君は縁(よすが)A
「マジかよ…お前、えげつないな」
杉元と別れ話の顛末を話したら、おじさん、他人事と思えねぇわ、と何故か菊田部長が肩を落とした。
「なんで、部長が落ち込むんですか」
「いやだってよぉ…あいつの事考えたら…
ていうか俺次会った時どう声かけりゃ良いんだよ」
会社近くの居酒屋で、菊田部長の奢りで飲んでいる。
後から経理部の門倉部長が合流する予定だ。
2人の飲み仲間である杉元も誘おうと言われたが、彼が来るなら行かないと渋った。
大体、私の周りには奴の知り合いが多すぎる。
「今までだって普通に飲んでたでしょ。普通にしてりゃ良いんですよ、普通に。
大体もう半年ですよ。向こうも吹っ切れて、案外もう彼女でもできてんじゃないですか」
「いや、もう聞いちまったんだぞ。普通にたって無理だろ」
意識しちゃうよぉ、と情けない声を出す部長を横目に、ビールグラスを煽った。
駅から徒歩15分、風呂、トイレ別の1LDK。
大学卒業と共に、二人で探して住み始めた家だ。
半年前、その家を出た。
同棲を始めて5年目だった。
きっかけは、本当に些細なことだったように思う。
私が何かに怒って、彼がとりあえず謝って、それにまた腹が立って飛び出した。
本当はきっかけなんて何でも良くて、飛び出すきっかけを求めていただけだったのかもしれない。
息苦しいくらいに優しくて、不自由なあの場所から。
次の日、有給を取って1日で必要な荷物を纏めて、それからあの家には2度と戻っていない。
一人暮らしの生活は思ったより退屈で、だけど、とても自由だ。
「つーか、杉元は杉元でアレだけどさ、苗字、お前は大丈夫なのか?」
「え?何がですか?」
呆けていたら、思いがけない言葉が飛んできて驚く。
私のその顔を見て、菊田部長が呆れたような顔をした。
「俺ぁ、ここのとこお前の調子がおかしいんで、てっきり杉元と喧嘩でもしてんだろうと思って、飲みに誘ったんだぜ。
そしたら、半年前に別れたなんて言いやがるじゃねぇか。
妙なカラ元気振り回してやがるから何事かと思えば、そんなことになってたんなら、早く言えよ」
空になったグラスにビールを注いでくれながら部長が言った言葉を聞いて、自分の知らない自分の状態の話をされて更に面食らう。
「え、いや、私全然元気ですけど。カラ元気とかじゃなくて」
「お前…」
菊田部長が目を見開いて、驚いた顔で私を見た。
「お待たせー」
「門倉部長、と、月島さん?」
「そこで偶然会って」
「帰るとこだっつぅから、連れてきちゃった」
私の隣に月島さん、菊田部長の隣に門倉部長が、ガヤガヤと座って来て話は途切れた。
来客と共に席にやって来た店員に、瓶ビールもう1本ね、あとグラスも2つ、と門倉部長が注文を言っている。
それを横目に、月島さんに向かって首を傾げた。
「珍しいね、月島さんがこんな早く仕事上がってんの」
「鯉登主任に追い出された。仕事は山積みなんだけどな」
はぁ、と溜息を吐く月島さんを見て、鯉登くんちゃんと上司やってるんだな、と意外に思う。
月島さんにお世話されてばかりというわけでもないのだな、と思うと何だか微笑ましい。
「お通しと飲み物でーす」
店員のお兄ちゃんの間延びした声と共に、瓶ビールとグラスとお通しが運ばれてきた。
それぞれに注ぎ合って乾杯して、全員でグラスを飲み干す。
「うめぇ〜」
「門倉部長、おじさんくさいですよ、モテませんよ」
「いいも〜ん、おじさんだも〜ん。それに今更モテようなんて思ってませ〜ん」
門倉部長を揶揄うと、馬鹿みたいな返事が返ってくるから楽しい。
▽
「それの何が不満なんだ?」
「だからぁ…そう言われんのが不満だったんだよっ…!」
すでに酔いが回って目が据わった月島さんに、負けじと私も返す。
「周りも、何より杉元本人が、私は何があっても、どんなことをしても、離れないだろうって思ってるところが、心底嫌になったの」
吐き捨てるように言った自分の言葉に、自分で納得していく。
「杉元は、凄く良い奴だよ。優しくて、格好良くて、誠実で。
でも、私が言いたいのは、そういうことじゃなくて」
誰が見ても、杉元はいい男なのだ。
そんなことは分かっている。
分かった上で、私は、あの場所を、杉元を捨てて出たのだ。
杉元はきっと、私でなくてもいいのではないか。
私もまた、彼でなくてはならない理由などないのではないか。
こんなことを思わせるような相手と、この先ずっと一緒にいることはできないと、そう思ってしまった。
要するに、お互いにとってお互いが必要な人間なのかどうかが、わからなくなってしまった。
一度できた正体不明の疑念は少しずつ広がっていって、私の心を黒く塗りつぶしていった。
別れる前の数ヶ月は、一方的にずっと苛々していたように思う。
分かっている。私が最低なだけだ。
「わからん。
全くもってアンタが何を言いたいのか、俺にはわからない」
「…でしょうね。多分誰にも分かんないと思う」
ビールからとっくの昔に移行した日本酒に口をつける。
「あのさぁ…ずっと聞いてて思ったんだが」
菊田部長が頬杖をついて、じっと私を見た。
「お前、まだ杉元のこと好きなんじゃねぇの」
「は?」
突拍子のない言葉に、私は口をぽかんと開ける。
「好きだからこそ、不安になったって、そういうことだろ」
まさか、職場のおじさんに言葉にされてしまうとは。
酒のせいで、ぐらぐらと揺れる頭の中で悪態をつく。
「は?そうなのか?」
「俺もそう思ったね。さっさとヨリ戻しちゃえば?」
月島さんが怪訝な顔をして、門倉部長は眠そうに目を瞬かせながら酒を煽った。
好き勝手言いやがって、このおっさん達め…。
私の複雑な想いなどお構いもなく言葉を発するおじさんズに、苛々とした気持ちが湧いてくるが日本酒と共にぐっと飲み干す。
「だから…そういう気持ちになるから、嫌だって言ってんの…」
ぽつりと溢した呟きは、誰にも届かない。
こんな面倒な女、杉元からしても願い下げだろうと思う。
自分の気持ちもまともに言語化して伝えられないのなら、そばに居ない方がマシだ。
離れてしまってから気づく気持ちなんて邪魔でしかないな、とぎゅうっと締めついた心臓の痛みを諦めた。