思い出すのは、あの日の光景と匂いだ。
間近で驚いたように見開かれた目と、チョークと、洗濯洗剤と、先生の匂い。
あの頃は若かった、などと年寄りのようなことを言うつもりはないが、それにしてもやっぱり、あれは若さが成せる技だったと思う。
あれから10年。
世の中は随分変わったし、今じゃ皆マスク生活に学校ではタブレット学習だ。
こんな将来を想像もしていなかった。
28歳。
考えてみれば、あの頃の先生と同じ年齢だ。
先生はとても大人に見えていたのに、私の場合年齢だけが宙に浮いているようだ。
「苗字先生」
「…何」
「寝てるんですか」
「あのね…頭抱えてんの」
安い事務用椅子が、キィ、と不快な音を立てる。
向き合った男子生徒が、誤魔化すように笑った。
「まったく…笑ってんじゃないよ。実習生の先生揶揄う暇があったら、やることいくらでもあるでしょうよ」
溜息をついて、疼き出したこめかみを抑える。
「は?先生本気で言ってる?華の高校生活だよ?!やることなんて1つしかないっしょ?!恋だよ恋!」
居直って前のめりに主張する生徒に、アホか、と言いながら課題を手渡した。
「そうだよ、あんたら学生がやることなんて1つしかないの。勉強だよ、勉強。やりたいことやるんなら、とっとと学生卒業してからやんな」
▽
ーつってもねぇ。
ぎっ、と音を立てる椅子の背に体重を預けて、天井の蛍光灯を眺めながら、自分が言った言葉を反芻する。
学生から社会人になったからといって、したいことができるわけじゃない。
学生の頃、願っても叶わなかったことは、大人になってもやはり叶わないものだ。
ましてや彼らはこのご時世で、やりたいことも沢山制限されてきた筈だ。
学生生活なんてあっという間。
やり残したことはやり残したまま、思い出となって風化していく。
「もう28とか…こわ…」
教員免許をとって母校に凱旋。
聞こえはいいが、結婚はおろか、この歳になって彼氏の一人もおらず、ただただ地元に帰ってきたというだけの話だ。
親も気を遣って詮索してこなくなったことが虚しい。
「苗字先生、ちょっといい?」
「…はい」
あぁまた雑用だよどうせ、そう胸中で呟きながら教頭を見ると、案の定顔の前で手を合わせる姿があった。
何か物を頼む時だけこの態度、いつものことだ。
「理科準備室、もう今は殆ど使ってないから片付けて何か活用しようって、この前職員会議で決まったじゃない?」
「はぁ」
「それでね、片付けをお願いしたいんだけど。できれば今月中に」
「え、私一人でですか?」
「他の先生方は手一杯らしいんだよ。すまないね」
じゃあよろしく、と言って手渡された鍵を、教頭の禿げかけた頭にぶん投げてやりたい衝動を懸命に抑えて立ち上がった。
▽
「うわ…久々…」
母校に戻ってから、なんとなく意識的に避けていた場所。
扉を開けたらあの頃のまま、なんて都合のいいことはないが、色んな想い出が蘇ってくるくらいには、この部屋に思い入れがある。
浦原喜助先生。
今頃どうしているだろうか。
高校時代、最初で最後の恋だった。
今、自分に置き換えて考えれば、先生との関係が発展することなどあり得なかったと分かる。
そもそも18歳の子供に、きっと先生はなんの気持ちも抱いていなかっただろう。
それを勝手に盛り上がって、近づきたい一心で背伸びして、簡単にあしらわれて。
はっきり言って痛々しい。
失恋といえるほどの傷も負わず私の恋は終わりを告げたが、結局浦原先生が永らく理想の男性像として自分の中に居座り続けることになってしまった。
「これ…懐かし…」
段ボールを次々に運び出していると、ゴトリ、と音がして黒板が動いた。
先生はよくイーゼルに立てかけて使っていたことを思い出す。
「ぎえー…鳥肌…」
木の縁の部分、よく目を凝らすと、“スキ”の2文字。
紛れもなく高校生の私が、マジックで書いたものだ。
恥ずかしいを通り越して、血の気が引く。
「処分しよ、処分」
廃棄予定の物品は廊下に出して、用務員さんに処分してもらう手筈だ。
却ってこの作業を自分が引き受けて良かったかもしれないと思いながら、過去の遺物を消し去るべく『処分』の札を潔く思い出の黒板に貼り付ける。
中々に大きさと重量のある黒板だが、それ故に床を傷つきかねないので持ち上げるしかない。
重たくてよろけながら、部活で残ってる子達に手伝って貰えばよかった、と後悔が襲う。
よろよろと休み休み運んでいると、黒板の向こう側からパタパタと誰かが走ってくる音がした。
「…っと、危ない危ない」
誰かが呟きながら黒板の向こう側を誰かが支えてくれたようで、急に軽くなった。
足音が聞こえていたので期待はしていたが、本当に支えてくれたことに、じんわりと胸が温かくなる。
予想と違ったのは、てっきり生徒かと思っていたら、黒板の向こう側の相手が来客用のスリッパを履いていたことだ。
先生想いの生徒の心遣いかと暖かくなった胸は冷え、ありがとう、と言いかけた言葉を慌てて飲み込む。
「す、すいません!来訪の方に」
「いえいえ、いいんスよォ。お安い御用でス」
恐縮しながら謝ると、柔らかい声で返事が返ってきた。
良かったいい人そうで、と胸を撫で下ろす。
ここで大丈夫です、と声を掛けると、ハイという返事と共に一緒に床に下ろしてくれた。
