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また今日、初々しい1年生たちが入学してきた。1年生の担任になるたびに、俺もまた新しい気持ちになれる。
そんな気分のまま、あぁやっと堅苦しいスーツから解放されるとツナギに着替えたのに、氷室教頭に見つかってしまった。ツナギ姿で教室に行ったのが良くなかった。そのまま廊下に連れ出され、強制的に着替えと説教を喰らう。
よりによって生徒の前で絞らなくったってと思うが、まぁ俺が悪い。生徒たちに情けない所を見られちまった、が、最初に印象落としておけば後は上がるだけだ。ポジティブにいこう。
自分の自己紹介後にくるりと教室を見回すと、窓際で一際にこにこと笑う女子が目に入った。
「窓際のにこにこしてる女子」
呼びかけると、一瞬きょとんとしてそれから顔を赤くして慌てている。それでも質問を振れば、生真面目にちゃんと考え出した。良い子だ。
ふと、その後ろに座る女子に視線がいった。俯いて顔を隠すように前髪を抑えている。前にいるにこにこ女子とは対照的なその子が気になったが、俺の無茶ぶりになんとか質問ひねり出してくれた真面目ちゃんを放置するわけにいかず、その場が流れてしまった。
ホームルームが終わったら声をかけよう。
そう思っていたのに、当の彼女はそそくさと教室を出て帰っていった。皆これから友達を作ろうと、教室はまだ騒がしいというのに。
あぁダメだ気になる。後を追いかけていくと、もう既に廊下に姿はなかった。窓に目をやると、外廊下の掲示板に貼られたクラブ紹介を眺めている姿が目に入る。
「あ、おい!そこのー……」
呼び止めようと大きな声を上げたが、聞こえなかったのかくるりと踵を返して、昇降口の方へ行ってしまった。
まぁいいか。明日もまた同じように俯いていたら、声を掛けよう。
そんなふうに納得しなおした。
俺だって今日は忙しい。この後昼食もそこそこに、浮かれた新入生たちが街へ繰り出して問題行動をしないように巡回の予定だ。俺個人としては、別に学校帰りに街へ繰り出すくらいいいじゃねぇかと思うが、そこはこの学園の規律の鬼である氷室教頭の方針に従っておく。
「植物たちの様子を見てから行くか」
のんびりと廊下を歩きながら一人呟けば、さよならと生徒達が横を通り過ぎながら挨拶していった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
いや、すごい。本当に私はゲームの世界にいるんだ。
モールの中をふわふわと歩きながら、入学式とその後のホームルームのことを思い出して、今日何度目かのいかにも転生した人の感想を思い浮かべる。
もう10年前の記憶だがゲーム内のイベントが目の前で繰り広げられて、うっわ!これこれ!と、緩む表情を隠すのに必死でずっと俯いていた。勿論ノーメイクの顔を隠したいのもあったけれど。
なんと私のクラスは主人公のマリィと同じで、しかも前の席がそのマリィの席だったのだ。とくれば、クラス内には彼女の幼なじみである風間くんがいた。2人の甘酸っぱい空気感を察知しているのは、私だけではないようだったが、こんな風に感極まっているのは私だけに違いない。ゲームプレイ時は高校生で、風間くんが見せる切ない表情が大好きだった。風間くんは攻略メインキャラだったということもあって、のめり込んでルートを辿った記憶がある。全エンディング、スチルを回収するためにどれだけの時間を費やしたか。他にも沢山素敵な男の子たちが登場したっけと思い出す。ちなみに私が最終的に最も推した男の子は残念なことにはば学にはいない。いやいなくてよかったのかも。いたらもう私は爆発して形を保っていられなかった可能性がある。
ともあれ16歳の私にとって風間くんは本当に王子様だったけれど、中身が26歳の今の私にはとにかく初々しくて可愛らしい、あどけない子供に見えた。これから成長して大人の男になっていくのかと思うと感慨深い。頑張れ風間くんと、心の中で謎にエールを送りつつ、目的の店に入った。
