10(2年目スタート)



春だ。春休みの余韻がまだ抜けきらないまま、今日から高校2年生。
2年続けて担任は御影先生で……なんてそんな主人公バフは私にはかかっていないわけで。
「それじゃあ、どうぞ、よろしくねぇ……」
ふがふがとのんびりした声で、新年度最初のホームルームを気の抜けた雰囲気でスタートさせるお爺ちゃん先生を眺めた。
「諸君!起立!」
背後からかかる厳しく冷たい声に、全員が一斉に立ち上がる。全員が立つのを待って、礼!と続く声に全員が頭を下げ、お爺ちゃん先生は目をしょぼつかせて頷いた。
「なぁなんで氷室っちがいんだよ?」
「去年、爺ちゃん先生のクラスが騒がしかったらしくてさ、牽制だろ多分」
斜め前の男子2人がコソコソと喋る声を聞いて、なるほどと納得していると、こらそこっ!とすかさず氷室先生の声が飛び、私までぴっと背筋を伸ばした。
「うん、うん。じゃあねぇ、プリントを配るから、よっこい、せ……」
「前列の生徒!何をしている!早く先生を手伝いなさい!」
ゆっくりゆっくり動くお爺ちゃん先生の動きを察知した氷室先生の指示が飛び、前列の生徒が慌てて手伝い出す。あっという間に先生の手にあったプリントは生徒の手によって配布された。
前から回ってきたプリントを受け取って、後の席へまわす。……いつまで経っても受け取ってくれないから振り返れば、私の後の席の派手な髪の男の子は姿勢良く座ったまま寝ているようだ。
「な、七ツ森くん……!」
口に出して初めて呼ぶ名前にドキドキする。
そう、今回私はなんと、七ツ森くんと同じクラスになったのだ。
七ツ森くんもゲームの攻略対象だった。高校生ながらモデルNanaとして活躍しているが、学校ではそれを隠して生活している。ゲームきってのイケメンキャラなだけあってとにかく顔が良かった。今は分厚いメガネに無造作に結った髪とすっかり隠したオーラによって、ここまで分からないかというほどNanaを隠しているけれど。ゲームプレイ当時は、いやいくら隠しても分かるでしょと思っていたが、確かにこれはバレないかも。
しかしそれにしても主人公バフはないにしろ、同じクラスで席も前後なんて中々の奇跡だ。
そしてその七ツ森くんは一向に起きる気配がない。
「ねぇちょっと……七ツ森くん……あの、」
まずい、氷室先生に気が付かれる。
「……Nana?」
これでどうだ、と恐る恐る呼んでみれば効果はてきめんだったようで、ガタガタと大きな身体が泡を食ったように動いた。視線がバチリと合う。
「……ツ森くん。はい、どうぞ、プリント」
「あ、あぁ……?どうも……」
七ツ森くんの訝しげな視線をかわして前を向く。どっくどっくと全力疾走後のように鳴る心臓が痛い。背中に視線を感じる気がする。悪ふざけが過ぎた。もうこんなことはやめておこう。
「行き渡ったかぁ〜?」
お爺ちゃん先生ののんびりとしたスローな声が響く。うるさい心臓もゆっくりと正常なスピードを取り戻して行き、まぁ確かに眠たくなるのも分かるなぁなんて思いながら視線を遠くに飛ばした。

「春乃〜!」
「ひかる〜!」
休み時間を待って、ひかると手を取り合った。
マリィとは別れてしまったが、今年はひかると同じクラスだ。明るくて賑やかな1年になりそう。
「ねぇ後の席、実クンだったね」
「ん?うん、七ツ森くんね」
「そうそう。どう?実クン……七ツ森くんは?」
「え、どうって?普通だけど」
期待したような目をして笑うひかるに惚けて返す。
「普通かぁ……春乃なら気づくんじゃないかなぁって思ったんだけどなぁ……あっ今度はばチャ貸してあげるから、一緒に読も」
語尾にハートマークが付きそうな可愛い声と素ぶりのひかるに呆れてしまう。
ひかる、七ツ森くんの正体隠す気なくないか。
「そういえば、マリィと風間くんまた同じクラスだったらしいよ」
「うん、さっきマリィに廊下で会って聞いた」
ちなみに、御影先生が今年も2人の担任だ。ゲームと一緒。私はそこから外されたわけで、こういうことが起こると、当たり前だけどマリィが主人公で自分はモブなんだと認識する。いや別に主人公になりたいとか、そんなことでは無いのだけれど。まぁ私は私の青春を謳歌すればいい。
「ねぇところで春乃チャン」
取り留めなく考えていると、ひかるの声色が変わった。じと目でひかるに視線を送ると、両手を合わせて手の甲を頬に当てて首を傾げる、いつものおねだりのポーズをしたひかるがにっこりと笑う。
「今年は同じクラスになれたしぃ、髪とか顔とかさわらせて?」
「やだ」
「え〜?おねがぁい!去年の体育祭の時に、春乃の髪いじったの忘れらんないのぉ〜!
