8話


「こんにちは」
「千笑サン、いらっしゃい…って、どなたっスか?」
「あ、こちら、新人の伊藤花奈はなさんです」
「伊藤です。よろしくお願いします!」

勢いよく頭を下げた花奈はなに、元気良いっスね、と喜助がくすくす笑った。

「先生、原稿できてます?」

座布団に座るなり、千笑の投げ掛けた言葉に喜助がヘラりと笑う。

「ちゃァんと書いてますって、大丈夫っスよォ」

疑いの目でじっと見てくる千笑の視線を軽々と交わして、喜助はにこりと花奈に笑いかけた。
彼女の頬が赤くなって、慌てて視線を逸らしている。

似てるなぁ。

千笑は昔の自分を思い出していた。

まだ駆け出しも駆け出しだった頃。
先輩に連れられて来たこの家で、憧れだった喜助に会って、やっぱり同じように微笑まれて、同じように目を逸らした記憶がある。

そうよね、そういう人よね。

心の中で呟く。

先生はただただ女性に優しいだけの人だったんじゃないかと、少しだけ失望に似た安堵を感じている自分に苦笑した。

「花奈ちゃん、ごめんね、ちょっとお遣い頼まれてくれる?
先生と打ち合わせしてる間に行って来てほしいの」
「何でしょうか!」
「A4の白封筒を買って来てもらってもいい?
すぐ近く、5分くらいのところに文房具屋さんがあるからそこに」
「すぐ行ってきます!」

花奈は弾かれたように立ち上がり、バタバタと走っていった。
ばたん、と玄関の扉が閉まる音が聞こえると、先生と2人の空間に一瞬静寂が降りる。

「…千笑サン、何かあったんスか…?」
「へ、なんでですか?」
「いや、なんか空気がいつもと違うような気がして」

そんなに顔に出てたかな、と自分の頬をぺたりと触って、がっかりしたような顔してたなら嫌だなぁと思う。

6年付き合った彼と別れて以降こういう感情に疎くなっていたのと、喜助の甘い言葉を1人で浴び続けたことで、どうも自意識過剰になってしまったらしい、と千笑は自分を分析する。

そうか、ここが潮時か。

そう思って、やっと煮えきれなかった心が纏まった気がした。

「あの、先生に折り入ってご相談があるのですが」

ちくりと痛む心を見ないふりをして、千笑は言葉を紡ぐ。

淡々と担当替えについて説明する自分の声は、何だか自分の声じゃないみたいだ、と頭の片隅で思いながら、喜助の顔は見れずにいた。

「そういう訳で、伊藤さんに担当を変えてもよろしいでしょうか」
「…それは、アタシに拒否権ある話なんスか?」

机の上で組んでいた、喜助の握り拳を見つめる。

「受けて頂きたいと思っています。だからこうして頼んでるんです」
「…ハイ…」

一瞬の間があって、喜助の返事に目を見開く。
顔を上げると、喜助が困ったような、悲しいようなそんな顔で笑っていた。

「って言わなきゃ、いけないことなんでしょう?
担当の件は分かりました、飲みまショ。
貴方にそんな顔、させたくないですし。
けど、アタシは、千笑サン、貴方との縁まで切るつもりはないっスよ?」

あぁやっぱり先生には全てお見通しなんだな、と思いながら、でもその言葉の真意が千笑には見通せない。

それはどういう意味ですか。

そう一言、聞けばすぐに分かることなのに、その一言を出せないでいる。

喜助と千笑を繋いでいたもの。
それは担当編集と作家という関係性で、それ以上でも以下でもない。
これが切れて仕舞えば、きっとこんな気持ちも、こんな水面化でお互いの気持ちを探り合うようなやりとりも、無くなる。

ここでどう答えるかできっと、私たちの関係は変わるんだろう、そう分かっていても、千笑の中にある理性がストップをかける。

「私は、先生の作品を愛しています。
先生が今後も、素晴らしい作品を生み出せるように、担当含め皆で支えていきたいと思っています。
今後ともどうぞ、よろしくお願い致します」


傷つき過ぎたし、歳も取り過ぎたんだ、と頭を下げながら、千笑は思う。

きっともうここで理性を外して仕舞えば、歯止めがきかなくなってしまう。

彼の書く小説が好きだ。
作家としての彼を心底大切に思っている。
大好きで大切な作家が、今このままで在り続けるためには、きっと、沢山の付き合いや、芸の肥やしも必要だろう。
そういうもの全てをひっくるめて、大切にできる自信が、どうしても持てないでいる。
作家と編集ではない、私的な関係性になってしまえば、今のような節度のある関係は保てないだろう。

先生の全てが欲しい、私だけを見て欲しい。

今までに感じたことのない、強い欲望に飲まれてしまいそうで、その欲望が喜助の邪魔をするのではないかと思うと、身が竦む。

「千笑サ…」
「戻りました!」

喜助が何か言おうとした時、花奈が戻ってくる音が聞こえて、話はそこで途絶えた。