9話


何をどう間違ったんスかねぇ。

喜助は誰も居なくなった部屋で、暫く止めていた煙草をふかしながら、ぼんやりと思案を巡らせていた。

ゆらゆらと立ち上る紫煙を目で追う。

あの新人の子を見て、千笑がまだ担当に就いたばかりの頃を思い出した。

真っ直ぐで、不器用で、文学が好きで、この仕事に対して些か真面目過ぎるくらいに、理想をもった女性ひと

根本的な所は、今も少しも変わらない。
彼女が編集として成長していくのを、思えばかなり最初の頃から見てきた。

最初は本当にただ初々しい反応が面白くて、悪戯心でちょっかいをかけたり、揶揄ったりしているだけだった。

いつからだったろうか。
そんな彼女を見ているうちに、親しみ以上のものを感じ出したのは。

千笑に恋人がいることは知っていた。
恋人との話を楽しそうにする千笑を見ていて、あぁ自分に入り込む隙はないんだ、と思いながら、でも諦めきれずにきた。

狡いと分かっていながら、仕事にかこつけて彼女を困らせては、千笑と過ごす時間を少しでも確保しようとした。
悪いと思いながら、でも、やめられなかった。

それで別れるくらいなら、アタシに任せたらいいんだ。

会ったこともない千笑の恋人へ、喜助は嫉妬と敵対心を持っていた。

ある晩、千笑から電話がかかった。
締切の迫る原稿を催促する酷く沈んだ声に、喜助はすぐに勘づいた。

『たった今、彼にフラれまして』

どうしたのかと聞くと、予想した通りの答えを、さらりと言った千笑の声はでも、少し揺れているように感じられた。

結婚も考えていただろう恋人。
彼女的には上手くいっていると、信じていた様子だった。

傷つかない訳が無いのに。

そんな夜に自分の所に、まず電話を掛けてきてくれたことが、喜助は嬉しかった。
例えそれが、仕事上の事務的な連絡であったとしてもだ。

千笑が恋人と別れてからは、あの手この手で距離を詰めようとしたり、やんわりと好意を伝えてきたつもりだった。

実際、名前で呼ぶようになったり、2人で出掛けたり、雰囲気も悪くなく、距離は縮まってきたと思っていた。

喜助が、今一歩詰めきれずにいたのは、恐れていたからだ。

明確な言葉にしてしまったら、この関係すら終わってしまうのではないか。

そんな思いがあった。

手が届きそうな所にいるのに、掴みきれずにいた。
関係が進めば進むほど、失うのが怖くなる。

そして結局この状況である。
千笑は選択の場面で、喜助を選ばなかった。

バチが当たったのかもしれない。

喜助は思う。

己の幸福の為だけに動いてきたことに対する、これは罰なのでは、とそんな思考が頭を過ぎる。

息を吸い込むと、煙草の火が小さく燃えた。
吸い込んだ煙を天井に向かって吐き上げる。

ただあれは。

目を閉じて、どこか苦しそうに言葉を紡いでいた千笑を思い出す。

拒絶だったんスかねぇ。

喜助は彼女の言葉の意味を考える。

"私は先生の作品を愛しています"

作家にとって作品は分身のようなもの。
あれらはアタシの一部だ、と喜助は思う。
寧ろ自分の恥部を晒して、利益を得ているようなものだとすら思っている。

普通に考えればきっぱりとフラれたであろう現状に、でも、そこまで落ち込んでいないのは、作家という職業上、その言葉に含まれるニュアンスを敏感に察知してしまうからだろう。

「どうしたもんスかね」

ぽつりと呟いたその言葉は、火が尽きかけた煙草と一緒に消えていった。