春乃ってさぁモデルさんとして、超優秀だと思うの!いじり甲斐があるっていうか、どうにでもなるっていうか」
1年生の最初の体育祭からずっとこれだ。一度許可したことがあるが、させたいようにさせていたら酷い髪型にされたことがある。当の本人のひかるは、すっごく可愛い!と本気で絶賛していたけれど。
「どうせいじればどんな顔にでもなる特徴のない顔ですよ」
「もう、ひねくれてぇ!そういう意味じゃないでしょ?もぉっと可愛くなろうよぉ」
全く信用がならない語尾の伸び具合に首を振ると、ぶうぶうと口を尖らせて文句を言ってくる。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、2人してそれぞれ席についた。
その様子をじっと観察している目があったことなんて気がつきもせず、私は呑気に次の授業の準備を始めたのだった。











「クラス分かれちまったな〜」
「先生知ってたんでしょう?」
「そりゃあ、教師だからな」
のんびり笑って御影先生が雑草を抜く。私は隣でハーブの収穫を行う。
始業式の今日は、通常よりも早く終わった。クラブ活動に参加するもよし、帰って友達と遊ぶもよし、勉強するもよしの放課後。私は今日の感想を先生と喋るべく、クラブ活動に来ていた。ちなみに園芸部員は誰も顔を出さず、なんだよあいつらと、先生は口を尖らせていたが、ラッキーと思ったことは内緒だ。
穏やかな陽気、もったりとした甘さを含んだ風、足元から湧き立つ植物の香りに、春だなぁと思う。そんな中での他愛ない会話が心地いい。
「で、どうだ新しいクラスは」
「担任の先生がとても穏やかですね」
「ははは。内藤先生な。優しいんだよなぁ、内藤先生。あの人だけだよ、俺を怒らないでいてくれるのは」
お爺ちゃん先生の話を楽しそうにする御影先生を見てつられて笑う。
新しい担任のお爺ちゃん先生は、内藤時次先生という。早速生徒からは、時爺というあだ名をつけられていたが、にこにこと優しく笑って、はいはい、と答えていた。そんな時爺先生のことを皆もうすでに好きになっていて、朝は氷室先生に言われないと手伝いに動かなかった子達がその後は率先して先生を手伝うようになっていた。氷室先生もそれを見て安心したのか、午後の授業は顔を出さなかった。このままずっと1年間見張り続けるつもりかと心配になっていたので、皆ほっとしたと思う。
「お前のクラス、元気がいい奴が多いからな。あんまり内藤先生を困らせるなよ?」
「確かに元気はいいですけど、皆優しい子達で、皆時爺先生のことが好きになったみたいですよ。私も好きです」
「お、おお……そっか……ていうか、“ トキジ”先生って……俺だって下の名前で呼ばれたことないのに……なんか、元担任としては複雑だな……」
何故か困惑したような表情でぶつぶつと言う御影先生言葉に、“トキジィ”なんだけどな、と思いつつ、まぁいいかとそのままにしておく。
「そうだ、先生、今年度のお茶部のことなんですけど」
「あ!いたっ!!」
御影先生に言いかけた言葉が遮られて、先生と同時に振り向いて声の主を確かめた。
「あ、御影先生……こんにちは……。あんた、えーっと……牧サン、ごめんちょっと」
