6話
「岬の灯台がまた良い味出してて、素敵でした」
愉しそうに昼間の散策について報告する千笑を、喜助は温かい気持ちで眺める。
「良いっスね、アタシも明日の朝行こうかな」
「先生、起きれるんですか?」
「そこはホラ、千笑サンが優しく起こしてくれるのを期待して…」
「良いですけど、優しく起こしたって先生、起きないじゃないですか」
それもそうっスね、と喜助は笑って言った。
いつもより少しだけ柔らかい表情をしている彼女を見ていると、無理を言って連れてきた事は悪いことではなかったようだと、安堵する。
「先生」
「ハイ?」
不意に声をかけられて視線を合わせる。
「ありがとうございます」
ほろり。
たまに千笑は、そういう擬音語でしか表現できないように微笑む、と喜助は思う。
まるで花が咲きかける瞬間のように。
砂糖菓子が口の中で溶けて崩れる瞬間のように。
アタシの言葉が、貴方のそういう瞬間を表現できる色を持っていたら良いのに。
そうしたらアタシは貴方を言葉にして、いつだって貴方をアタシの世界に閉じ込めておけるから。
そんなことを思う自分の思考を、喜助は心に留める。
慣れない恋愛小説も、なんとか書ききれそうだと思い、そっと苦笑して酒の入った杯を口元に運んだ。
とろりとした舌触りの良い液体が流れ込んで、酒の香りがぬける。
「千笑サン」
その勢いを借りて、喜助は言葉を紡ぐ。
少なくとも、今日この時間だけは、アタシだけの貴方でいて、なんて包み隠さず言えるわけなんてないけれど。
「食事の後、月でも見に行きませんか」
千笑は目を大きく見開くが、はい、とはにかむように笑って言った。
.
「綺麗…」
海沿いの道まで出てきて、千笑は思わず呟いた。
今夜は満月。
穏やかな内海に、月明かりの筋を作っている。
時折さざめく海にきらきらと光が散っては、また戻る。
「ほんとっスね。綺麗だ」
喜助が声を掛けてきて、横を見ると月明かりがその微笑みを照らしていた。
駄目だな。
千笑は思う。
喜助の優しい微笑みを見ると、胸が高鳴ってしまう。
甘い言葉をかけられれば嬉しくなってしまう。
今しがたの、「綺麗だ」の言葉も、月でなく自分に向けられているように感じてしまうくらいに、喜助の言動に揺さぶられる。
月が綺麗。
この言葉の意味をお互い、知ってる筈だから。
もう誤魔化しがきかなくなってきていることを、千笑は自覚しつつある。
編集として失格だと、自戒したくなる。
作家先生に想いを寄せるなんて、公私混同も甚だしい。
「カメラ持って来ればよかったですね!
こんなシチュエーション、今回の話にぴったりじゃないですか?」
千笑は出来るだけ明るく、溌剌と声を出した。
これは仕事で、貴方と私は仕事仲間ですよね、と主張するかのように。
「そうっスねぇ。
でも写真にすると、今見えているモノとはきっと違うものになるんスよ。
作家としては、今、こうして見ているこの風景やこの想いを感じてもらえるような、そんな言葉選びができたならいいと、そう思います」
そっと、喜助の横顔を盗み見れば、穏やかな表情をしていて、千笑は息を吐く。
「…私が、先生の書く小説が好きなのは、私の心の中の言葉にできない風景を、先生が形にしてくれるように感じるからなんです。
きっと、読者も、同じような想いでいる方が多いと思います。
だから先生は思ったように、この風景を言葉にしてください。
それぞれの読者の心の中の風景がきっと、ふっと、浮かんできます。
先生の言葉には、そんな力があります」
そうだ。
自分で言った言葉を、千笑は深く噛み締めた。
作家として、喜助のことを尊敬している。
彼が生み出す作品を心から待ち望んでいるし、今の喜助が生み出せるモノを尊いと思っている。
そしてそう思っているのは、他の多くの読者も同じだろう。
だからこそ、邪魔になるようなことをしたくない。
気がつくと、喜助が驚いたような、嬉しそうな、そんな顔で見下ろしてきていた。
「嬉しいこと言ってくれるっスねぇ。
どうしたんスか、急に」
「煽てられてくれるといいなぁ、と思って」
「いやァ、流石、敏腕編集サン。目論見通りっスよ」
喜助がいつもの調子に戻ったのに、少しほっとして笑った。
「しかし、」
油断していた所に、喜助のしみじみとした声が降りてくる。
風に舞った髪を、そっと耳に掛けられたことに気がついた時には、もう目が合った後だった。
「貴方とこの月を見られて良かった。
良い話が書けそうっス」
そう言って甘く甘く微笑むと、さ、帰りましょうか、と喜助が歩き出す。
その後を少し遅れて歩きながら、千笑は紅い顔で溜息をついた。
潮時かな。
心中でそっと呟いて、でも、今この時間だけは、と自分に言い聞かせる。
この小さな港町の片隅にいる私と先生は、誰にも知られることのない2人だから、と。
続