No.8
声を掛けようとして、俺は怯む。
幸せな夢の中、少しでも長くその幸福を味わっていたいと願うかのように、彼女は目を瞑っていた。
今ここに、彼女はいないとそう思った。
いや、今だけの話ではなく、塚本はたまに"どこか"へ行っていることがある。
例えば、ふと会話が途切れた瞬間や、俺が食事をするところをまじまじと見ている時なんかに。
そういう時。
俺は強く意志を固めて、声を掛けなければならない。
その幸せな場所から冷たく苦しいこの世界へ、無理矢理引き摺り出すつもりで。
「悪い、戻った」
「あ…」
声を掛けて椅子を引くと、おかえり、とぼんやりした顔で塚本が笑う。
「それ」
「え?」
黒いタートルネックの首元に巻かれた、紫の上品なストールを見る。
「今日、そんなの巻いてたか?」
「あぁ、ううん。これは」
前にこの店に忘れて帰った物よ、と言って、ストールに頬を寄せた。
そんな彼女を俺は横目で見て、今日数杯目のジョッキを呷った。
・
試合を見に行かないかと、俺から誘った。
あの日再会してから、何となく放っておけなくて偶に連絡するようにしている。
そこには微かな下心が、やはりあるのだろうが、それはとても彼女に似つかわしくなくて、俺は結局未だ高校生のような下手な誘い方しかできていない。
彼女が何か事情のある恋愛をしているだろうことは、最初から何となく察しがついていた(だからこそ、あえてその手の話には触れないようにしている)。
その言葉の端々に、仕草の一瞬に、動かす視線のその向こうに、想う相手がいるのだろうということが容易に推し測れる。
極め付けは、この店だ。
正直、いい気はしねぇ。
苦虫を噛み殺したような気持ちで、頬杖をついた。
慣れた様子で2人席に座る彼女や、伺うような視線を送ってくる女将も、煙草から戻ってきてみれば彼女が持っていた贈り物らしきそのストールも、全てが気に入らない。
その背後に影のようについてまわる、まだ見ぬ男の気配が感じられて。
どんな奴なんだよ、そいつ。
どう考えても良い奴だとは思えないその気配に、嫌悪感を覚える。
いや、違うな、これは。
胸の内に広がる息苦しさを拾い上げて、その感覚を知っていることを思い出す。
これは、嫉妬だ。
自分より格上の相手に、彼女が恋していることに対する敗北感。
高校時代に嫌というほど感じたあの感覚。
だが、今はもう、高校生の俺じゃない。
彼女もまた、高校生の何も知らない女の子ではない。
「あー…また、その、なんだ、予定が合えば飲もうぜ」
「うん。今日は本当に楽しかった。また誘ってくれると嬉しい」
「おぅ。また連絡するわ」
綺麗に微笑んで見せた塚本の顔を見て、俺はジョッキに残ったビールを飲み干した。
続