相当探したのか、やや乱れた髪の七ツ森くんが立っていた。
ハウスの外からちょいちょいと手招きしている。
「おお、七ツ森。どうした。入って来ていいんだぞ〜」
御影先生がお返しと言わんばかりに七ツ森くんに手招きをすると、ジョーダン、と顔を顰めた。
「こんな虫の温床みたいなとこ……って、いいから、牧サンちょっと来て」
早く、と急かすように声を掛けられて、御影先生を見ると肩を竦められる。よりによって七ツ森くんからの急な呼び出しに何事かと混乱するが、待たせている間にじりじりしているのが見て取れるので、とりあえず収穫していたハーブをその場に置いて七ツ森くんに近づいた。
「な、なに?」
「ここじゃなんだから……」
七ツ森くんはちらりと御影先生に視線をやると、一緒に来て、と言って歩き出してしまう。背中越しに先生を振り返って手を合わせて頭を下げると、いいよと言う声が聞こえてきそうな笑顔を浮かべ手を上げてくれた。一瞬そんな御影先生に和んで、私のことなど構わずに歩いていく七ツ森くんを慌てて追った。

そして今、人気のない校舎裏で七ツ森くんと2人で向かい合っている。
き、気まずい……。
「……あのさ」
何を言われるのかと身構える。あのさ、の続きが全く想像つかない。意を結したように七ツ森くんが口を開いた。
「あんた、どこまで知ってる?」
「へ?」
急になんだ、と質問の意味が分からずに固まる。
「いや、いいから、そういう知らないフリとか。
ひかるさんと仲良いみたいだし、あの人うっかり口滑らしちゃったりしそうだし、別に驚かない。
知ってるなら知ってるで釘刺しときたいってだけだから。で?どこまで?」
教室の中での物静かな雰囲気とは打って変わって怒涛の勢いで喋る圧に気押されて、目を丸くした私にじりじりと七ツ森くんが詰め寄る。
「ちょ、待って……?!……私何も知らないから!」
ちっ!近いぃ!
身を引いて苦し紛れにそういうと、今度は眼鏡の奥で七ツ森くんが目を見開く。
「は?……ちょっと待て……でもさっき俺のこと“Nana”って呼んだ気がしたし、休み時間にひかるさんと俺の名前出してモデルが何とかとか、変身とかはばチャとか、話して……た……」
“Nana”呼びは完全に私の蒔いた種だが、それ以上のことを会話の断片的な情報から勝手に拾って、完全に勘違いしたのだろう。自分で口に出していきながら、七ツ森くんの顔が段々白くなって、それから赤くなった。
「……マジ?」
「……マジ」
全てを悟った七ツ森くんの問いに同じ言葉で返す。
「……何やってんだ、俺は……」
弱々しく呟いて、校舎の壁にもたれて頭を抱えてしまった。少し気の毒な気がしてくる。それから、ああそういえば、七ツ森くんってどこか抜けているというか、ワキが甘いところのある子だったっけなと思い出す。
「……な、七ツ森くん?」
「あのさ、牧サン、ほんと悪いんだけど」
あまりに動かない七ツ森くんがいよいよ心配になって、声を掛けると腹を括ったような目でこちらを見る視線と目があった。
「俺のヒミツ、共有して。そんで守ってくんない?」
人差し指を口に当てて、淡々と無表情で言う七ツ森くんを見て思う。
……かっっっっこ良すぎない?!
