ただ煙草を吸いにきただけだけですからB




指定された駅ビルの前に、仕事帰りの菊田部長が立っているのが見える。

濃ゆいネイビーのダブルチェスターコートに、ワインレッドのマフラー。

一瞬立ち止まって、遠目に部長の姿を眺めた。
本当に素敵な出で立ちだと思う。

好きだ。
私はやっぱり、菊田部長を暫く忘れられそうにない。
でも、もう部長を困らせることはしないつもりだ。

「部長?」

自分の中に沸き起こる、苦しいくらいの恋慕は見て見ぬふりをして、いつもの調子で声をかけた。

「お疲れさ、ん…」

じっと視線をくれる菊田部長の顔を見つめる。
いつものように強ばったその顔を、もう一度焼き付けておこう。
きっともう、こんなことはないだろうから。










「あ、菊田部長に声かけてみようか?奢ってくれるかも」

何気なく言う同期の言葉に、ぎくりとした。



合コンに来たはいいものの、男性と話す気にはなれず、シャンパンを次から次に飲み干していく。
傍らにいる同期に、彼氏候補を探さないのか、と聞くと何故かしゅんとして、もう諦めた、と言った。

シンプルなブラックコーディネートでも、それが映えるのは、はっきりとした顔立ちと滲み出る気の強さのせいだろう。
一見遊び慣れているように見えて、相当初心なこの同期は、訳の分からない男に絡まれがちだ。

これは2人とも駄目なやつだな、と判断し、私もまだ帰りたくないのでカラオケに誘ったら、彼女から「菊田部長を誘おうか」と提案があったのだ。

喫煙所でのことを思い出して、思わず動揺してしまう。
その動揺からの言葉も、冗談だと思われたのか、笑い飛ばされてしまった。

会社を出る時、なかったことにするって決めたじゃないか、と自分に問いかける。
週明けに会うのも、今日会うのも変わらないだろう。

それに、そもそも、菊田部長が私がいると知って、来ないことだって有り得るわけだから。

ちらりと彼女の綺麗な格好を見て、自分のいつもの格好を見る。

もしも、菊田部長が来るのなら。

「一旦帰って来てもいい?着替えたい。
21時くらいには合流できると思う」

腕時計で時間を確認して、いそいそと荷物を纏めた。


その後すぐに、菊田部長が来る旨の連絡が来て、私は浮き足だつ足取りそのままに帰路についた。



スマホが振動したのは、家に帰ってから15分程経ってからだった。
見知らぬ番号からの着信を訝しく思いながら、歓迎しない電話なら切っちゃおうかな、と適当なことを思いつつスピーカーにして通話ボタンを押した。

シャワー室にいたので、作業しながら通話しようと思ってのことだった。
自分が動くと、ふわりとボディクリームの良い匂いが漂う。

「はい?」
「あ、菊田です」

一瞬時間が止まる。

「えっ?!部長?!」
「悪いな、急に」

動揺から、慌ててスピーカーから電話通話に切りかえるという、謎行動をとった。

「今、いいか?」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください」

シャワールームから飛び出して、下着を身につけて床に落としていたワイシャツを羽織る。
深呼吸をしてスマホを耳に当てる。

「お待たせしました」
「大丈夫か?」
「すいません、ちょっとお風呂に入ってて」
「そ、そうか」

耳元で菊田部長の低い声が聞こえてくる。
咳払いも、あー、と言葉を探すような間も、全てが近くて、味わうように目を閉じる。

「あいつ来れなくなったらしいんだが、話したいことがある。
待ってるから、来てくれないか」

その言葉を聞いて、あぁ、と胃に重たいものが落ちてくる。
ちゃんと引導を渡されてしまうのだろうと、覚悟を決めた。

「…わかりましたぁ」
「頼むから来いよ。待ってるぜ」

再度念を押すように、後でな、と言うと電話が切れて、すぐにまたもや知らないアドレスからメールが届いた。
開けてみると菊田部長からで、待ち合わせ場所の位置情報だった。

