17話


思わず出てしまった本音と、一緒に零れ落ちた雫を慌てて拭う。
だが一度溢れてしまったそれらは、もう堰き止めることができなくて、千笑は必死で息を吸った。


「私じゃなくても、いいじゃないですか」

そんなふうに惑わせるようなことを言わないで。

「先生にはいくらでも、お相手がいるでしょう?」

期待させないで。

「一度に複数の女性を愛することだって、できるのでしょう?」

諦めさせて。

「っ…先生にとっては、遊びのつもりでも、私には心は一つしかないんですよ」

貴方が全てになってしまうことが怖い。
失うのが怖い。
だから。

「もっと上手に、恋愛できる方と、恋なさってください」

ずっと押し殺していた言葉たちが、次々に口を吐いて出てくる。
我ながら稚拙な、と思いながら止められなかった。

もっと大人なやり方で終わらせたかった、と千笑は次々に落ちていく涙を拭いながら思う。
いつの間にか離れてしまっていた喜助の手が、酷く寂しい。
そうやって、簡単に手を離してしまうんじゃないか、と心の中で盛大に罵る。
そんな幼稚な自分が嫌で堪らなくて、また涙が出る。

「ごめ、なさ…わたし」
「あー…もう!知らないっスよ?!風邪移っても!」

一旦離れた手が伸びてきて、ぐっと引き寄せられる。
体が傾いで、気がついたら千笑は喜助に抱き寄せられていた。

「せんせ、い」
「千笑サンは、ちょーっと、アタシのこと美化しすぎっス」

頭の上から降ってくる穏やかな声に、千笑は耳を澄ませる。

「まァ?ちょっと影のあるハンサムな男っていうのは認めますケド。
アタシの心だって、千笑サン、貴方と一緒で一つしかないんスよ?
一度に複数の女性に愛をあげられる程、器用でもないっス」

愉しげに、くすくすと喜助が笑った。
耳元で心臓が早鐘のように鳴っているし、身体が熱って熱い。

「そうだ、千笑サン。あの話、やっと書き上がったんスよ」

きっと今手がけている恋愛小説のことだろう。
腕の中で上を見上げると、穏やかに微笑む喜助と目が合った。

「覚えてます?取材旅行に行ったのを。
あの時、千笑サン、アタシに言ってくれましたよね。
思うままに言葉にすれば、それが読者の心の中の情景になると。
今回の話を書きながら、アタシの心の中にあった情景は、いつも貴方との日々だった」

聞いたことのない喜助の本音を、千笑はじっと聞く。

「アタシにとって貴方との日々から得る全てが、尊くて美しくて愛おしいものだった。
それがいつの間にか、アタシの創作の糧になっていたんスよ。
恋愛物の話なんて、そうでなければ受けなかったでしょう」

喜助は一旦言葉を切ると、千笑の髪を掬い上げて口付けた。

「千笑サンは、アタシの作品を愛していると言ってくれましたけど、その作品を生み出せるのは、貴方の存在があるからなんスよ。
そんな女性ひとは、そういません。
少なくとも、アタシにとってはこれが最初で、そしてきっと最後だ」

喜助の真剣な眼差しに囚われて、千笑は息を殺す。
そしてゆっくりと口を開いた。

「私、多分、先生だけになっちゃいますよ」
「望むところっスよ」
「先生にも、同じことを望みますよ。浮気とか嫌です」
「浮気なんてしません。大丈夫、もうすでに、アタシは千笑サンだけなんで」

甘い言葉が次々に降ってきて、千笑は困惑して俯く。
そんな千笑を見て、喜助は喉を鳴らして笑った。

「ちゃァんと、時間をかけて証明していくんで。
いいっスよ、今スグ信用できなくっても。
いずれそんな不安、笑い話に変えてあげますよン」

慣れっこになっていた喜助の軽口も、今は少し頼もしいと感じる。
千笑は微笑んで頷いた。



「…ところで、千笑サン…あの…アタシもう限界かもしれないっス…」
「わぁ!ご、ごめんなさい…!!」

抱き締められていたというか、最早半ば寄り掛かられていたことに気がついて、千笑は慌てて身体を離す。
布団に横たわるのを手伝うと、ありがとう、と少し笑って、喜助はそのまま眠ってしまった。

“また連絡します”と置き手紙を残して、千笑は家を出た。
新作の原稿をしっかり抱えて。


何となく家に帰る気分になれずに、誰もいないオフィスに戻った。
原稿を広げて読んでいく。
あとがきを読んで、千笑はまた泣いてしまった。