ゲーム内で何度も見たお馴染みのポーズに頭がくらくらする。実を言うと、七ツ森くんは私の1、2を争う推しだったのだ。
まともにイケメンムーブを喰らって思考停止しそうな頭を何とか数回縦に振った。
自分はモブなのだと自覚したその認識を改める。やっぱり私は異分子だ。だってそうでなければ、こんなイベントが起こるはずがない。

「で……さっきの俺の話でどこまで気づいた?あと、知ってることがあるなら全部話して」
「えぇっと……七ツ森くんがモデルのNanaで、ひかると仲が良いってこと?それ以上知ってることって言われても、特にないんだけど」
「……ほんと?」
「うん」
じっと目を覗き込まれる。君の秘密は他にあることを知っているが、それは言わない。それこそ、知られたくないことだろうから。
「……じゃ、それが事実なんで、くれぐれもモデルのNanaのことは内緒でヨロシク。プライベートと仕事は完全に分けときたいんで」
「わかった」
「マジで頼みますよ……」
心配そうな顔で見られるので、私よりもひかるの心配したほうがいいのではと言うと、ひかるさんには後でちゃんと言っとく、と真剣な顔で言われた。

「じゃ……俺帰るけど」
「あぁうん。お疲れ」
「お疲れって……まぁ、確かに疲れたけど……」
はぁ、と七ツ森くんが脱力して、それを見て苦笑した。
慌てていた時は随分饒舌だったが、段々と落ち着きを取り戻すと口数の少ない男子高校生になる。
「あんた、どうすんの?」
「うん?あぁ、どうしよっかな」
腕時計を見ると、もうとっくにクラブの時間は終わってしまっている。折角御影先生とゆっくりできる筈だったのにな、と少しがっかりするがこればかりは仕方がない。
「クラブも終わったし、荷物とって帰ろうかな」
「荷物どこ?」
「教室」
歩き出しながらそう答えると、じゃ俺も、と横をついて歩いてくる。えっ、とびっくりして、背の高い横顔を見上げたら、何?と見下ろされる。
「俺も教室に荷物置いてるし、行き先一緒なのに別々に歩くのオカシイでしょ」
そう言われてみれば確かに。でも何となく、七ツ森くんはもっと冷たいイメージだった。例えば、こういう場面でさっさと帰ってしまうような。
「……七ツ森くんって、モテるでしょ?」
「……あんた、馬鹿にしてる?」
「ご、ごめん」
ついぽろっと出てしまった言葉に、七ツ森くんの眉がぴくりと動く。いかん、これではおばちゃんのセクハラ発言だ。
言ってしまったと後悔していたら、
「そりゃあ」
不意に七ツ森くんの声が近くでした。
「この顔でいればモテるけど?」
ほんの少し眼鏡をずらして近づいた七ツ森くんのご尊顔に、息が止まりかける。この顔で間近に近寄られて、ドキドキしない女の子がいるだろうか。絶対いない。
「でも、そーいうの、俺求めてないから」
七ツ森くんはふいっと顔を遠ざけると、つまらなさそうにそう言う。この子は完全に自分の顔が綺麗なことを理解して、その上で色んなことにうんざりしているのだろう。なんと贅沢な。
ていうか、不用意に眼鏡ずらしなさんな。本当に隠す気ある?
「……七ツ森くんさぁ、そんなホイホイ眼鏡外してたらいつかバレるよ」
「誰もいないのは確認済み。それに、人に見られないように近寄ったんだけど」
「いや、分かんないよ?どこから見られてるか」
「ウルサイなー。さっきから思ってたけど、あんたと喋ってると姉貴を思いだすんだよ」
そういえば七ツ森くんにはお姉さんがいたんだったと思い出す。いや、中身は多分お姉さんと同じ年齢かもしれない、と思いつつそんなことは口が裂けても言えないのでとりあえず、ははは、と笑っておいたら、訝しげな顔で見られた。
考えてみれば、七ツ森くんはモデルやら色々隠したいことがあって、私も同じように秘密があって、この腹に一物抱えた感は共通している部分なのかもしれない。そう思うと親近感が湧く。いずれマリィと出会うことになる彼だろうけど、まぁ私は良きクラスメイトとして過ごそう。
「まぁ、これからよろしくだよ、七ツ森くん」
「なんすか、急に……気持ち悪い」
「き?!気持ち悪い?!」
「あ、悪い、姉貴に似てると思ったら、つい」
「あのさ、全然悪いと思ってないでしょ」
「反省してマース」
風間くん並みのイラつく、マース、に眉を寄せたが、七ツ森くんは全く気にしていないようで、べ、と舌を出しただけだった。