緊張で立ったまま通話していた足から力が抜けて、壁に背中をつけたままずるずると座り込む。

「狡い」

ポツンと呟く声は誰にも届かない。
はぁーと溜息を吐いて、観念して立ち上がった。

この際だから、思いっきり着飾って行こう。

お気に入りのワンピースと、買ったばかりのパンプスを履いて、きっと仕事帰りのスーツ姿で来るだろう菊田部長の隣を歩いても、見劣りしない女として。
いつもざっくばらんに束ねるだけの髪も、ゆるく巻いてみよう。
化粧は薄く、透明感が出るように。

菊田部長の記憶に残る私が、綺麗な女だったとなりますように。








「…どこ行きます?」

一瞬止まった時間を進めるように、笑って会話の糸口を提示してみた。
何も気になんてしてませんよ、というメッセージを込めるが、伝わるだろうか。

「この時間ですもんね、遅くまで開いてるカフェとか…あ、でもお酒飲みたいですよね」
「おい、ちょっと待て」

私の苦し紛れの言葉たちを、菊田部長が遮ろうとする。

「バーはどうですか、この辺り、私結構お店知ってるんですよ〜」
「おい」

やだ。

どんどん痛くなっていく心臓が苦しい。

今話を聞いて、それから別れを告げられてしまったら、こんなふうに着飾ってきた自分が、惨めで虚しくて、死にたくなる。

「ワインとウィスキーのバーどっちが、」
「頼むから」

懇願するような菊田部長の声がして、いつか嗅いだ部長の濃い煙草の匂いがした。

「聞いてくれ」

チェスターコートのちくちくした素材が顔に触れる。
頭の後が暖かく支えられて、上から深い声が響いて、漸く抱きしめられていることを知った。

「ぶ、ちょ…?」
「…お前なぁ…狡ぃだろ。言いたいこと言って逃げ出しやがって」

掠れた声が菊田部長らしくない。

「俺のことが好きってことでいいんだよな?」
「は…い…」
「返事はいらねぇとか、言うなよ。勝手に自己完結しやがって」
「でも、」
「あのなぁ、お前分かりにくいんだよ」

おっさんはなぁ、はっきり言われねぇとわかんねぇんだよ、とボヤきのようなことを言いながら、それでも頭の後ろに添えてくれた手が、ぽんぽんと2回優しく叩かれる。

恐る恐る上を向くと、今までにないくらい近くに菊田部長がいた。
視線が重なる。

今までだったら強張っていた部長の顔が、ふっと力の抜けた優しい笑みになっていた。

「まぁでもやっと、気持ち聞いたからな。これからは遠慮しなくていいってことだろ」

そう言った菊田部長があまりにも格好良くて、言葉を失う。

「さてと…デートだな」
「で?!」

部長には似つかわしくない言葉に驚いて、デート…と呟くと、あぁ?と少し赤い顔で顔を見返されて、それから口を尖らせた。

「好きな女が好いてくれてるって言うんだ。俺だって、浮かれるくらいする」

あぁこの顔は知ってる。
可愛くて、格好良くて、私の大好きな菊田部長。

「うえぇ〜」
「だ?!おいおい…俺が泣かせたみたいだろうが、泣くな…」

あたふたと慌てる菊田部長に、安心して更に涙が出る。

ずっとずっと胸に秘めてきた想いだった。
だから今この瞬間、解き放ったこの時だけは、泣くことも、笑うことも、全部許してほしい。






「俺は、てっきりお前は鯉登と付き合ってるんだと思ってたよ」
「え?!なんでそうなるんですかぁ」
「だってお前らすげぇ仲良いじゃねぇか。社内でも噂になってたぞ」
「えー!知らなかった…」
「知らなかったってお前な…」
「…もしかして、妬きもち焼いたり…?」
「…………少しな」
「部長可愛い…!好き…」
「…お前、部長部長って、ここ会社じゃねぇんだぞ」
「…じゃあ、先に私のこと名前で呼んでください」
「名前」
「ぎゃ!なんでそこは躊躇わないんですかぁ」
「ほら、お前の番だぞ」
「ハードル高いよ〜」

この日々がずっと続けばいいと願う。



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