移動するバスの中でスマホで検索してみたら、ゲーム内には出てこなかったショップがモールには沢山あった。その中からコスメショップを探して訪れている。
「んー……高校生のメイクねぇ……」
26歳の私がするメイクと同じというわけにはいかないだろう。
ふとホテルマン時代に、お洒落をして出かけたいという中学生の女の子にメイクしてあげたことを思い出した。可愛らしい思い出にふ、と口元が緩む。
「とりあえず……」
スキンケアベースは必須だとして(10代のお肌ってツルツルで本当に凄いけど、だからこそしっかりケアしておかないと)、あまりベタベタ塗りたくる必要はない。ナチュラルに、あくまで素を活かすメイク。そんなことを意識して、ひと揃いメイク用品をカゴに入れた。
「あの、もしよろしければ、ご購入された商品をメイクルームでお使いになりますか?」
レジでお会計を済ませた所で、店員のお姉さんに声を掛けられた。
「えっいいんですか?」
「はい。ご購入商品をお試しになられる方にサービスでルームを貸し出しておりまして」
「是非!ありがとうございます」
なんという良サービスであろうか。トイレでメイクするつもりだったので非常にありがたい。
通されたメイクルームは、鏡は勿論のこと、ティッシュ、綿棒、メイクスポンジなど必要な消耗品まで揃っていて至れり尽くせりだ。
ほくほくと鏡台の前に座り、早速メイクをはじめる。
「えっ待って、化粧ノリやっば!」
自分の肌に自分で感動してしまう。まぁメイクが馴染む馴染む。20代半ばのメイクは粗を隠す面が半分をしめていたように思うが、高校生は違うと今思い知った。これは嬉しい発見である。10代のうちにこそメイクしておくべきだ。とはいえこれから家に帰るだけなので、簡単なスキンケアとベースメイク、眉を整えて目元に少し手を加え、ついでにコテもあったので髪も少し触ってみる。今日は外ハネだ。あんまりばっちりキメこんでも、帰ってきた娘を見て母が驚いてしまうのでこの辺りでやめておく。
「ありがとうございました」
高校生の私に対しても折り目正しく腰をおる店員さんを見て、この店は本当に素敵な店だなと26歳の私が太鼓判を押した。
.
.
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「さてと、帰りますかね」
んーと伸びをして心地よい疲れを味わった。
身体が嘘みたいに軽い。病気をしていた頃には味わえなかった感覚だ。10代の私は本当に苦しい思いをしてきたんだなと思う。
何が何だか意味が分からないが、折角10代に、しかも憧れだったゲームの世界に転生したのだ。楽しもうではないか。
バス停へ向かう道すがら、コーヒーショップが目に入る。限定のスイーツのポップに惹かれて、ふわふわと近寄った。美味しそう、と口の中で呟くとじゅわと唾液が広がる。考えてみれば昼食がまだだ。
ふらふらと引き寄せられるように入口の扉に向かう所で、コツと後頭部に何かが当たった。
「こーら、この不良娘」
えっ、と驚きの声を上げて振り向けば、え、じゃねぇよ、と呆れたような顔で背の高い男性が笑っている。その拍子にふわふわとした茶色の髪が揺れた。
「そそくさと帰ったかと思えば、こんなとこでショッピングかぁ?悪い子だ」
反応できずにただ固まることしか出来ない。突然現れた存在に頭が混乱する。
「おいおい、もう忘れちまったか?担任の御影先生だぞー?」
ぽかんとしている私の顔を覗き込んで、顔の前で手を振られた。はっとして意識を覚醒させる。
「み、御影先生……」
「あのなぁ、お前。
入学式後に堂々と校則破ってこんなとこに来ちゃ駄目だろ」
「コウソク……?こうそく……あぁ!校則!」
言われた言葉の意味がよく理解できず、反芻してやっとそれが"校則"だと理解する。なにせそんなものに縛られた経験がなく、仕事帰りに買い物に行くような感覚で出てきてしまった。
凄い!噂に聞いていた高校生ならではの制約と煩わしさ!