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み、見てしまった。
「いや、こんな学校の渡り廊下で……」
情けなくも慌てて隠れてしまった校舎の影で、しゃがみ込んで頭を掻く。
思ったよりかなりショックだ。いや、こんなこともあるかもしれないと思って、覚悟もしていたつもりだった。
でも。
「キスなら他所でやれよ」
今し方見た光景が目に焼き付いて離れない。

七ツ森がハウスに牧を呼びに来た時から、悪い予感がしていたのだ。
困惑したような顔で俺を見る牧に正直言えば、行くな、と言いたかった。でもそんなこと許される筈がない。
なけなしの大人の余裕ってやつを総動員して緩く笑って見せれば、ほっとしたような顔をして彼女は七ツ森を追いかけて行った。その顔を見て、その時は安心したのだ。牧の信頼はまだ俺にあるし、俺はこうやって安心を与えられる存在なのだと。
流れ的にはどう考えても告白する流れだろうが、牧が今日同じクラスになった奴の告白に応えるとは思えなかった。同級生と、もしかしたら恋人関係になることもあるかもしれないとは思っていたが、それにはまだ早いだろうと。それは昨年1年間、本多や風間、その他のクラスメイトと過ごしている牧を見ていて思ったことだ。彼女はそう易々と己の内側に人を入れるタイプではない。それはきっと今に始まったことではなく、元の性格からそうなのだろうと思っていた。
それにそもそも、相手は男子高校生だぜ。そう簡単に、ナイナイ。
中身が20代と知る前から、あっさり牧に気持ちを持って行かれていた自分のことは棚に上げてそんなことを思う。
きっと、すぐに俺の所へ戻ってくるだろう、なんて自惚れたことを考えていたのだ。彼女のことを人よりもほんの少し、よく知るという自負から。
でも結局、その後いくら待っても牧は戻ってこなかった。
それで作業を切り上げて、自分の部屋へ引き上げる途中で出くわしてしまった。
あーあ、何でよりによって近道なんてしようと思ったかな、と自分を呪う。
外を通る渡り廊下を2人が歩いていた。七ツ森越しに牧が見えて、声をかけようとしたのだ。
七ツ森の大きな体が、彼女を覆い隠す。顔を近づけて、それからー。
「御影先生」
「は、はいぃ!」
聞き馴染みのあり過ぎる声に、ピンと立ち上がる。
「どうしたんですか、こんな所にしゃがみ込んで。体調が優れませんか?」
「あ、いや、氷室教頭、大丈夫です。ありがとうございます」
氷室教頭だった。こんな時に、よりによって。
どうにかこの場を乗り切ろうと頭を下げるが、今度はがし、と肩を掴まれる。
おいおいおい、勘弁してくれ。
泣きっ面に蜂状態の俺の顔を氷室教頭がじっと見て、それから真剣な目をして口を開いた。
「顔色が悪い。体調管理も教員の務めだ。体調が優れないなら、優れないと言なさい。今日は私の車で送って行く。帰り支度をして、私の車まで来ること」
「え、いや、ですから大丈夫です」
「大丈夫じゃないと私が判断して言っている。いいからさっさとしなさい。では車で待っている」
有無を言わせない鋭さでそう言い残すと、さっさと行ってしまった氷室教頭の背中を唖然と見送った。
新学期からツいてねぇ〜……。
あまり待たせると怒りまくった氷室教頭から電話がかかってきかねない。のろのろと足を動かして帰り支度をしに向かった。これから、デートまがいの楽しい下校時間を過ごすのであろうあの2人とはえらい違いだ。

「すみません……よろしくお願いします」
「構わない。乗りなさい」
そう短く言われて、バレないようにため息を吐き溢した。
氷室教頭の車は校内でも有名だ。左ハンドルの高級外車。こういう車に乗って、きちっとスーツを着こなして、高そうな時計をして……。俺とはまるで逆。こういう価値観に気後れしてしまう。
ああやだやだ、緊張しちまって。
「失礼します」
右側の乗り慣れない助手席に乗り込むと、流石高級外車の乗り心地は違うなと感心した。車自体の重厚感が凄い。俺がいつも乗っているバイクなんてオモチャみたいなもんだ。
「発進するぞ」
「あ、はい。お願いします」
重いエンジン音がして、車がスッと滑り出す。車がいいのか、運転がいいのか。多分どちらもなのだろう。助手席に乗った人間に全く不快感を感じさせない運転だ。
「凄いですね」
「何がだ」
「いえ、車も運転も……俺はいつも使い古しのバイクですから」
