夢なんかじゃないB
これ素敵だな。
たまに行く革製品のブランド店で、ネイビーの革のIDケースを見て、鯉登さんの顔が浮かんだ。
少し前にIDケースの紐が千切れて、それから忙しくて買いに行けないのか、鯉登さんらしくない青い紐にビニールの量産型のIDケースを首からぶら下げていたことを思い出したのだ。
自分のパスケースを新調しようと思って行ったのに、たまたま見つけたそれからどうしても目が離せなくなってしまって、結局店を出た時には丁寧にラッピングされた紙袋をぶら下げていた。
今デスクの中できちんと行儀良く収まっているその紙袋のことを思うと、とても居心地が悪くなる。
なにせ今日はバレンタイン。
渡すならば今日しかないわけだが(誕生日は12月だったしこれを逃すと口実がない)、とてもじゃないが渡せそうにない。
大体、ハイブランドではないとはいえ、やはりちゃんとしたそこそこ値段のする物だ。
貰う側は重たいのではと思うし、そこには必然的に“本命”という意味合いがくっつくだろう。
いや、無理だよ、やっぱり。
溜息を吐き漏らしてお昼ご飯に行くためにデスクの片付けを始めたところで、先輩が近寄ってきた。
「ねぇねぇ、苗字ちゃん。今日なんだけど仕事の後予定ある?」
「いえ?特には…」
「今日ねぇ、鶴見商事主催で合コンがあって、総務部の同期と行くんだけど一緒に来る?」
結構良い会場で美味しいもの食べられるよぉ、と、にこにこおっとりと先輩が笑う。
鶴見商事といえば大口の取引先だ。
月島さんの担当になっていたけれど、向こうは男性の結構アクの強い担当だと言っていた気がする。
その人も来るのだろうか。正直嫌だなぁと思うけれど、先輩がわざわざ誘ってくるということは、付き合い的には行っておいた方が良い案件ということなのだろうか。
「えっと、じゃ」
「おい、苗字には今日私が頼みたい仕事があるから駄目だ」
返事をしようとしたら、遮られて驚いて肩が上がる。
振り向いたら、いつの間にか近くに来ていた鯉登さんが、先輩に向かって不機嫌そうな顔をして立っていた。
「えー?時間外に仕事させる?」
「月島は会食で直帰、前山は半休で、お前はそれに行くとなると、残るのは私と苗字しかいないのだから仕方ないだろう」
不満そうな声を出した先輩と鯉登さんが、私を挟んでバチバチと火花を散らす。
間に挟まれてあわあわしていると、先輩がぐいっと私に顔を近づけた。
「苗字ちゃんはどうしたい?残業か合コンか、勿論どっちも無しっていうのも全然アリだからね!」
「えっ」
これは断ってもいい案件だったのか、と先輩の言葉をきいて気づくが、念の為おずおずと尋ねる。
「鶴見商事との合コンは、その…仕事的に行っておいた方がいいことでしょうか…?」
そんなことを聞く私に、へ、と先輩が口を開けて、慌てた様子でブンブンと顔の前で手を振った。
「ごめん、そんな風に誘っちゃってた?
全然そんな事ないから!タダでご飯食べたければって程度」
本当に良い先輩だなぁと思う。
この人には思っていることをちゃんと言っても大丈夫だと思える。
「お誘いありがとうございます。でもそういった集まり苦手で…。
なので、今日は鯉登主任のお手伝いをして帰ります」
ぺこ、と頭を下げると、なんて良い子なの…!と先輩が大袈裟に口元を手で覆った。
そして横にいる鯉登さんに、なるべく早く帰してあげてよね、と釘を刺す。
「当然だ。言われなくても分かっている」
憮然とした表情でそう言って、すまんな苗字、と眉を下げて鯉登さんが言うので、全然大丈夫です、と答えた。
実際、鯉登さんが横から声をかけてくれなかったら、そのままついて行って要らぬ気苦労をしただろうと思うと、有難いことだと思う。
▽
「鯉登主任、頼みたい仕事って…」
「あぁ…そうだったな。えぇっと、これなんだが」
終業後先輩が、ちょっと一服行ってきます、と荷物を椅子に置いたまま席を立ってしまうと、フロアには私と鯉登さんだけが残された。
自分の業務が粗方片づき、鯉登さんの元へ行くと来週のプレゼンに使う資料を渡されて、誤字脱字や内容を新しい目でもう一度チェックしてほしいという。
「わかりました」
頷きはしたものの、勤務時間内に言って貰っていれば時間見つけてできそうな業務だけどな、と不思議に思う。
不快ではないが、無駄なことをあまりしない鯉登さんにしては珍しい。
デスクに戻ってざっと目を通すと、そこまで複雑な資料でもなく、すぐに終わりそうだなと思うと、少しだけがっかりする。
鯉登さんと2人になる時間なんて、そんなに多くないのになぁ、なんて。
ペンを持って資料を読んでいると、喫煙所に行くと言っていた先輩がバタバタと走り込んで来た。
「お疲れ様です〜行ってきます〜」
口調はいつものおっとりした穏やかなものだが、椅子に置いた荷物を引っ掴んで、またすぐに走って出て行ってしまった。
勢いが物凄くて、私も鯉登さんも驚きつつ挨拶を返すが、あっという間に先輩の姿は見えなくなる。
これで完全に2人になってしまった。
私はゆっくりと資料に目を通して行く。
少しでも、鯉登さんと同じ空間にいたいと思うくらい、我儘ではないだろう。
結局例のプレゼントは渡せなさそうだけれど、別で用意していたチョコレートだけは、帰りに渡そう。
前山くんには渡しそびれてしまったけれど、月島さんには既に渡した。