そんなことさえ珍しくて一々驚く。
「おい、大丈夫か?」
新鮮な感覚に感動していると、怪訝な顔をした御影先生と目が合い慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません!意識が足りずこのようなことをしてしまいました」
社会人でいえば遅刻したとか、外勤と言っておいて仕事してなかったとか、そのくらいに相当するような事だろうか。とにかく頭を下げて、何故そうなったのか身を振り返った反省を述べるしか思いつかない。
下げた頭を上げてみれば、御影先生は驚いた顔をしていて、それから、吹き出してひとしきり笑った。なぜ笑われているのか理解できずそわそわする私に、すまんと御影先生が涙を拭きながら謝って、ふぅと息を吐く。
「なんか、上司に謝る部下って感じがして、可笑しかった」
その言葉を聞いてはっとする。確かに基準が社会人だ。実は中身は26歳なんですなんて言ったら、いよいよ頭のおかしな奴になりかねない。別に誤魔化す必要があるような場面ではないと思うが、隠し事をしているような後ろめたさに落ち着かなくて視線をさ迷わせる。そんな私を他所に、
「氷室教頭に頭下げてる自分と重なっちまったよ」
とまだくすくすと笑いながら御影先生が言った。そして腕を汲む。
「まぁ今日のところは、お洒落して可愛くなった教え子が見れたし?目を瞑ってやるよ」
随分とキザな台詞に耐性がなくて面食らってしまう。
「はぁ……ありがとうございます」
「テンション低っ!俺がスベッたみたいで恥ずかしいだろ」
寧ろ御影先生のテンションが高すぎると思うのだが。
慣れないノリに戸惑っていると、ふと御影先生の肩越しに小さな女の子がいることに気がついた。
明らかに日本人ではない、恐らくヨーロッパ系の3歳くらいの少女だ。今にも泣きそうな顔で、ひどく心細そうに周りを見回している。
「先生、すいませんでした。失礼します」
「あ、おい」
頭を下げて御影先生の前から立ち去る。
人が多い。急がないと少女を見失ってしまう。
早足で歩いてその小さな後ろ姿を認めた。急いで近づき、怖がらせないようにしゃがんで、ちょんと肩を叩くと、びくりと小さな身体が震える。
ゆっくりと振り向いた少女の顔はガチガチに強ばっていた。
「大丈夫?迷子になっちゃった?」
『わかんない』
とりあえず日本語で話しかけてみれば、返ってきたのは震え声の英語だった。よしよし英語ね。それならなんとかなる。
『迷子になったの?』
英語に切りかえて聞くと、こくこくと何度も頷いた。少しホッとしたのか、大きな瞳にいっぱい涙を浮かべている。
『こわかったね、もう大丈夫だよ。
ママとパパと一緒だったの?』
『ううん、ママだけ』
『そっか。ママも心配してるね。
一緒にママ探そうね』
海外の人だ。きっと目立つだろうから、案外すぐ見つかるかも。
『探しに行こっか』
手を握ると、予想に反して女の子はふるふると頭を振って私の制服の袖をきゅっと掴んだ。
『疲れた』
弱弱しくそう言って俯いた足元にぽたぽたと涙が落ちる。
沢山歩いたのだろう。心細さて折れそうな心を奮い立たせて。
