夢なんかじゃない@
鯉ちゃん、と親し気に彼のことを呼ぶ、その人のことがずっと羨ましかった。
私がその立場にいられたらと思う自分と、彼女のように綺麗でもなければ仕事ができるわけでもない私が何を、と思う卑屈な自分がいつもせめぎ合って、そして結局“どんな状況であったとしても私には無理”という自信のない弱気な私の一声が勝るのだ。
もういっそ、当たって砕け散ってしまえるくらいの勇気と無鉄砲さがあれば潔いいものを、と思うけれど、そういう行動に踏み出す自信さえない。
シンプルな包みについたリボンの赤色を視界の端に残して、ぱたんとデスクの引き出しを閉めた。
*
「んん〜!」
時刻は朝7時。
早朝のオフィスには誰1人として人はおらず、しん、と静まり返っている。
とりあえず通勤鞄をデスクに置くと、一旦伸びをして、コーヒーメーカーに足を運んだ。
サーバーに水を入れ、コーヒーメーカーに入れる。
ちょうどウォーターサーバーの水がなくなったので溜息をつくが、とりあえずコーヒー粉をセットしてコーヒーメーカーのスイッチを押すと、ガガガ、と音がして機械が動き出し、コーヒーの匂いが漂い始めた。
こうして朝に雑務をやってしまうのが、いつもの私の日課だ。
早朝のオフィスが好き。
人がいない時間帯に落ち着いて仕事を整理して、業務がスムーズに進められるようにする。
1人でいたいというわけではないが、1人は落ち着く。
空になったウォーターサーバーのボトルを持って廊下を歩く。
営業部の備品庫に替えを取りに行くのだが、めちゃくちゃ重たいので引きずって歩くしかない。
備品庫の扉を開け、空のボトルの置き場に置いて、よし、と重いボトルを持とうと腕を捲ったところで、備品庫の扉が開いた。
「おはよう」
「あ…鯉登主任、おはようございます」
主任の鯉登さんが立っていた。
自然と強張る声を、なんとか抑える。
急いで来たのか少し乱れた息を、ふぅと整えて、それからニコリと笑った。
「遠目にボトルを持って歩いてるのが見えたんでな。間に合って良かった」
そう言いながら、替えのボトルをひょいと持ち上げてくれる。
「あ、すいません」
「そういう時は、ありがとう、だ」
つい口から出た謝罪の言葉に、ふ、と鯉登さんが笑った。
背中越しに向けられた視線に、胸がぎゅう、と締め付けられる。
「あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」
鯉登さんの後をついて歩きながら礼を言うと、満足したような返事が返ってきた。
朝からこうして会話ができたことが嬉しくて、ふわふわとした頭で隣を歩く。
オフィスに入って鯉登さんがサーバーにボトルをセットしてくれると、コポコポ、と音がした。
その音を聞くともなしに聞いた後、鯉登さんが私を見る。
「苗字、いつも早く来て、色々準備してくれているだろう。ありがとう、助かっている」
「あ、いえ、自分の業務のついでなので。私仕事遅いから…朝やると捗るので」
あはは、と笑って見せると、鯉登さんが眉を寄せて溜息を吐いた。
何か悪いことを言ってしまったかと、途端にオロオロし出した私を見て鯉登さんが苦笑する。
「苗字、もう少し自分に自信を持て。お前の仕事は遅くないぞ?
それに、真面目で、努力家で、頑張り屋だ。お前のメンターとしてずっと見てきたから、私は知っている」
そう言って大きくて暖かい手を、ポンポン、と私の頭に置いてくれた。
「…はい…。ありがとうございます…」
「うん。励めよ!」
「はい…!」
貴方にこうして褒められたくて、失望されたくなくて、頑張っているなんてきっと思いもしていないだろう。
仕事ができるようになりたいとか、成果を上げたいとか、そんな高尚な目標は特にないと知れたら、鯉登さんはきっと軽蔑するのではないかと思う。
そうなるくらいなら、毒にも薬にもならない、いち後輩としていられればそれでいい。
「おはようございます…って2人して何やってるんですか」
いつも早い月島さんが今日も早くに出社して、ウォーターサーバの前にいる私たちに怪訝な目を向けるので、慌てて鯉登さんを残してその場を離れた。
隣の席の月島さんは同期入社だけれど、私よりも歳上で社会人経験もある人なので、頼りになる先輩として仕事を一緒にさせてもらうことが多い。
朝に仕事をすると捗るぞ、と最初に教えてくれたのも月島さんだ。
「おはようございます」
「おはよう、今日も早いな」
「いつも通りです」
「ん。ちょうどいい、昨日のリスト確認やってしまうか」
「はい!」
「コーヒーやってくれたのか。いつもありがとう」
「いえいえ」
いつもの挨拶を交わすと、オフィスに漂うコーヒーの香りを、くんくん、と嗅いで月島さんが礼を言うので、顔の前で手を振る。
「月島ぁ!コーヒー飲むなら取りに来い」
鯉登さんに声をかけられて、はぁ、と月島さんが溜息を吐いた。
「あ、私が」
「いい、いい。リストの準備しといてくれ。苗字も飲むか?」
「ありがとうございます、いただきます」
「ん」
月島ぁ!と尚も呼ぶ鯉登さんの所に、はいはい、と言いながら近寄っていく月島さんを見送ってパソコンを立ち上げた。
▽
『私が今日から君のメンターだ。よろしくな』
3年前、そう言って爽やかに笑った鯉登さんに恋をした。