実はその2人へのチョコレートとは違う、少しだけ良い物を鯉登さんには用意したので昼間に渡せなかったのだ。
…チョコレートを渡すだけのことなのに、物凄く緊張してきた。
「苗字」
考え事をしていたら、いつの間にか鯉登さんが横に来ていたことに全く気がついていなかった。
名前を呼ばれて初めて気がつくと、隣の月島さんの席に鯉登さんが座ったところだった。
「少し、いいか」
「え、は、はい」
真剣な目で見つめられて、なんだろう、と思う。
頷いて私も居住まいを正して向き合う。
「単刀直入に聞く。月島のことが好きなのか」
「へ?」
急な質問に疑問符が飛ぶ。
「な、何を」
「仕事をしている様子を見ていると息ピッタリだ。それに良く食事にも行くと言うし、前山も似合いの2人だと、それに、」
「ちょっ、ちょっと、まっ」
「そうであるなら教えて欲しい。出過ぎたことだと分かってはいるが、だが、」
「あの、主任、鯉登さん!待ってください!」
物凄い早口で喋り続ける鯉登さんを少し大きな声で制止すると、ハッとした顔をして、すんもはん…、とお国言葉でしゅんとして謝った。
鯉登さんの方言が出るなんて、益々どうしたのかと心配になる。
「大丈夫ですか?何かありました?」
そう尋ねると、鯉登さんがぎゅっと口を噤んで、それから、下に下げていた視線を私に戻した。
「今日、月島にチョコを渡していただろう」
ぽつり、と呟くように言ったその言葉に、見てたんだ、と驚く。
「義理なのかと思っていたが、私も前山も貰っていないから…あれは本命だったのだろう?」
追いかけるようにしてぽつりぽつりと続いていく言葉と共に、表情が段々と暗くなっていく。
苦しくて、切ないその表情に、まさか、と淡い期待を抱きたくなってしまう。
でも、どうしてそんなに傷ついたような顔をするんですか、とは、自分の浅はかな期待が間違っていると知るのが怖くて聞けない。
「…あの…偶々です。
前山くんと月島さんには、同じ物を用意していて、前山くんには渡しそびれてしまっただけで…。
鯉登さんには、彼らとは違う物を用意してたので、彼らの前で渡すのが気が引けたんです」
「…へ…じゃあ、月島のは」
「本命ではないです。いつもお世話になっているお礼として、気持ちは込めましたけど」
「そうなのか…!」
代わりに鯉登さんにチョコレートを未だに渡せていない理由を伝えると、鯉登さんの表情がぱぁっと明るくなった。
その反応を、私は一体どう解釈すればいいのだろう。
用意していた本命のプレゼントを、もしかして渡してもいいということなのだろうか。
それとも、私の勘違いなのか。
でも、ここで渡さなかったら、一生後悔するかもしれない。
そんな思いが一瞬過ぎる。
「あの、それで、これが鯉登さんへの…」
どうぞ、と言って引き出しから取って差し出したのは、結局プレゼントではなくて、チョコレートの方。
どこまでも意気地のない自分が嫌になる。
「あ、ありがとう」
そう言って大事そうにチョコレートを受け取ってじっとそれを見つめてから、おもむろに視線を合わせて口を開いた。
「その、これは…月島や前山のとは、つまり、義理とは違うということなのか?」
その言葉に私の息が詰まる。
がんばれ、私。
きっと、これが最後のチャンス。
「…もしそうだったら、困りますか?」
言った。
言ってしまった。
もう後戻りはできない。
心臓が耳にあるみたい。
首を通る血管が、どくどくと脈打っているのがわかる。
耳鳴りがキーンとして、目がチカチカする。
火照りからじんわりと潤んでいく視界で、鯉登さんがチョコレートの包みを顔に当てて、はー、と長い長い溜息を吐いて、それから、
「困っわけがなかじゃろ」
と、太陽が一気に輝くような笑顔が向けられた。
そしてそれが、一瞬にして蕩けるような笑みになる。
「ずっと、好きだった」
はにかんでそう言う鯉登さんの言葉は真っ直ぐに私に届いて、信じられないくらいに嬉しくて、とうとう涙腺が決壊してしまった。
「ふえぇぇ…うぅ…」
「まわりくどいことをして、すまんかった」
鯉登さんの大きな手が頬に触れて、さすさすと頬を親指の腹で撫でてくれる。
もっと感触を確かめたくて、その手を上から握って頬を擦り付ける。
「夢じゃ、ない…?」
そう言ってみたら、鯉登さんが一瞬目を見開いて、気がついたら吐息がぶつかっていた。
柔らかい唇の感触が触れる。
「…これが夢だと思うか?」
囁かれた声が甘くて、頭が沸騰しそうだ。
鯉登さんはぼうっと見惚れる私の頭をぽん、と撫でる。
「よし。今日はもう帰るぞ!」
そう言って、鯉登さんが楽しそうに立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「デートだ、苗字!」
きらきらぴかぴかと星が舞う。
これからずっとこんな調子なら、私の心臓がもつかどうか。
*
「鯉登さん、実は、本命のプレゼントが別にあって…」
「え?!」
「これなんですけど」
「…開けてもいいか?」
「どうぞ」
「これは…」
「鯉登さん、IDケースの紐千切れたって言ってたから…」
「嬉しいぞ!物凄く!」
「わぁ!…びっくりしたぁ…」
「…もう、我慢せずにこうやって抱きしめられる。ずっとこうしたかった。
ホワイトデーは期待してくれ」