16話


食器が重なり合う音に、やかんのお湯が沸く音が重なる。
忙しなく歩き回る彼女の軽やかな足音が心地良い。

もうすでに懐かしさを感じる生活音に、喜助は静かに耳を傾ける。


情けないことこの上ないっスね…。

そっと息を吐く。

先程、こんな筈じゃなかったんスけど、と言いかけた言葉は、言い訳無用です!、と千笑にばっさり切り捨てられてしまった。
こほ、と口をついて出た乾いた咳に、確かに言い訳だったな、と苦笑する。

ここのところずっと根を詰めて書いていた話を、ようやく完結にまで漕ぎ着けた。
自分でも知らないうちに無理をしていたらしい、と喜助は自分を顧みる。

今までも一つに集中しすぎると生活することを忘れてしまう傾向にあったが、担当に千笑がついていた頃は良い意味で、行き過ぎる集中を切ってくれていた。

別れた妻がまた戻ってきてくれた夫の気持ちって、こんな感じだろうか。

首を横に向け、台所に立つ千笑の後ろ姿を見て、そんな馬鹿馬鹿しいことを想像してみたりする。


「先生、もう出来ますよ」
「ありがとうございます」

キツいかもですが起き上がって食べる準備してくださいね、と千笑らしい一言が飛んできて、確かに身体は辛い筈だが思わず緩んだ頬を隠すように、口元を手で押さえた。

運ばれてきた卵粥はやっぱりもうすでに口に馴染んだ味で、申し訳ないと思いながらも、空腹が満たされる幸福を噛み締めた。






「じゃあ、私はこれで…」

薬を飲み布団に横たわるまでを見届けて、千笑が静かにそう言う。

「もう…行っちゃうんスか?」

喜助は思わず、立ち上がりかけた千笑の腕を掴んだ。

こう言われれば千笑が断れないことも、これが狡い手だということも、分かっている。
それでも。

「もう少しだけでいいんで、傍に、いて欲しいっス」

じっと見つめると、千笑の目が泳いで、結局、じゃあもう少しだけ、とすとんと腰を下ろした。
喜助はほっと息を吐く。

「ありがとう」

きっと彼女を困らせてしまっているだろう、と喜助はぼんやりとする頭で思う。
握った手が熱くて、それが自分の熱なのか、千笑の熱なのか喜助には分からない。

「あの、先生…手を…」
「だって、こうしてないと千笑サン、すぐにどこかに行っちゃうじゃないっスか」
「う…狡い…です、先生」

あぁそうっスよ、アタシは狡いんだ。

消えいるような呟きを聞いて、喜助は半ば開き直るような気持ちでふっと笑う。
交わる視線の間になんとも言えない沈黙が降りて、千笑がそっと目を逸らすと、ふんわりと桜色に染まった首が見えた。

「ねぇ、千笑サン」

そっと名前を呼びかけて手の甲を撫でれば、千笑の肩がふるりと震える。

「やっぱりアタシは、貴方がいないと駄目みたいっスね」

戯けたつもりのその言葉は、何故だか縋るように聞こえてしまって、苦しい。
相当弱ってるな、と自分の状態を再確認して喜助は苦笑する。

ここまでにしておこうと、謝罪の言葉を口にしようとした時だった。

「どうして、私なんですか?」

千笑の震える声が聞こえて、温かい雫が零れ落ちて喜助の手に落ちた。