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目の前をひょこひょこと歩く背中を眺める。たまによろければ、後ろから腕を持って支えてやる。
全く転け方を知らない子供の転け方だったな、とさっき見ていた綱引きでの牧を思い出す。まぁ普通に考えてそうだろうな、と思う。なにせ運動経験が圧倒的に足りていないのだ。
なぜわざわざ綱引きに参加したんだと聞くと「だって運動会で団体競技といえば綱引きでしょう」と、何を聞いてるんだと言わんばかりの表情をする。
勘弁しろよ、まったく。
目一杯行事を楽しみたいという気持ちが痛いほどわかるぶん、何も言えないが正直心配でたまらない。実はこうなることは少し予測していたのだ。子の成長を見守る親ってこんな気持ちなのだろか、と思ってしまう。
いや、違うな。
自分に都合の良い解釈を打ち消す。
俺はこの子に自分を重ねすぎてる。やり残したものを必死に集めて刻みつけようとするように笑うこの子を見ると、どうしても他人事とは思えなくなってくる。
だけど俺とこの子は違うのだ。
生きている時間が、見ている物が、感じる感覚が、この子と俺では。
朝、教室でいつもと違う姿のこの子を見た時の、言いようのない感情を思い出す。チカチカと星が舞ったような感覚。素直に、ああ可愛い、とそう思った。
本多と笑い合っている姿を見た時に、一丁前に胸を燻らせたりなんかして。思わず引き離した時に掴んだ華奢な肩の感覚がまだ手に残っている。
だけどな、と自分に言って聞かせる。
勘違いするな、お前は高校生じゃねぇんだぞ。
そして、いくら大人びていても、いくら不思議な雰囲気があったって、彼女は白蛇の精じゃない。
正直こんな気持ちになっている自分に嫌悪感すら感じる。だって相手は高1だぜ。
だからこそ後悔しないように、俺は俺をちゃんと生きないと。
怪我を負っているのを見てひやりとした時に思ったのだ。良くも悪くも俺は大人で教師で、彼女を守ってやれる役目だろうと。

水場に着いて牧に怪我をした方の靴と靴下を脱ぐよう指示し水道の側に立たせれば、怪我ってこんなに痛いんですねぇなんて呑気なことを言っている。
「おお、そうだ。これからもっと痛いぞ」
水道の水を出してやる。
「ほら、怪我の所についた土とか色々洗い流して綺麗にしろ」
そう言って避ければ近寄ってきて、そろそろと水に向かって足を伸ばす。
「う、わ」
「おっと」
体幹が弱い彼女がふらついてしまうのでぴったりと脇に着いてやれば、白くて細い綺麗な手が、咄嗟に俺の袖を掴んだ。
「す、すいません」
「いいよ。そのまま洗っちまえ」
水の音だけが静かに流れ、遠くグラウンドから体育祭の喧騒が響いてくる。
白い足に水が流れていくのが目に入って、見てはいけないものを見た気がして目を逸らした。
「先生」
呼ばれて視線を向ければ、困ったように視線を向けてくる。
「どうした?」
何か言いにくそうにしているから優しく声をかけてやると、控え目に少し離れた所にある段を指さした。
「あそこまでケンケンで行きたいので、掴まったまま移動してもいいですか?」
「ケンケンできるのか?」
「馬鹿にしないでください。できます」
ふん、と不機嫌な色を浮かべ眉を寄せたその表情を見て、案の定の返しに笑ってしまった。掴まったままで移動するケンケンなんて、出来てるとは言わねぇよ。