『疲れたね。わかった。私が貴方を抱っこしてもいいかな?』
努めて優しく声を掛けると、女の子がこくりと頷いた。申し訳ないが可愛すぎる。
小さなその身体を抱き上げようとした時だった。
『やぁ可愛いお嬢さん。僕とお友達になってよ』
コミカルな声で発せられる流暢な英語とともに、ぬっと私と彼女の間に牛のぬいぐるみが割って入ってきた。ぱっと振り向くと御影先生がにこにこと女の子に笑いかけている。
おずおずと頷いて、牛のぬいぐるみを受け取った彼女に『俺は、彼女の友達なんだ。ママを探す仲間に入れてくれる?』と優しく英語で説明した。彼女が私を見るので微笑んで頷いて見せると『……いいよ』と小さな声で呟くように言う。
『OK!じゃあ1つアイデアがあるんだけど、聞いてくれるか?』
にやり。
何かを企んでいるような笑顔で、御影先生が彼女に耳打ちをした。
「大丈夫ですか、先生?」
「平気平気。毎日園芸部で鍛えてるからな。これくらいどうってことねぇよ」
余裕の笑みを浮かべた顔より上に視線をやると、先生の肩にちょこんと座った彼女が真剣な目で周りを見渡している。
御影先生がした提案は、背の高い先生が彼女を肩車してお母さんを探すというもの。
「こうしてれば目立つし、あっちからも見つけられるだろ」と得意気に笑った先生の顔が子供っぽくてつい笑ってしまった。
「お、やっと笑ったな。綺麗な化粧もいいけど、やっぱり女の子は笑った顔が1番いい」
「先生それ彼女さんとかに言わない方がいいですよ。メイクする気なくしちゃうから」
「えぇ?まじかよ?言われると嬉しいセリフだと思ってたんだけどなぁ」
がっかりした表情を浮かべた先生の顔を見て、そういえばこの人も攻略キャラだったっけと思い出す。
私は御影先生のことを殆ど知らない。
16歳の私は教師と恋愛するということに全く惹かれず、御影先生ルートだけはやらなかった。なにせ私は普通に女子高生がやるような恋愛がしたかったのだ。例えば幼なじみとの恋とか、バイト先の彼との恋とか。
だからなのか、御影先生とは普通に話せる。過去にゲームで攻略した人は、目にするだけでドキドキしてしまうということに、風間くんを見て気づいた。
『あっ!ママ!ママいた!』
少女が小さな手を必死に遠くに伸ばしながら叫ぶ声に我に返る。
『どこ?』と尋ねると『あそこ!』と指さした先を目で追う。確かにそこには青い顔をして、今にも泣きそうな顔で辺りを見回している外国人女性がいた。
「先に行って声掛けてきます!」
「ああ、頼む」
.
.
.
「案外早く見つかって良かった」
「そうだな」
何度も何度も手を握られ、抱き締められ、お礼を言われた後、去っていく2人の後ろ姿を見送った。小さな彼女の手にはしっかりと牛のぬいぐるみが抱かれている。
「では、私もこれで帰ります。付き合ってもらってありがとうございました」
「あ、おい!待て待て!」
用が済んだので頭を下げて帰路に着こうとしたところを、慌てたように御影先生が呼び止めた。
「なんですか?」
まだ何かあるのかと先生を見れば、一瞬鼻白んで、それから、はぁと溜息を吐かれる。
「なんですかってお前、もう6時だぜ?
