散歩道B
『名前ちゃん?!大丈夫?』
「ずみばぜん……熱が……」
『うわぁ辛そうだねぇ。
仕事は本当にマジでどうにでもなるから、気にしないで!元々俺が回ってた区域もらって貰ったんだからさ』
「ほんどに、ずみばぜん〜……!!!」
『もう謝るの禁止!分かった?
後で玄関に差し入れ掛けとくから、要るものメッセージ送っといてね、絶対だからね?!』
申し訳ないやら情けないやらで、電話口の杉元さんに向かってひたすら頭を下げながら泣いていると、きっと疲れが出たんだよ、良く頑張ったね、という優しい言葉を掛けられてもっと泣いてしまった。
2月の冷たい雨に降られたからか週明けから何となく調子が悪かったのだが、結局しっかりとした風邪を引いてしまった。
幸いインフルエンザでも流行病でもなく、がっつり腫れた扁桃腺が原因で高熱が出たらしい。流石にこれでは仕事は無理と判断して泣く泣く休みを取ったのだった。
バレンタイン当日も配達には出たのだが、意図的にいつもの公園は避けた。このまま白石さんに会わないつもりだった。
あと1週間もすれば3月に入る。
2月の最終週は残務整理で事務所にいるように言われているし、3月からは本部での研修が1ヶ月間あるから配送業務には出ない。
本当にこのままフェードアウトだなぁ。
熱で潤んだ目で天井を眺めて、ぼんやりと思う。
熱い瞼をぎゅうと閉じると涙が溢れて頬を伝っていった。
体調を崩すと気持ちまでふやけてしまうのは子供の頃からだ。
これは熱のせい。
だからちゃんと眠って、熱が下がって、元気になれば大丈夫だ、と自分に言ってみる。
薬が効いてきたのか熱の辛さが和らいで、ふわりとした眠気が降りてきてきた。
身体がベットに沈み込んでいくような感覚に身を委ねる。
夢を見た。
白石さんと何でもない日常を送る夢。
今日はどこへ行こうかと、手を繋いで歩いた。
商店街にあるコロッケ屋さんでコロッケを買って、店のベンチに座ってコロッケを頬張る。
寄ってきた猫に慌てる白石さんを見て私が笑って、笑い事じゃないぜ、と言いながら白石さんも笑った。
空が青くて、穏やかに晴れた冬の気持ちの良い午後だ。
白石さんが私を見て言う。
今日の夕飯、何にする?
私は考えて言う。
鍋がいいなぁ。白菜と豆腐がいっぱい入ったやつ。
白石さんが笑った。
名前ちゃんは鍋好きだよなぁ。まぁ、俺も好きだけどね。
そう言って、寄せてきた頬を私は当然のように受け入れる。
泣きたくなるくらい幸福な日常。
白石さん、と呼ぶと、だから由竹だって、と白石さんが眉を下げるから慌ててしまう。
それを見た白石さんが、呼んでみな、と少し意地悪に笑った。
「……よし、たけ、さん」
「はいよ」
現実で返ってくる筈のない声が返ってきて、あぁこれはまだ夢の延長か、と思いながらぼんやりとした頭を声のした方に向ける。
「………………え“?!」
「おはよう」
すぐ近くで、胡座をかいて座っている白石さんが困ったような笑顔を向けて手を挙げた。
「え“、ちょ、ど?!」
「ごめんねぇ、勝手に上がり込んで」
慌てて起きあがろうとして止めたり布団で顔を隠そうとしたりと忙しい私を見て、白石さんは夢の中の彼と同じように、眉を下げて肩を竦めた。それから視線を逸らす。
「杉元から連絡が入ってさぁ……名前ちゃんと連絡がつかないから行ってやってって言うから、差し入れ持って来てみればインターホン鳴らしても出ないし心配で、ドアノブ回してみたら開いてるし、俺だって無遠慮に一人暮らしの女の子の家に上がり込もうなんて思ってなかったけど、連絡先も知らないから鍵閉めなって言うこともできないし、だから玄関ちょっとだけ開けて名前ちゃんを呼んだんだよ、そしたら、」
弁明をするように一気にそこまで言うと、ちらりと私を見た。
「白石さんって、名前ちゃんが呼んだから」
そう言った白石さんの顔が段々赤くなっていく。そしてきっとそれは、布団から目元だけが出ている私も同じだ。
ねぇ、と白石さんが目を合わせたまま言って、そっと布団に手を置いた。
「俺は名前ちゃんのことが好きなんだけどさ……もし、その、俺の勘違いなら、」
ブーブーブーッ!!!!
