1話
「…ん…千笑サン…」
幸せそうに寝言を溢す喜助を見下ろす。
今日はオフだと伝えていたが、『千笑サンに会えないなんて寂しくて死んじゃう!』と、昨夜子供のように駄々をこねていた喜助のことが気になり、訪ねてみればこれである。
思いがけず聞いてしまった自分の名前を、千笑はどういう気持ちで受け止めて良いのか分からず、喜助の傍に座った。
とはいえ、自身の口が思い切り緩んでいることに、当の本人は気がついていない。
「先生!」
束の間の間そうして呆けていたことに気がついて、千笑は気を取り直し立ち上がる。
散らばった洗濯物を拾いながらもう一度声をかけてみるが、安らかに眠り続ける喜助を見て息を吸い込んだ。
「せ!ん!せ!い!」
本日何度目かの呼びかけの中でも特に大きな声で呼びかける。
「うわぁ?!」
流石に飛び起きて目を瞬かせる喜助を、千笑はいつものように呆れた顔で見つめた。
牧田千笑。
大手出版社、文芸出版部の編集者である。
三十路手前。
独身。
1年ほど前に、6年付き合ったいわば婚約者に振られて以降、恋人はいない。
これだけ聞けば、なんて侘しい独り身女なのかと哀れみを受けそうだが、千笑自身は、却って身軽になった、とむしろ清々しささえ感じていた。
今は仕事が楽しく、当分恋愛はいいかな、と思っている千笑であったがー。
「なんだか、新婚みたいっスねぇ」
「ちょっ…と、近いです、先生。そして私は先生の嫁でも、飯炊女でもないんですからね」
飯炊女!、と千笑が言った言葉を繰り返して、喜助がくすくすと笑った。
「千笑サンって、時々面白い言葉使いますよね」
「もう、うるさいなぁ。いつまで寝巻きでいるんですか。着替えてきてくださいよ」
ハイハーイ、と軽い調子で言って、足取り軽く去っていく喜助を背中越しに見て溜息をつく。
千笑の悩みの種。
それが担当作家浦原喜助の存在である。
入社当初、初めて担当についたのが喜助であったが、千笑はこれまで随分と振り回されてきた。
よく言えば自由奔放、悪く言えば、我が儘、気まぐれ、自分勝手。
千笑は喜助のことをそう見ている。
そんな喜助だが、最近は少しその、悪く言えば、の部分が落ち着いてきたように感じていた。
ただし、そう素直にいく訳もない。
「食事できましたよ」
「いやァ、朝から千笑サンの手料理なんて、贅沢っスねぇ。
いっそもう一緒に住んじゃいます?そしたら、毎日…」
「だから、私は先生の奥さんでも何でもないんですから」
「だァから、奥さんになってくださいって、アタシは再三言ってるんスけど?」
喜助は並べられた朝食を前に座ったまま、立っている千笑にへらっと笑いかけてくる。
千笑はお盆をぎゅっと抱きしめたまま、言葉に詰まった。
「…千笑サン、顔真っ赤」
「っつ…!うるさいです!もう、知りません!」
怒っちゃ嫌ですよォ、と気の抜けた声が追いかけてくるが、千笑は構わず背を向けて台所へ戻る。
最近、千笑が困っていること。
それは喜助の、この冗談である。
元々距離感は近い男ではあったが、恋人と別れて以降、どんどん露骨になっていくその態度は千笑を困惑させた。
揶揄われてるのは分かるんだけど、と千笑は心中で独言る。
普通、先生みたいな人に甘い言葉言われたら誰だってドキドキするって。
喜助が女性好きのする顔と性格であることは有名で、ここ数年は独りでいるようだが、千笑が入社する前までは、女性関係も自由奔放だったと上司に聞いたことがあった。
そりゃあ、先生は男女経験も豊富でしょうよ。6年間1人の男に時間を割いて青春時代を棒に振った私と違ってさ。
男慣れしていないせいで、一々その甘さに狼狽してしまう所を面白がられている認識はあるが、それにしたってこんな独り身女を揶揄って面白がるなんて鬼か?、と千笑は恨みがましく思うのだった。
「千笑サン、ご馳走様っス…え、なんスか?」
食器を持って台所へやって来た喜助を、千笑はじとっとした目で見つめるくらいの反撃しかできない。
続