途中まで送ってくよ」
なんかあったら困るだろ、という先生の言葉に今度は私が鼻白む。
「6時って……子供じゃあるまいし」
「子供なんだよ、高校生は」
その言葉で、あ、と思い直す。そうだった、私は16歳なのだ。それにしても6時で帰り道を心配するのは些か過保護に思うが、ここは大人しく従っておく。
「すいません。じゃあバス停まで」
素直に頭を下げれば、よし、と御影先生が笑った。
「そういえば、お前、英語で生活してたことがあるのか?」
「え?」
「いや、さっきの英語、あんまり自然だったからさ」
確かにそう言われてみれば、小さな女の子と話すために少し崩した英語にしてたかなと思い出す。海外渡航者も多く宿泊するホテルだったため、コンシェルジュ業務ではわりと日常的に英語を使っていたので違和感がなかった。ただ英語圏での生活となると。
「あぁ、こ、」
高校の頃、と言いかけて固まる。今がその高校生時代なのだ。あ、危ない。
「こ?」
「こ、国外に親戚がいて、その、昔から英語を教えて貰ってたんです」
まぁ咄嗟によく嘘が出たもんだと自分を褒めたくなる。
「ふーん。教えて貰って、ねぇ……」
「先生こそ、とても上手に英語話されますね」
なんだか含みのある返しが気になるが、これ以上この話題を引っ張るのは危険と判断し話をすり替えることにした結果、先生の英語について触れると苦笑された。
「お褒めに預かり光栄です。
まぁ俺は留学してたからっていうのもあるんだけどな」
「あぁそうなんですね」
どうりで学校の先生的な固い英語ではなく、口語の英語が上手いと思ったと納得する。
「バス停です。ありがとうございました」
「おぉ。気をつけて帰れよ」
丁度到着したバスに乗り込むべくステップに上がったところで、おい、と声を掛けられる。
「何かあれば、いつでも相談しろよ」
突然の気遣いの言葉に首を傾げる。だけど、厚意は有難く受け取っておく。
「ありがとうございます」
とりあえず笑って(社交で笑えるのがホテルマンだなと思う)バスに乗り込んだら、窓越しに先生と目が合ってすぐにバスが出発した。
ーーーーーーーーー
時計を確認すると18時半。
もうそろそろ見回りを終えていい時間だろうと判断して、ぶらぶらと帰路に着いた。
あぁ疲れた。
溜息をついて、それから先程まで一緒にいた女子生徒のことを思う。不思議な子だ。
入学式後のホームルームで俯いていた様子から、てっきり人と関わるのが苦手なタイプの物静かな子なのだろうと思っていた。それが街へ見回りに出てみれば、校則違反を犯して放課後ショッピングなんてしてやがる。正直面倒だなと思った。真面目でいてくれれば1人の生徒として心地よく接することができるのに、こういうことをされると立場上どうしても言いたくない小言を言わねばならない。前の席の真面目ちゃんをちょっとは見習ってほしい、なんて思いながら声をかけた。が、その反応は全く予想していないものだった。
「コウソク……?こうそく……あぁ!校則!」
俺からの注意をぽかんとした顔で繰り返し、それから合点がいったかのような顔をして手を打ったその姿を見て、どう見ても悪気があるようには見えないと違和感を覚える。それから目を大きく広げてきらきらと輝かせた。
大丈夫かこいつ、と本気で心配になる。思ったままに声を掛けると、我に返ったようにハッとして今度は折目正しく頭を下げてきやがった!
この頭の下げ方がいかにも堂に入っていて、とても高校生のそれには見えない。完璧な45度と体の前に綺麗に添えられた手。頭の先から爪先まで意識が行った、マナー本に載るお手本のようなお辞儀だった。瞬時に切り替えてこの姿勢が取れるなんて接客のプロ並みだ。
不良行為からの謎発言を経て、極め付けは完璧なお辞儀だ。訳が分からなくて逆に笑ってしまった。
俺が大笑いしている意味が分からないようで戸惑っている彼女になんとか言い訳をして、改めて目の前の女子に目を向ける。
まぁ年頃だもんな。メイクしたり、お洒落したり、少しでも時間を惜しんでしたいよな。