はは、と笑う自分の声が媚びたようで凄く嫌だ。氷室教頭はというと真っ直ぐ前を見たまま、ふむ、と考えるような声を出した。
「……御影先生の乗っているあのバイクは、日本の車とバイクの歴史を大きく変えてきた創業者が、渡米後に日本で老若男女問わず誰もが乗りやすいようにと作られたバイクだ。御影先生は使い古しといったが、それはそうだろう。丈夫で馬力があり、それでいて手軽。長年乗れる、使い古せるバイクなのだから。創業者とそのチームが考えて考え抜いて作った良いバイクだ」
「く、詳しいんですね」
あのバイクを売ってたのかと思うくらいの説明に少し驚く。ああいうものには興味が無いかと思っていた。俺の言葉にハッとした顔をすると、コホン、と咳払いをした。
「私が言いたかったのは、どんな物にも価値があり重要性があるということだ。私には私の。貴方には貴方の。どうも、御影先生は自身を過小評価するきらいがある。もし、教師としての在り方で悩んでいるなら、」
「ちょ、ちょっと待ってください!違います」
「……では、なんだね。なにか悩みがあるのではと思ったのだが」
言葉を遮られてムッとした氷室教頭に、教師としての在り方なんて高尚な悩みではないなんて、そんなことは言い出しにくい。いや完全に違うとも言い切れないところが、またタチが悪いのだが。
あーと視線を彷徨わせたら、ふと後部座席が目に入る。緊張で気が付かなかったが、上等な車内に似つかわしくない可愛らしいピンクのクマのぬいぐるみと、ピンクのブランケットが転がっていた。
「あれって……」
「ん?あぁ、娘の物だ。彼女は今ピンクがブームで、なんでもピンクにしたがる」
少しだけ緩んだ双眸を見て、そうだったこの人既婚者で子供がいたんだったと思い出す。
「……少し意外ですね。お子さんの物を車にこんな風に乗っけているのは」
いや、かなり意外だ。それが例え赤ん坊であっても、こんなふうに、しかも恐らく自慢だろう車を散らかされるのは心底嫌なタイプではないかと思ったから。
「そうだな……。私も最初は片付けていたが、片付けた側から散らかしていくので非効率的な片付けはやめることにした。
とりあえず、清潔を保つ。それだけで十分だと判断して今に至る」
以上、と言い切った氷室教頭と、ピンクのクマちゃんとブランケットがミスマッチだ。きっとその結論に至るまで相当娘ちゃんとの間で戦いを繰り広げたのだろう。そして、最後には娘ちゃんが勝利したわけだ。恐るべし、氷室娘ちゃん。そんなことを考えて、思わず吹き出してしまった。
「なんだ、藪から棒に。失敬な」
「す、すみません……ぶふ……くくくっ……はは……」
失礼な自覚はあるが笑いが止まらなかった。暫く笑い続ける俺を、苦虫を噛み潰したような顔で運転しながらも放置してくれたのは教頭の優しさなのだろう。
「……はぁ……すみません……あの、氷室教頭」
「ようやく落ち着いたか。なんだ」
何だかすっかり気が抜けてしまった。ピンクがマイブームな娘ちゃんに翻弄されている氷室教頭になら、なんだか話せそうな気がした。
「気にかけて頂いてありがとうございます。
 俺には俺の価値がありますよね。自分に出来ることを精一杯やります」
「……そうか。少しは気が紛れたなら結構」
氷室教頭が前を向いたまま、ふっと笑った。それから、徐に口を開く。
「もし、見当違いなら聞き流してくれ。
 人間関係で悩んでいるのなら、対象となる相手とちゃんと話すこと。自分の思い込みだけで動かないこと。
 これで大抵の悩みは解決する」
「……どうして……」
エスパーかと疑いの目を向けたら、ふん、と鼻で笑われた。
「なに、ただの統計に基づく勘だ。人の悩みの80%は人間関係に起因する」
「はぁ、なるほど……」
つくづくこの人には敵わない。一体このマシンみたいな理屈人間と結婚して子供まで授かった奥さんはどんな人なのだろう。

「ありがとうございました」
「構わない。週明けにはしっかり体調を整えて出勤すること。では」
そう言い残して走り去っていく車のテールランプを見送った。
対象となる相手とちゃんと話すこと、か。
自分が見た物が全てのような気がするが、確かに事実は確かめてみなければ分からない。ただ、わざわざ俺の前から連れ去ってまでした話の内容を、どう確かめたらいいのか……。
「あー……なんか疲れた……」
ベットに倒れ込んだ。眠るにはまだ早い時間帯だが、今は横になっていたかった。
とんだ新学期の幕開けだ。