「コレ、捨てちゃうんスか?」
「えっ!あ、ハイ、もう、」
倒れてこないように黒板を壁に立てかけて、使っていないので、と続けようと顔を上げる。
時間が止まった。
山積みの廃棄処分物品を眺めているその人を呆然と見つめて、亡霊でも見ているのではないか、と自分の目を疑う。
「あ、の…」
「あ、スイマセン。ボク昔ここで教員してまして。その時の物品が結構あったもので、つい」
亡霊が視線を上げて、今日は出前講義の件で打ち合わせに、と言ってふわりと笑った。
ーう、浦原先生だ。
マスクをしていても分かる。
その笑顔とふわふわの麦色の髪、声と仕草。
思わず、ばっと目を逸らして、頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
「エ?いやァ、そんなに感謝されることでも」
ーヤバい。顔上げられん。死ぬほど恥ずかしい。
マスク効果か、どうやら浦原先生は私には気がついていないようで、顔を上げてください、と話しかけてくる。
それならそれで思い出す前に離れてしまおうと、覚悟を決めて顔を上げる。
にっこりと大人の作り笑いを浮かべて。
「どちらに御用でしたでしょうか。ご案内致します」
一連の挙動が怪しいことこの上ないだろうと思いながらも、身元がバレるよりはマシという浅はかな考えの方が勝る。
「あ、いえ。もう用は済んだんで、帰るとこだったんスよ」
「そうですか。でしたら、正面玄関までお送り致します」
「あ、そうっスか?スイマセン、なんか」
どうぞ、と言って先に立って歩き出すと、少し後を浦原先生がのんびりついてくる。
早く送り出したい私とは違い、先生の歩調は穏やかだ。
「いやァ、懐かしいっスね」
ちらりと後を見ると、浦原先生は廊下の窓を見ながら目を細めていた。
「…出前講義ということは、今は大学の先生をされてるんですね」
無言では失礼だろうと、その呟きに言葉を返した。
喋ると気付かれそうで恐いが、自分の知らない先生の人生の方が気になったというのも大きい。
「えぇ。10年前はココで教員やりながら、論文書いてたんスよ。そりゃもう大変でした。けど、ボクは恵まれてたんスね。周りの先生方にも応援してもらって、先ほどの理科準備室を自由に使わせてもらってまして。その後論文をいくつか出すことができ、雇先の大学も見つかりました。出前講義を引き受けたのは、少しでもお役に立てることがあればと思ったからでして。出前講義といっても、このご時世なんでオンラインになっちゃいましたけど」
高校時代、浦原先生に何の特権があってあの部屋を個人で使っていたのか不思議だったが、そういう事情があったのかと今更ながら納得する。
そう考えると放課後のたびに、先生の自室と化したあの理科準備室で作業をしていた先生のもとににやってきては、グダグダと喋っていた私はさぞかし鬱陶しかっただろう。
ー本当、すいませんでした…。
実習生にちょっかいをかける男子生徒に注意したばかりだが、全くもって人のことは言えないと、本当に今更ながら後悔する。
「そうですか…凄いですね」
教員業務もこなしながらなんて、と続けると、まぁ研究は好きだったんで苦にはならなかったっスけどね、と答えが返ってきて、目が合うとふわりと笑った。
ー全然変わらないな、浦原先生。
目を逸らして歩き出しながら、昔と同じ、“素敵な男性”そのままの先生を前にして、心臓がぎゅうっと締め付けられる。
対して私は、日々悪戦苦闘しながらただただ日々を消化し続けるだけの一教員。
あの頃の勢いも、輝きも、今はもうなく、せっかく訪れたこの再会を掴む勇気もない。
そっと前髪を触って、すっかり打ちひしがれてしまった自信を思う。
「本日はお疲れ様でした」
正面玄関で、最後に正面から浦原先生の顔を見た。
これで本当に見納めかな、と思う。
「ありがとうございます」
とろり、と目尻が垂れるように笑う、その顔が大好きだった。
何となく二度目の失恋をするような心持ちなのは、きっとあの頃を思い出してしまったからだろう。
伏せた視線の先で、先生が靴ベラで靴を履いたのが見えた。
玄関に向かっていた靴の先が、一瞬止まって、こちらを向く。
「では、また。苗字サン」
「え、」
驚いて伏せていた視線を上げると、先程までとは違う、企んだような少し意地悪な笑みと目が合う。
「詰めが甘いっスよ?」
トントンと、自身の胸ポケットの辺りを叩きながら、浦原先生が笑った。
慌てて自分の胸元を見ると、白いプレート型の名札に名前が記されている。
「あ、の…!先生、気づいて、」
「さぁ、どうでショ?」
そう言いながら近づいてくる先生に、私は二の句が継げないまま立ち尽くす。
「そんな顔しなくても、また会えますから」
先生の喉仏が動いて、優しい声がした。
同時にふわりと先生の香りが舞って、懐かしい感触が頭に乗る。
「…まだ子供扱いですか」
「まだまだボクには及ばないっスからね」
やっとの思いで返した私の言葉に、ハハハ、と楽しそうに笑うと、浦原先生の掌が頭から離れていった。
後日、大学からの出張講義の担当に、教え子の
10年経って再び、浦原先生に翻弄されることになるのは、もう少し先のお話。