「っつ……」
「もっと痛いって言ったろ?風呂の時とかもっと痛ぇぞ」
顔を歪めて痛がる牧に意地悪く笑って見せる。
体育祭の興奮が少し収まってきたのか、俺の言葉を聞いて、えぇ、と嫌な顔をした。
痕は残らなさそうだな。
消毒を終えて傷用の絆創膏を貼ってやりながらほっとする。
「ほい、おしまい」
「ありがとうございます」
傷に貼られた絆創膏をまじまじと見ている牧を横目に、持ち出してきた救急箱を片付けていく。
「大丈夫だ。痕は残らねぇよ」
「残りませんかね、やっぱり」
「なんだよそれ。残っちゃ困るだろ」
また変なことを言い出す牧に視線を向けると、へへ、と悪戯っ子のように笑っている。
「痕は別に痛まないでしょう?
 見る度に思い出せるし、どうせ怪我するなら残った方がいいなって」
本当はここで、馬鹿言うなって怒らなくちゃいけない立場なんだろう。でもさ、よく分かるよ。俺もそんなふうに思う節がある。
そしてこの言葉は多分、傷に対して抵抗感がない奴の言い草で、それは彼女のこれまでの人生を思わせる。
「牧」
優しくそう呼びかければ、肩を竦めてバツの悪そうな顔に変わった。まるで怒られることが分かっている子供みたいに。
まったく、言っちまってからそんな顔するなよ。
怖がらせないように微笑んで、しゃがんだまま牧の顔を見る。
「これからさ、思い出いっぱい作ろうな。
 痕を見なくたって蘇ってくるような、強烈に楽しい思い出をさ。だから無茶はすんなよ。あんまり先生を心配させんな」
な?と瞳を覗き込めば、きらきらと光が揺れる。
「はい……でも、高校生活、できることは全部やりたいです」
「そうくるか、不良娘。仕方ねぇなぁ」
止めないで、と全身で訴えるその姿にやっぱり俺は弱い。我儘を聞いてやりたくなるのは、大人の性質さがだろう?
「もう!……いいですよ、どうせ私は真面目で可愛いマリィと違って不良です」
「なんだお前、気にしてたのかよ」
随分前に言ったような気がすることを持ち出してくるので、吃驚して聞き返すとぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「気にしてません。それにいいんです、私はこれで。
 やりたいことやるのが不良だって言うんなら、私はそれを譲れないから」
決然とした顔でそんなことを言う牧をじっと見る。
ああそうか、知らない間に俺はこの子の在り方を否定してしまっていたのかもしれない。そんなつもりは無かったんだ。
「…いいよ、お前はそのままで。
 危なくなったら俺が止めてやる。だからそのまま突っ走れ!それとな、」
精一杯の余裕を身にまとって、俺は笑う。
「手のかかる子ほど、可愛いってな?」
「ま……!また揶揄って……!」
「ん?お前もクラスの奴らも、園芸部の皆も、野菜や植物たちも、みーんな手がかかって可愛い、俺の子供たちだよ」
ほんの少し真実を混ぜた言葉で、濁させてくれ。悪いな。
返す言葉を失って口をパクパクさせる牧に心の中で謝りながら、吹き出して笑った。
【フォークダンスに参加する生徒の皆さんは、入場門に集まってください】
グラウンドの方からお馴染みのアナウンスが流れる。
「あ、やべぇ。フォークダンス、欠員出てるから行かねぇと」
「行ってください。私はゆっくり歩いて戻ります」
「そうか、悪いな」
行きかけてくるりと振り向けば、牧のきょとんとした顔と目が合った。
「来年は一緒に踊ろうぜ?」
「え……はい」
照れたように視線を外してはにかむ姿が、6月の青空に溶ける。





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「8位……」
張り出された期末テストの順位表を見て思わず渋い顔になる。
まさか順位表が張り出されるシステムとは。
7月に入ってすぐに期末テストがあり、その結果に皆が一喜一憂しているのを見ながら溜息をついた。
「えっ春乃ちゃん、10位以内に入ってる!凄いねぇ!」
目を大きく見開いたマリィが私に声を掛けて、横でみちるが「マリィならもうちょっと頑張れるんじゃない」と厳しいエールを飛ばしている。
期末テストで高順位を狙うつもりはさらさら無かった。校内順位に受験なんかも関係するなら他の子に申し訳ないと思ったからだ。
高校生の本分である学業に関しては少し、いやかなり周囲に対して引け目を感じている。なにせ、私は高校認定資格を自力で勉強し、あまつさえ大学受験勉強も自力でやっているのだ。妥協したくなくて、私の学力でギリギリの大学を受験したので、それはもう自分でも胸を張って言えるくらいの並大抵ではない努力をした。受験から数年経ったとはいえ授業を受けて思い出せば、あぁはいはい、と言わんばかりに記憶の蓋も開くというものだ。期末テストの内容も、出題者の意図を考えながら解くのが受験勉強のセオリーだったからそれに慣れすぎて、あぁそういう感じの答えが欲しいのか、と自動思考が働いてしまう。
手を抜くのがこんなに難しいものだったなんて……。
油断すれば高得点をたたき出しかねないと思い、意図的にミスをしてみたのだが、これが正解を導き出すより難しい。態とらしくないように、自然な感じで間違う。そっちの方が頭を使う。
結果、70〜80点台に抑えただろうと思っていた点数は、平均91点。得点配分まで予想するのが難しくてこんな事になってしまった。
「牧ちゃんは8位かぁ!」
キミならもうちょっと上いくかと思ったけど、といつの間にか横に来ていたダーホンがくるりと目を回す。
「え、なんで?」
「そのくらい話してたらわかるよ。
 牧ちゃんの考え方って、高校生っていうより大学生みたいだなぁっていっつも思ってる」
ヤバい、勘づく人には勘づかれてる。
基本的に頭が良いダーホンと話しているとつい面白くて、自由に自分の考えを喋ってしまっていたからだろうか。いや、そもそもダーホンは実はこう見えて、人の機微にもちょっと鋭い所がある。気をつけないと。
「そ、そういう、ダーホンは1位じゃん!凄い」
「うんうん!まぁいつもの事だけどね!」
これ以上追求されたくないので、とりあえず話題を変えておこうと彼の順位に触れれば屈託なく返してくる。そんなダーホンを皆が、やれやれ、という表情で見た。
「じゃ、オレは戻るよ。ばいばーい」
手を振って笑顔を振り向いて去っていくダーホンに、私とマリィ、みちるの3人が、ばいばーい、とつられて手を振る。やれやれ。
「ねぇねぇ、本多くんと仲良いね?ダーホンって呼んでるの?」
にやにやとマリィが顔を覗き込んでくる。
「私も気になった……もしかして……」
マリィの言葉を受けて、実は恋愛の話題が大好きなみちるが顔を赤らめている。
「ダーホン呼びはひかるのが移ったんだよ。
 2人が期待してるような事は特にないかな」
さらりと返せば、えー、と2人して不服そうな顔をした。
2人とも鈍いなぁ。ダーホンの目に映っているのは、私なんかじゃなくてマリィなのに。
2人とは違う意味でニヤける。
指摘されたように、ダーホンとは仲が良い。彼から色々話しかけてくれるし、そもそもいい子だから自然に打ち解けた。あんなに緊張してたのが嘘みたいだ。
それで気づいたことがある。
ダーホンの視線の先にはいつもマリィがいて、気づけば目で追っていること。多分さっきも順位を見に来たのではなくてマリィに会いに来たのだ。
ゲームの中では真っ直ぐストレートな、恋愛には少々疎いキャラだったけど、なんだかちゃんと男の子してて微笑ましい。
「次なんだっけ」
「生物だよ。テストの解説するって」
「えぇ……もうテストはいいよ」
うんざりした顔をする私にマリィが、「私は解説してもらわなきゃ困るよ!」と慌てたように言った。