新入社員の育成係としてついてくれたのが鯉登さんで、最初はただただ王子様みたいな彼に憧れていただけだったが、相当な努力をしている方だと知ってからは尊敬の方が勝っているように思う。
鯉登さんは、とても優しくて、そして、繊細に人のことをよく見ている人だ。
誰かの傷つきや悲しみに敏感な人。
私の弱さやの自信の無さも、すぐに感じ取って掬い上げて、丁寧に育ててくれた。
こんなことがあった。
私のミスを一緒に頭を下げてくれた時に、ショックを受けている私に鯉登さんは微笑んで
『仕事は1人でしてるんじゃない。だから皆んなでカバーするんだ。これで学んで次に活かせれば、皆んなの仕事に還元される。社会はそうやってできている。だからいいんだ、そんな顔をするな。次に繋げような、苗字』
と、わしゃわしゃと頭を撫でてくれた。
責めるでもなく、ただ失敗は失敗としてしっかりと認め、次への道標を指し示してくれる。
そういうことがさらりとできるのは、きっと、本人が人との輪や繋がりを大切にして、とても素晴らしいバランスで仕事をしているからだろう。
そして彼は先輩から、主任になった。
そんな素敵な鯉登さんは、社内でもとても人気がある人で沢山の女性が彼の恋人の座を狙っている。
私は、ただ見ているだけで精一杯だ。
好きだと思うことさえ気後れする。
どうしてこんな身の程知らずな恋をしてしまったのだろうと思うこともあるが、こればかりはどうなるものでもない。
それに、彼には恐らく恋人なのではないかと噂される人がいる。
「鯉ちゃん、私、喫煙所にいるね」
「お前、いい加減にしないと身体悪くするぞ」
「いいのいいの」
仲睦まじく鯉登さんと言葉を交わすのは、同じく営業部の女性主任だ。
彼女は有能で、鯉登さんと共に主任として営業部を回している。
おまけに性格も良く、目元の甘いおっとり美人ときている。
「鯉登主任と付き合ってるって本当かなぁ。でもよく総務部の菊田部長といるところも見るよね」
隣の席で恋バナ好きの同期の前山くんが、こそこそとそんなことを言った。
ちくりとする胸の痛みを見ないふりして、私は笑う。
「どうなんだろうね。でも鯉登主任とお似合いだよね」
そう、2人はどこからどう見てもお似合いなカップルだ。
失恋には違いないけれど、彼女は大好きで尊敬できる先輩で、その人が鯉登さんの恋人なら、良いなぁと思えるのだ。
「そうだねぇ。僕は月島さんと苗字さんもお似合いだと思うけど」
「えぇ?月島さん?」
にこにこと笑う前山くんの言葉に吃驚して、私は愛嬌のあるその可愛い顔を見た。
どうしてそんな話になるのだろう。
「そんな、月島さんに悪いよ」
「俺がなんだ?」
横から急に声がかかって、わぁ、と声を上げたら、月島さんが外回りから帰ってきたところだった。
私と前山くんを見下ろして、鞄を椅子に置く。
「恋バナですよ。月島さんも混ざります?」
「なんだそれは。仕事しろ、仕事」
私を挟んでウキウキしたように言う前山くんに、月島さんが呆れたように言って上着を脱いだ。
2月の寒空の下外回りをして冷えたのだろう、耳や鼻が赤くなっている。
「お帰りなさい。寒かったでしょう。コーヒー飲みますか」
「あぁ、すまん、ありがとう」
「前山くんは…白湯だっけ」
「うん。自分のがあるから大丈夫」
実は意識が高い前山くんは、丁寧に家で沸かしてきた白湯をマイボトルに詰めて持参している。
白湯〜?と片眉を上げた月島さんに苦笑しながら、席を立ってコーヒーメーカーに向かう。
使い捨ての白いカップをホルダーにセットしていると、背後からにゅっと手が伸びてきてカップを一つ取った。
「わ、」
「私の分もいいか」
振り向いたら鯉登さんが立っていて、休憩だ、と空のカップを持ち上げて見せる。
「ど、どうぞ」
至近距離で聞いた鯉登さんの声にドキドキしながら、そのカップにコーヒーを注ぐ。
「ありがとう。ところで、」
カップを受け取って、鯉登さんが何か言いかけた。
顔を見るとなぜだかとても真剣で、少し気圧される。
「恋バナとかなんとか、聞こえたが」
まずい、仕事と関係のない話をしていたから怒ってしまったのかも、と身構える。
「すいません…職場で、」
「いや、私も聞きたい」
「へ?」
予想外の返答に間抜けな声が出る。
この人は真剣な顔で、何を。
「そうだな、まぁでも業務中にする話題でも無かろう。よし、今日飲みに行こう、前山と月島を誘ってくれ」
「えぇ??」
「なんだ都合悪いか、今日は」
「い、いや、行けますけど、急で吃驚して」
それに“恋バナをしよう”と言って集まる飲み会となると、なんだか女子会みたいで、その可愛らしい飲み会に前山くんがいるのは分かる気がするが、月島さんや鯉登さんがいるのは凄く違和感で、とても可笑しい。
「ふふ…ふ…あは…」
「なんだ、どうした」
修学旅行の夜よろしく恋バナをしている鯉登さんと月島さんを想像したら、笑いが止まらなくなってしまい、すいません、と言いながらひとしきりクスクスと笑った。
「ふふ…わかりました、お2人に声をかけますね」
「何がそんなに面白いのか分からんが、頼んだ」
暫く笑っていた私を困ったように見ていた鯉登さんが、ほっとしたように眉尻を下げた。
「でも、鯉登主任も恋バナに興味があるんですね。前山くんは好きですけど」
月島さんの分のコーヒーを注ぎながらそんなことを言うと、鯉登さんは、そ、そうだな!と嫌に元気な声を出して、じゃあまた後で、と言い残して自席に戻っていった。