スパ・バレンタイン・ナイトB




人がいなくなったフロアで、一人カタカタとキーボードを打つ。
もう今日何個目かの、辛口ガムを口の中で噛んだ。

ちらりと時計を見ると、23時半過ぎ。
これはもう終電逃すコースだな、と思いながら伸びをする。

日中は電話対応や来客対応に追われ、結局事務仕事の時間が取れず残業することになる。
いつもの流れだ。
週末ともなると、明日は休み、という安心感からか終電を逃すことも度々ある。

「良くないなぁ」

独り言を言って、ふとパソコンから視線を逸らした先にあるデスクマットの下に、この前宇佐美さんから貰った健康ランドのチケットが挟まっているのが目に入った。
携帯で調べてみると24時間営業になっている。

どうせ終電逃すなら、健康ランド満喫しちゃうか。

浮かんできた良い考えに、くふふ、と笑いが込み上げて、パソコンの電源を落とすと鞄を掴んだ。





「ふぅ、最高」

思ったよりも設備が充実している館内を、満足して歩く。

寒い2月の夜中に、大きな風呂に駆け込んで入る気持ちよさは格別だった。
バレンタインイベントで、今日だけ特別に薔薇のお風呂があって、最後に浸かって出てきたから自分から良い匂いが漂う。

風呂とは別にサウナも充実していて、バーニャがあったのにはテンションが上がった。
食事処も24時間空いているらしく、こんな夜中に生ビールをジョッキで飲めることが嬉しすぎる。
清算は手首につけたバーコード付きリストバンドで行うから、キャッシュレスで楽ちんである。

健康ランド、最高。

心の中でグッと拳を握って、最高の一杯を流し込むために髪をくるりと纏めてクリップで留めた時だった。

「あー…苗字さん?」

誰かに名前を呼ばれて驚いて振り向くと、最近見慣れた厳つい顔の坊主頭が立っていた。

「えっ?月島さん?」

思わぬ場所で、思わぬ人と会ったことに処理が追いつかず、素っ頓狂な声が出てしまう。

「声、デカいです」
「あ、すいません」

慌てて謝ると、茶色い館内着を着た月島さんが近寄ってきた。
男性にしては低めの身長で私より少しだけ高い程度だが、薄い布のせいで物凄く良い身体なのが分かる。
スーツだとあまり意識していなかったが、なんというか、色気が凄い。

「どうかしましたか」
「や、え、なんでもありません」

人の身体をじろじろ見れば、そう言われれるだろう。
誤魔化すように慌てて視線を逸らして、めちゃくちゃ疲れてんな、と思ったところで、窓ガラスに映った自分と目が合った。

いや待ってすっぴん!顔ヤバいって!

化粧水と乳液でテッカテカになった顔で対面していたことに、今更恥ずかしさが込み上げてくる。

「本当に大丈夫ですか」

優しさからか月島さんが顔を覗き込もうとするから、私はありったけの可動域を使って首を捻る。

「いや、あの…ほんと勘弁してください……す…すっぴんなんで…」

言わせんな!と思いながら、でもはっきり言わないと気がつくタイプじゃないだろうと察して伝えると、一瞬固まって、ぶっ!と月島さんが吹き出した。

「すっぴんでも、そんなに変わらないですよ」

そう言って笑うと、ふと真顔に戻って、あぁ女性にこの言葉は失礼なのか、と口の中でモゴモゴと言って、真剣な顔で向き直る。

「化粧してても、すっぴんでも、お綺麗ですよ」

凄く丁寧に言われて、今度は私の方が吹き出してしまった。

「そうですか。ありがとうございます」

なんだか、もうどうでも良くなってきた。
とりあえず、早くビールが飲みたい。
それも誰かと、美味さを分かち合いたい気分だ。

「月島さん、今日チョコ貰いました?」

一緒にぺたぺたと裸足で廊下を歩きながら問いかけると、月島さんがあからさまに動揺する。

「え、いや…」
「あはは、なんでそんな慌てるんですか」

貰ったんですね、しかも沢山、と言うと、えぇまぁ、と月島さんは目を泳がせた。

言葉にはしなかったが、多分本命チョコが多いんだろうなぁ、と予想する。

嘘がなくて、真っ直ぐで、ちゃんと受け止めてくれそうだもんな。

自分の身の回りの男性達との大きな違いに、そんな事を考える。
そういう人に恋をしたら、きっと幸せなのだろう。


「じゃあ、もうチョコはいいでしょ。
私はチョコの代わりに、ビール奢ります」

一緒にビールを飲みたいだけの口実なのだが、月島さんは少しだけ耳を赤くして、いやでも悪い、と歯切れ悪く言った。

「いいから、いいから。さ、行きましょ!」

先に歩き出してから、強引だったかな、と少し心配になってちらりと月島さんを見ると、口元が笑っていて、大丈夫か、と安堵する。

月島さんってこんなふうに笑うんだ。

なんだか珍しいものを見れたようで、嬉しくなった。
残業で痺れた頭も、1週間分の疲れも、癒されるいいお酒が飲めそうだ。







「苗字さんはチョコあげたんですか」
「気になります?」
「いえ、そこまで」
「いや、じゃあなんで聞くんですか。
あげましたよ、会社の人達に義理チョコ」
「へぇ。尾形さんにも?」
「あげましたよ。
その場で後輩にやろうとしたんで、ぶっ飛ばそうかと思いましたけど。
来年からあの人には、チョコボール1粒にします」
「はは。仲良いな」
「え、なんでそうなるんですか。
仲良くないですし、寧ろ嫌いですけど」
「…そうか。よかった」
「え?」
「なんです?」
「いや、今なんて…」
「さぁ?俺は何も言ってない」


fin



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