「うわあ!!!」「わぁ!!!」
白石さんの話を聞いていた間、止まっていた息が一気に流れ出た。
白石さんは心臓を抑えて床に項垂れている。
「あ、杉元さん……」
鳴っていた携帯を取り上げて着信の主を確かめると、優しい先輩の名前が映っていた。
「もしも、」
『大丈夫?!?死んでない?!?』
杉元さんの驚く程に大きな声が受話器と玄関口から聞こえる。
「え!杉元さん、家まで来てくれてます?」
『うん、今玄関前にいるけど……ていうか、白石来なかった?行くように頼んだんだけど』
「あぁ、白石さんならここに、」
ちらりと視線を白石さんに送りつつ答えたのと、慌てて大きくバツを作った白石さんと目が合ったのと、「白石てめぇこの野郎!」という恐ろしい声が玄関から聞こえたのと全て同時だった。
▽
「名前ちゃん、1年間お疲れ様」
隣に座った杉元さんがにこにこ笑いながらビールジョッキを持ち上げた。
慌てて自分のグラスを杉元さんの持っているジョッキに当てる。
「本当にお世話になりました。最後の最後まで体調崩して迷惑かけて……」
「そんな水臭いこと言わないでよ。迷惑なんかじゃないからさ、気にしないで」
ね?と杉元さんが笑ってくれるので心救われる。本当に優しい先輩で、ありがたい存在である。
今日だって、私が異動になるということで送別会を開いてくれたのは杉元さんだ。
「はい、お待ち」
「え、頼んでないですよ」
「これは、店からだ。遠慮せず食ってくれ」
いつの間にか席に来ていた店の大将が、刺し盛りをテーブルに置きながら少し笑う。
この居酒屋は職場の行きつけの店で、大将は熊さんのような大きくて見た目はちょっと怖いけど、喋ったらとても穏やかで優しい人だ。美人な奥さんと一緒にお店をやっている。
「さすが、谷垣!太っ腹だぜ」
「俺からでもあるが、嫁さんがな」
囃し立てる杉元さんに苦笑を返した谷垣さんがカウンターへ視線を送ると、そこにいた奥さんがにこりと微笑んで小さく手を振ってくれる。
「苗字の門出と、それから、お前の復縁祝いだそうだ」
「え!!杉元さん?!そうなんですか?!」
にやりと笑った谷垣さんと目を丸くする私を見て、杉元さんが気恥ずかしさそうに、何でもお見通しかよ、と言って頬を引っ掻いた。
「まぁ、実は、はい。ヨリ、戻すことになりまして」
「わぁ〜!!!良かったぁ〜!!!おめでとうございます〜!!」
付き合いが長く同棲までしていた彼女さんが出ていったのは半年ほど前だった。
彼女さんと別れた後の数日の杉元さんは抜け殻状態で、本当に居た堪れなかったのだ。
「本当に何よりだ。店でもべそべそ泣いて大変だったからな」
「た、谷垣さぁん?!変なこと言わないで!?」
谷垣さんの言葉に慌てた後、俺の話はいいんだよ、と杉元さんが居直ると、はいはい、と言い残して谷垣さんは去っていった。
少し不貞腐れた顔でその背中を見送っている杉元さんが面白い。くすくすと笑っていると、むっと口を尖らせて杉元さんが向き直る。
「もう、俺のことはいいから〜!それより、白石に連絡した?」
「えぇ?え〜?いやぁ、どうかなぁ〜……」
あはは〜と緩く笑って誤魔化すようにグラスを口につけた私に、杉元さんがじっとりとした視線を送ってきた。
そうなのだ。
あの体調を崩していた日、具合が悪い女性の一人暮らしの家に上がり込むなど言語道断と怒り心頭で我が家にやってきた杉元さんによって白石さんが連れて行かれてから会っていない。
その後、何か大事な話があると白石さんが言っているとのことで、杉元さん経由で白石さんの連絡先を教えられていたが、結局臆病な私は連絡をできずにいた。
だって、期待して、それでまた落とされたら……今度こそ立ち直れないかもしれない。
杉元さんがはぁ、とため息を吐いて意識が呼び戻される。
「実は俺ずっと気にしててさぁ。あの時何か大事な話してたのに、俺が邪魔しちゃったんじゃないかって。そんな俺が言うのも変かもしれないけど……。
名前ちゃんも白石に何か言いたいことがあるんじゃないの?」
杉元さんの視線が真っ直ぐに飛んできて、ぎくりとする。圧が凄い。
「そ、れは……」
「はいはーい。何?何?俺の話?」
気の抜けた声と共に杉元さんと私の間に急に腕が差し込まれて、驚いて顔を上げた。
「し、白石さん?!」
「杉元、ちょっと近すぎぃ〜。じゃ、ちょっと名前ちゃん借りてくから」
いつもの如くヘラっと笑った白石さんが立っていたが、よく見ると首筋にうっすら汗が浮いていて、やや息も上がっている。
来て、と促されて、気がついた時には白石さんに手を引かれていた。
振り返ったら同僚たちの好奇の眼差しとそれを宥める杉元さんの姿が目に入って、背中越しに杉元さんが笑ったのが見えた。
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