15話


「…出ない」

千笑は玄関先で立ち尽くして、あてもなく呟いた。

ずっとコピー機に張り付いていたが時間になっても今日に限って原稿は上がってこず、意を決して掛けた電話にも出なかった。

結局喜助の家まで来てみたが、インターフォンを押しても出てくる気配がない。

扉をノックして、先生?、と声を掛けてみるがやはり応答がなく、こうなってくると段々心配になってくる。

とりあえず平子に報告しようと携帯を取り出した時だった。


「…千笑サン…?」
「あ、先生!!」


インターフォンから喜助の声が聞こえ、思わず叫ぶと、室内からドンドンとやたら音を立てながら玄関に気配が近づいて来る。
そしてカチャン、と軽い音がして鍵があいた。

これってもしかして…。

嫌な予感を感じながらも待っていると、すいません、入ってきてください、とくぐもった声がして、千笑は念のためマスクをつけて、扉を開ける。


「千笑サン、すいません…原稿っスよね」


そこには玄関の壁に寄り掛かって、ヘラりと弱々しく笑う喜助がいた。









「まったく…もう!まったく!」
「ハハハ…なんだか、すいません」

文句を言いながら布団に横になった喜助が弱々しく笑うのを横目で見て、千笑は溜息をついた。

病院から貰ってきた薬をビニール袋から出し、盆に乗せる。

「どうせ、食事もまともにとってないんでしょう?」
「えぇっと…その…ハイ…」

この人はほんっとに…!

怒りをぶちまけたくなるが、目元まで布団を持ち上げている喜助を見て、ぐっと堪える。

「薬はご飯食べなきゃ飲めないので、仕方がないので作ります」

大人しく寝ててください、とぴしゃりと言い残して立ち上がった。



見るからに赤い顔で、体調不良が見て取れる状態での出迎えから、千笑はすぐさまタクシーを手配して、喜助を病院へ連れて行った。
先程帰宅して、喜助に着替えてもらっている間に布団を敷いて寝かせたところだ。

結果は疲労による発熱。
幸いインフルエンザではなかったが、熱が下がるまでは安静に、ということだった。
千笑としては、花奈の件があったためインフルエンザの可能性を疑っていたのだが、そうでなくてひとまずは安心した。
安心したと同時に、今度は腹立たしさが湧いてくる。

体調不良はいつからですか?と聞くと、2日程前から…とバツが悪そうに呟いていたのを思い出して、その間に何かあっていたらどうするつもりだったんだろう、と薄寒い想像をしてしまう。

体調悪いなら、出版社うちに連絡するなりしなきゃでしょ…!

コンビニで買ってきたパックごはんを鍋に開けて、お粥の用意をしながら千笑は思う。

もしも今日私が来なかったら?
倒れて身動きが取れなくなってしまっていたら?
呼べば来てくれる知り合いの1人や2人、いるだろうにどうして。

最後の思考に辿り着いて、はっとする。

勝手知ったる台所は、最後に千笑が整えたままになっていた。
千笑がこの家を出て以来、喜助以外のきっと誰も、この台所に足を踏み入れていないのだ。

この家に1人で、ずっと仕事をしていたのだろうか。
そう思うと、ちりっとした痛みが胸に走る。

喜助が自分に好意を抱いているのだろうということは、薄らと千笑も気がついていたことではあった。
けれどそれは、喜助にとって数多いるお相手のうちの1人として、だったのではないかと思っていた。
それでもいいと言えるくらいの覚悟でないと、好意を寄せてはならないと思ったから、身を引いたつもりだった。

それなのに。

煮立ってきたお粥の火を止めて、卵を回し入れながら千笑は考える。
どうして先生はいつまでも1人でいるのだろうか、と。