10話


「牧田」
「はい?」

デスクで校正作業をしていた千笑に、平子が軽い調子で掛けてきた。

「今日、どや?」

杯を傾ける仕草をして見せる姿を見て、千笑は訝しげに眉を寄せる。

「なんか企んでます?」
「…ほんま、可愛くない奴っちゃなァ。
上司の優しさ素直に受け取っとけや、アホ」

いつものトコな、と言い置いて去っていくひょろ長い背中を見送って、千笑はまた原稿に目を戻した。


花奈への引き継ぎは拍子抜けするくらい呆気なくスムーズに済んで、喜助の家に行かなくなってから1ヶ月が経つ。
ほぼ毎日のように行っていたあの家へ行かなくなったが、慣れるものだな、と千笑は思う。

花奈と喜助はうまくいっているらしい。
引き継ぎ後、トラブルのようなことも聞かない。

『浦原先生仕事早いですよね。私が取りにいく前に原稿FAXで上げてくれるんですよ』

花奈が担当に着いて、何度目かの締切の時に言っていたことだ。
千笑は心底驚いた。
そもそもあの家にFAXがあったこと自体、千笑は知らなかったのだ。

花奈が言うには、喜助とは電話でやり取りするのみで、家に行く用事はないらしい。
原稿さえ上げてもらえれば、新作の打ち合わせや、今進んでいる連載について話し合う必要がない限り、特に作家に会うことはない。
千笑の担当している作家は手書きが多く、原稿を取りにいくことが殆どで、喜助のことも同じ括りで考えていた為これまで特段疑問に思わなかった。

先生、大丈夫かな。

口から溜息がついて出る。

ほぼ毎日行っていた時でさえ、あの散らかり様だったのだ。
とても自分で何かができるとは思えない、と千笑は痛み出したこめかみを抑える。

花奈には、時折様子を見に行かなくて大丈夫かと一応声はかけたが、子供じゃないんですから、とくすくすと笑って一蹴されてしまった。
そう言われてしまうと、自身の甘さを笑われているようで何も言えなくなって、結局曖昧に笑っただけでそれ以上は何も言えなかった。

「…って、全然進んでないじゃん」

千笑は我に返って呟く。
いつの間にかぼうっと考え込んで、止まっていた手を慌てて動かした。





「それで?」
「…なんですか」

カウンターのいつもの席で隣に座った平子が、頬杖をついてこちらを見ている。
口端を上げて笑うその整った顔が憎たらしい。

「お前なァ…痩せ我慢も大概にせぇ。
毎日毎日渋い顔して。見とるこっちの気ぃが滅入るわ」

呆れたような顔してジョッキを煽る平子を、千笑はまじまじと見る。

よく見てるんだよね、この人。

大雑把に見えて実は細かな気配りができるから、平子を慕う部下も少なくない。
その気配りに救われたこともあったが、今はそっとしておいて欲しかったな、と思う。

グラスに残ったレモンサワーを口に含むと、口の中で泡が弾けた。

「…なんで、私に新人教育任せんたんですか」
「前に話した通りや。同性で、歳も近い。それだけや」

気配りができて、勘もいい。
そんな平子がただそれだけの理由で、教育係を任せるはずがない。
千笑は口をへの字に曲げる。

「ぶはっ…なんやねん、その顔」

睨む千笑をモノともせず、吹き出して笑って平子はおしぼりで口元を拭いた。

「まぁ冗談抜きにや、仕事に私情は厳禁。
それはお前もよう分かっとることやと思うけどなァ。
俺がお前に、いや誰にでもそうや、仕事を振る時は、常に円滑で安全な業務の遂行を考えてのことや。
それ以上の理由も、それ以下の理由もない」

一旦言葉を切って視線を合わせてくる平子から、千笑はたまらず目を逸らした。
俯いて自分の手を見つめる。

平子の言いたいことは、千笑にはよく理解できる。
喜助のことを意識し始めてから、ずっと千笑の中で葛藤してきたことでもある。

平子は恐らく、千笑に喜助の担当から手を引かせることで、喜助も千笑も守ろうとしたのだろう。
お互いの私情で仕事に支障が出ては、大きな問題になるからだ。
そしてきっと、相手にそれを求める以上自身も仕事において私情を挟むことはない、ということなのだと思う。

自分の力ではその分別をつけきれなかったと、判断されたことが不甲斐ない。

「…すいません」

俯いたままそう言うと、平子が溜息を吐くのが聞こえた。

「仕事は仕事。プライベートはプライベート。
要らんし絡みがなくなったて、考えたらええやん」

千笑は平子の横顔を見る。
平子は頬杖をついて、焼き鳥の串を手に持ったまま遠くに目を向けた。

「えぇ加減自分でも気ぃついてんのとちゃうか。
喜助の担当変わって、そないな状態になっとることが何よりの証拠やろ」

言われなくても。

千笑は唇を噛む。

言われなくても分かっているのだ。
分かった上でした選択だった。
これで良かった筈だ。

「私は…浦原先生を作家として尊敬しています。
今回担当を外れたのは、私が担当していては先生の邪魔になると思ったからです。
これからは、先生の作品を待ち望む、1人のファンとして支えられたらと思ってます」

喜助にも伝えた、言い訳のようなその文句を平子に言う。

「私は浦原先生の作品を愛してるんです」

今言える、嘘偽りのない言葉はこれだけで、千笑は気を抜けば溢れてしまいそうな本音に蓋をする。

「お前、それ…。…もうえぇわ」

目を見開いて千笑を見て、平子はまた溜息を吐いた。

「後悔だけはせんように」
「なんの話だい?」

釘を刺すような平子の声に被さって、耳元で全く違う声が聞こえた。
千笑はぎょっとして、声の主を振り返る。

「きょ、京楽さん…!?」
「やぁ、こんばんは」

屈んでいた身体を起こして右手を上げている、人の良さそうなその笑顔を見上げた。

「突然なんですか、京楽さん」
「吃驚したァ…驚かせんといてくださいよ」

平子と千笑からの非難めいた声に、まぁまぁと、眉尻を下げて困ったように京楽が笑う。

「偶々仕事仲間と飲みに来ててね」

京楽が振り向いた先を見ると、座敷に座る見知った人物がゆったりと微笑むのが見えた。

「藍染先生?!ちょっ…京楽さん、藍染先生をなんてところに…!」
「えぇ??藍染くんと知り合いかい?」
「知り合いっていうか…担当です」

そうなの?!と驚いている京楽を後目に、もう一度確かめるように藍染の姿を見る。
ゆったりと日本酒を飲んでいる姿が、場にまるで馴染んでいない。

「ちょうどいいや、一緒に飲まないかい?
華は皆で分かち合おうじゃないか」

ね?、と京楽が平子の肩に手を乗せながら、千笑を見てにこりと笑った。

「えぇんですか?大事な話があったんとちゃいます?」
「いいんだよぉ。仕事の話なんてつまんないでしょ」

やんわりと逃れようとする平子の空気を察していないのか、分かっていてスルーしたのか、京楽はこともなげに言ってのける。

平子の目配せに小さく肩を竦めると、平子の口から今日何度目かの溜息が溢れた。

「お言葉に甘えて、ご一緒させて頂きます」