見れば薄らとメイクをしているのが分かるし、髪だって少しいじったようで綺麗に外に跳ねている。元々持っているこの子の雰囲気がそのままパッと華やいだように見えた。だからといって派手すぎず、しっくり馴染んでいる。こりゃ相当勉強していると見て間違いないと思うと無闇に攻め立てるのは気の毒な気がして、冗談めかしてこの場を見逃すことを伝えた。
返ってきた反応はまたもや肩透かしで、なんだか自信を失くしそうだ。これでも俺、結構学園の教師の中では人気がある方なんだぜ。
そんな俺を他所に今度は俺の背後に意識が向いたようで、止める間も無く走って行ってしまう。
ここで逃して他の先生に見つかりでもしたら事だと俺も慌てて後を追いかける。まったくこれじゃあ、兎を追いかけるアリスだ。一瞬見失いかけて、いやいくら足が早くたってそんなにすぐ姿が消せる筈がないと目を凝らせば、通路の脇で蹲み込んでいるうちの制服と、跳ねた後ろ髪が目に入った。あいつだ。
振り回され気味なことに若干の疲れを感じつつ近づこうと歩を進めると、小さな少女と一緒にいることがわかった。3歳くらいだろうか、海外の女の子で遠くからでも怖がっているのが分かる。あぁあの子を見つけて急いで走ったのか、と得心がいって、英語喋れねぇよな普通の女子高生が、と心配が勝る。
後先考えずに突っ走って……目の前にいたのははば学の教師だぞ、俺に頼れよ。
そんな思いがモヤモヤと浮かび、咄嗟に周囲に視線を走らせた。
あの女の子の心をほぐすものが何かないか……。あった。
脇の雑貨屋に積まれた牛の人形を掴んで急いで購入する。頼むからまだあそこにいてくれよ、とじりじりしながら会計を待ち店を飛び出したら、女の子があの女子の制服の裾を掴んで泣いているところだった。
言わんこっちゃねぇ。
大方言葉が通じず相手を困らせてしまったのだろうと予測して足早に近づくと、子供を宥める流暢な英語が聞こえた。
『疲れたね。わかった。私が貴方を抱っこしてもいいかな?』
内心吃驚した。こんなスムーズで自然な英語、日本で生活していて聞いたことがない。しかも声の主は、うちのクラスの不良娘だ。正直舌を巻いた。それから感動している場合じゃないと、慌ててぬいぐるみを2人の間に差し込んで、なんとか女の子を女子高生に抱っこさせて歩き回らせることは回避できた。
「先生それ彼女さんとかに言わない方がいいですよ。メイクする気なくしちゃうから」
女の子を肩車して歩く横でやっと笑ったその笑顔に声をかければ、憮然とした表情を浮かべた不良娘が辛辣な言葉を言う。
いや、彼女なんか久しくいないし?“女の子は笑顔が一番”なんていう台詞彼女に言ったこともねぇし、いいんだけど。女心が全くわかっていませんね、と突きつけられたような気がして一気にテンションが下がった。いや、分かっているけれども、そんなことは重々!けど、当然喜んでもらえる台詞だと長年思い込んでいた自分の格好悪さを思うと居た堪れなくなってくる。
はぁと溜息をつく横で、その不良娘は何やら物思いに耽っている。
いやでも実際、半分は本気で言ったんだけどな。
横顔を盗み見てそんなことを思う。黙っている時の凛とした表情が、笑うと一変して柔らかくなる。そのギャップにこれからどのくらいの男子がやられるのかと思うと楽しみだ。
学園生活での楽しみの一つに、生徒の恋事情がある。仲が良くなった奴なんかは恋愛相談に来る奴もいるくらいだ。……まあ、彼女の指摘通りなら俺は女心を全く理解しないまま、奴らにアドバイスしていたことになるが。
程なくして女の子の母親が見つかり、無事に親元に返せた。母親は何度も何度も礼を言い、彼女を抱きしめ、俺の手を握り礼を述べた。遠い異国の地で、娘を見失ったのだ。どれほど不安で心配だったろう。今にも泣きそうな顔をしている母親を彼女が宥めている。
その隙に、疲れてぼんやりしている小さな女の子の相手をすることにした。目線を合わせて頭を撫でて言葉をかける。
『よく頑張ったな。もう迷子にならないように、このモーリィちゃんをお守りにあげるよ』
『モーリィ?』
