫力があって吃驚しちゃった」
「ん。楽しめたんなら良かった」
烏養くんはビールをまるで水でも飲むかのように、ごくごくと飲み干す。
私はその喉を少しだけ眺めて、それから自分のジョッキに口をつけた。
試合後に家の近くまで送って貰って別れる予定だったのだが、もし良かったら食事でも、という誘いにのった私は、烏養くんと共に近所の小料理屋に来ている。
平然とお酒を頼む彼に驚いて聞けば、近くに学生時代の友人の家があるので、そこに泊まらせて貰うという。
「すんません、ビール」
烏養くんが空になったジョッキを持ち上げてそう言うと、はぁいと女将さんが返事をした。
烏養くんは、"沢山"飲むし食べる。
総体的な量というよりは、一度に摂取する量が"沢山"なのだ。
ばくり。
ごくり。
心地よく冷えたビールが、身のしまった鳥の身が、しゃきしゃきとした歯ごたえの良いキャベツが、そうして次々に烏養くんの中に入っていくのを、私は不思議なものを見つめるように眺めた。
思えば、明るい場所で彼が食事をするのを見るのはこれが初めてだ。
いや、違う。
そもそも、教授以外の誰かの食事シーンをまじまじと見ること自体、イレギュラーなことなのだ。
私がプライベートで、教授以外の他人と食事を摂ることは殆どない。
大学に戻ってからは特に。
私は基本的にはアルコールさえあれば、食事は必要としない人間だ。
死なないために必要最低限のものは食べるけれど。
だから私の、人との交流を含めた"食事"は、教授とのそれに自然限られる。
この小料理屋でも、教授と何度も食事をしている。
薄暗い部屋で息を殺すようにセックスをした後、私たちはよくここへ来る。
教授は丁寧に丁寧に、ゆっくり噛んで味わって食事をする。
その様が上品で、私はいつもついうっとりと見入ってしまうのだ。
君もたべなさい。
食べるわ。でも見ていたいの。
私たちは声に出さずに伝え合う。
私たちの食事は酷く静かだ。
視線や仕草や触れた体温を駆使して、身体全体で会話ができるから、言葉はいらないのだ。
「あー…さっきから、何?」
「あ、ごめんなさい。ぼーっとしちゃって…」
怪訝な顔をした烏養くんと目が合う。
教授とあまりに違うので、物珍しくてつい観察してしまっていた。
「そういえば、さっきの試合。
プロってあんなに楽しそうに試合するのね」
私は取り繕うように話を変える。
でも実際、本当にそう思ったのだ。
とても楽しそうに、生き生きとバレーをするのだな、と。
教授といる時以外は、生きてるのか、死んでいるのか、よく分からない私とは違って、彼らは全身全霊でそこに生きて立っていた。
そんな彼らを見て、時折息を呑んだり、短い感嘆の言葉を吐く私の横で、烏養くんは静かに試合を眺めていた。
「あぁ。
楽しめるようになるまで、色んなもんを越えて、あそこに立ってるんだろうな、きっと」
なぜか烏養くんは嬉しそうにそう言って、満足気に笑う。
私は、人の事でそんなふうに笑う烏養くんがやっぱり少し不可解で、その横顔から目を逸らして小鉢の中身をつついた。
「すまん、俺ちょっと煙草」
短い沈黙の後、烏養くんが思い出したように席を立った。
「あ、うん。行ってらっしゃい」
この店は席での喫煙は禁止されている。
それは昔からで、私も教授も喫煙者だから心得ている。
店に入る前に、烏養くんに喫煙できる場所を教えておいたのだ。
なんだか変な気分。
私はぼんやりと思う。
教授と私しか知らなかった世界に、知らない人間が入り込んでくる。
私は、どの私でいればいいのか、分からなくなってくる。
いけない。
思考を掻き消すように、小鉢のお浸しを口に運んだ。
不要なことを考えないこと。
それが、私が教授の傍に居られるたった一つの方法なのだから。
「あの」
不意に声をかけられて振り向くと、女将さんがうっすらと微笑んで立っていた。
「いつも一緒に来られるお連れ様が、もし、彼女が次に来た時僕と一緒でなかったら渡して欲しい、と置いていかれたものがありまして」
そう言って差し出された包みを、私はそっと、丁寧に受け取った。
それはもう殆ど、彼の遺品を受け取るかのように恭しく。
奇妙だなと思うけれど、実際のところ、彼と離れている間、私が彼に抱く感覚は故人を思う感覚に近い。
遠い昔に、深く深く愛してしまった人を長い間ずっと忘れられず、その苦しみが常態化して、その苦しみすらも愛おしいと思うような、そんな感覚。
包みをそっと開くと、深い不思議な濃淡の紫と紅葉の燃えるような紅が目に飛び込んできた。
紫を広げたら、それは上質な布のスカーフだった。
スカーフを胸に抱えて、添えられた紅葉にそっと口付けてみる。
あの人がいる。
私は感じる。
ひっそりと、私の背中に寄り添うようにして彼がいることを、確かに。
そうして私は安堵する。
あぁまだ私の心は彼の傍にいる、と。
続