14話


がこん、と大きな音を立てて落ちてきた缶珈琲を取り出す。

「はぁ…」

無意識にため息が口を吐いて出た。

駄目だなぁ、私。

油断するとあの夜の気持ちが蘇って、そんな自責の言葉が自分に突き刺さる。

諦めて、手放した恋だったのに。

「未練たらたら…格好悪い」

休憩室のソファに腰掛けて、足を投げ出して天井を見上げた。





『入り口まで送らせてください』
『先生はまだ帰らないんですか?』
『…アタシはもうちょっと飲みたい気分なんで』

千笑はそう言いながら見送りに出てきてくれた、背の高い喜助を見上げた。

もう少し、今夜だけ、一緒に。

決して口には出せない言葉が胸を巡る。
持て余した気持ちが、不自然な間になって2人の間に落ちた。

『千笑サン?どうしたんスか?』

タクシーの前で躊躇した千笑の動揺を、喜助は敏感に感じ取る。
不思議そうに見つめてくる喜助の懐かしくて、優しい眼差しを切ない気持ちで受け止めた。

『先生、あの…』

駄目。

言いかけて、私は何を言おうとしているんだろうと、言葉を止めた。
その時だった。

『あら、浦原先生?』

一瞬の沈黙は、女性の声に遮られた。

『貴方は確か、古波出版の…』
『松本ですわ、先生』

栗色の豊かな髪、大きな瞳に長い睫毛。
厚みのある唇の下にある黒子が艶っぽい。
グレーのスカートスーツにブラックのタートルネックと、決して派手ではない服でも野暮ったくならないのは、そのスタイルの良さと美貌故だろう。

『奇遇ですわね』
『いやァ、ほんとっスねぇ。打ち合わせっスか?』
『えぇ。でもサボっちゃおうかしら。だって折角先生にお会いできたのに、お誘いしないなんて勿体無いじゃないですか』

そう言って、美女が悪戯っぽく喜助に微笑みかけるのを見て、千笑は鞄のストラップを握り締めた。

『先生、私はこれで』
『あ、千笑サン、』

呼び止められたことは分かっていたけれど、これ以上その場にいることが辛くて千笑は逃げるようにタクシーに飛び乗った。

タクシーに揺られながら窓ガラスに映る自分の顔を見て、やっぱり先生に私は不釣り合いだ、と喜助とあの美女のことを思い出しながらそう思って、目を逸らした。





あの後、2人はどうしたのだろうか。

あらぬ妄想が膨らんで、ドクドクと心臓が嫌な音を立てる。
千笑はもう一つ大きなため息を天井に吐き上げた。

こんなことになるから、やっぱりもう会わない方がいい。

言い聞かせるように、後悔と共に戒めの言葉を胸中で呟く。
それでもきっと暫くはこの釈然としない想いを抱えるんだろう、と千笑は脱力した。



「おいコラ、何サボっとんねん」
「…サボってないです、休憩です」

天井を見上げた視界に、ぬっと入ってきた平子の顔を特に驚きもせずに睨んだ。

「こわ」

眉を寄せて一言そう言うと平子は視界から消え、その後すぐに自販機の飲み物が落ちてくる音がして、静かに隣に腰掛ける気配がした。

「平子さん、サボんないでくださいよ」
「サボりじゃないですぅ、休憩ですぅー」

腹立つ。

隣を見ると憎たらしい表情で足を組む平子が、千笑と同じ缶珈琲の蓋を開けたところだった。
ふっと視線がずれて、平子と目が合う。

「…辛気臭い顔やなァ」
「悪かったですね。これがデフォです」
「そうか?もうちょいマシな顔しとったと思うけど」
「…」

言葉を返すのも面倒で、千笑は視線を逸らして溜息を吐く。

「あぁ、そや。お前聞いたか?」
「何をです?」
「伊藤、インフルエンザやて。当分出社NG」
「え、大丈夫なんですか?」

驚きと心配で思わず身体を起こすと、平子が苦笑する。

「仕事のこと心配しとったけど、まず休めて上司命令出したら、大人しく引き下がったわ。
アイツ実家暮らしやし、後は親が面倒見てくれるやろ。
お前にもメールする言うてたで。
なんや頼みたいことがあるらしいわ」

平子の言葉を聞いて慌てて携帯を取り出すと、液晶に花奈の名前が表示されていた。

『すいません…インフル罹ってしまいました…。
浦原先生の原稿、多分今日中に上がってくると思うのですが、万が一上がってこない場合は先生の家まで原稿回収にいく必要があります。
今まで大方FAXで上がってきていたので、今回も大丈夫かとは思いますが、もしも上がってこない場合は、回収お願いしてもよろしいでしょうか…?
すいません、本当に…。』

丁寧なメールの文面を読んで、よりによってこんなタイミングで、と弱音を吐きたくなるが、そうも言っていられない。
千笑は手早く指を動かして、返信の文章を打った。

『仕事のことは気にせずゆっくり休んで!
こっちは大丈夫だから。
返信はいいから、沢山寝て、食べて、復活してください。待ってます』

今日もう既に数回目の溜息をついて、携帯をしまう。

「伊藤も面倒見のえぇ先輩もって、幸せモンやなぁ」

にやにやと笑う平子を見て見ぬふりをして、千笑は立ち上がった。

「仕事戻ります…。夕方外出るかもしれません。もし出たら、そのまま直帰するんで」

結局開けなかった缶珈琲を片手に歩き出すと、お前も体調には気ぃつけやァ、と平子に声を掛けられた。