『そう、この牛さんの名前さ』
きょとんとした顔で聞き返してくるので、俺の愛牛からとった名前を教えてやる。女の子はにっこり笑うと、『ありがと』と言って俺の唇の端にちゅっとリップ音と共にキスをくれた。可愛すぎる。
どうだ、俺だってまだまだ捨てたもんじゃないと、彼女の方を見たが少女の母親との会話に夢中で見ちゃいない。
いや、待て、俺はなんでこんなにムキになってんだよ。
「先生、帰られるそうです」
「あぁ」
声を掛けられて我に返る。まったくどうなってんだ、らしくねぇ。
「では、私もこれで帰ります。付き合ってもらってありがとうございました」
遠ざかっていく親子を見送って、あっさりそんなことを言うではないか。
この不良娘。
内心舌打ちしたい気持ちだ。いや言いそうだと思っていたが、こんなところで解放するわけにはいかない。慌てて引き止めれば、なんですか?とまだ何かあるのかと言わんばかりに怪訝な顔をしている。
「なんですかってお前、もう6時だぜ?途中まで送ってくよ」
高校生の6時なんて大した時間ではないことは分かっているが、ここであっさり解放して夜の街にでも繰り出されたら敵わないのだ。せめてバスか電車に乗るまでは見届けないと、監督役として不合格だろう。
彼女はといえば一瞬驚いたように目を見開き、それから素直に「すいません。じゃあバス停まで」と頭を下げる。ほっとしたのと同時に、あぁこの子は納得すれば素直なんだな、とこの数時間過ごしてきて少し相手のことが分かった気がした。
春先の夕方だなと思うようなひんやりとした風を頬に受けながら、クラスの女子生徒と街を歩いている。こんなことでもなければ、もしかたしたらこの子と俺は交わることなく一年終わってたかもなとそっと苦笑した。彼女が俺のノリについてくるとは思えないし、俺もそんな引いた生徒に自分から積極的に関わろうとしないだろう。
いい機会だと、疑問に思っていた先ほどの流暢な英語の理由を質問してみる。彼女は変に言い淀んで、それから明らかに誤魔化した。本人は言い逃れられたかのような顔をしているが、バレバレだということが分かっていないのだろうか。こういうところがまだまだ子供だ。
「先生こそ、とても上手に英語話されますね」
不意に彼女からお褒めの言葉が返ってきて、こいつ俺が教師だって忘れてねぇかと呆れてしまう。まぁでも確かに、あんなに崩した英語は教師でも喋れる人間はそういないかもしれないな、と思い、その訳を伝えてみる。相手の情報が欲しいなら、まずは自分からだ。しかしそんな俺の意気込みとは裏腹に、「あぁそうなんですね」の一言で流れてしまった。お前、そんなに俺に興味がねぇのかよ。
「バス停です。ありがとうございました」
また丁寧に頭を下げて、丁度着いたバスのステップに足をかける彼女の後ろ姿を見送る。華奢な肩、薄い背中に、後髪が跳ねている。
発する言葉も態度も、どこか大人びているが、そうは言ってもこの子は16歳で高校1年生なんだよな、とふと思った。
「何かあれば、いつでも相談しろよ」
ついそんな大人みたいな言葉をかけてしまって、ああ嫌がられるかな、と身構える。けど、なんだか頼りないその肩に色んな物をこれから背負い込んでいきそうな気がして。
突然の言葉にやっぱり彼女は首を傾げて、冷たい言葉が返ってくるかもと自分の表情が強張るのがわかる。そんな心配を他所に彼女は俺に向き直った。
「ありがとうございます」
あ、笑った。
寒い冬の地面から、雪を持ち上げて春の花が開くように彼女の顔が綻ぶ様子に、俺の心配も不安も全部吹っ飛んだみたいだ。
目の前でバスの扉が閉まっても、俺は暫くそこから動けず、席に移動する彼女と目が合ってバスが通り過ぎるまでそこに立ち尽くしていた。
女子高生といえど、女ってこえぇ。
こんなのまともに食らったら、男子高校生はイチコロだろうな、と年甲斐もなく見惚れた自分を恥ずかしく思う。こりゃこれからのあの不良娘の周りは要チェックだな、と新しく始まる生活を少し楽しみに思うのだった。
彼女の名前は牧春乃。よし、しっかり覚えた。
続