「よーし、じゃあ次。問5な。これは一見複雑に見えるけど……」
御影先生の穏やかな声を聞きながら、ぼんやりと校庭を眺める。
いい天気。
もくもくと膨れ上がった入道雲に、夏への期待が高まる。
再来週には夏休みが始まる。茶摘みは夏まで忙しいということで秋にということになったけれど、学校にはちょくちょく顔を出してハーブの様子を見よう。そろそろバイトも考えたい。ゲーム内での推しだった彼がいるバイトを覗いてみるかどうか、悩むところだ。そういえば、8月には夏祭りがあるってマリィが言ってたっけ。彼女は風間くんと行くのだろうか。私はどうしようかな。いっそお父さんとデートでもしてみる?なんて夏に向けて次々に期待が膨らんでいく。
昔は夏はただただ暑くて、体力を消耗するだけの嫌な季節だったけど、今はそんなムッとする熱い空気に心が躍った。
「……てことで、おーい牧。ぼんやりしてるが、聞いてるか?」
「は、はい」
慌てて視線を前に戻せば、クラスメイトと先生の視線が私に集まっていた。
完全に話を聞いていなかったことがバレているのは、御影先生の顔を見ればわかる。それなのに、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべると「じゃ問5に関連して、単細胞生物と多細胞生物の違いについて説明してくれ」と問題を投げかけてきた。若干カチンとくる。良いですよ、その挑戦受けましょう。
「38億年前に単細胞生物が誕生し……」
英語が専門だったから生物は得意ではなかったけれど、高1の基礎くらいなら頭に入っている。要点は押さえた上で説明をしてみせればどうやら合格だったようで「おう。求めた以上の答えだった」と、あっさり解放された……と思ったのは早計だった。

「牧!ちょっと昼休みに時間もらえるか。理科準備室に来てくれ〜」
授業後にマリィと共にお弁当を取り出そうとしたところで、御影先生に声を掛けられる。あぁやっぱりさっきので終わったんじゃなかったのか、と小言を覚悟して溜息をついた。
「ごめん、マリィ」
「ううん、大丈夫。でも御影先生、ちょっと授業中にぼんやりしてたくらいで、呼び出しまでしなくて良いじゃんねぇ」
マリィが不服そうに口を尖らせるので笑ってしまった。確かにマリィはよく居眠りしたり、授業中ぼんやりしている。
「さらっと聞いて、すぐ戻るよ」
ぽんぽんと頭を撫でれば私が居なくなるのを待たずに、すかさず風間くんが現れた。
「ゆっくりしてこいよ。ついでに先生とランチでもしてくれば良い。俺がこいつとランチするから」
「あぁはいはい。お邪魔虫は消えますよ」
ほくほく顔の風間くんにそう返せば、マリィがもう!と風間くんの腕を突いた。これで付き合ってないのだから驚く。まぁゲームの仕様上そういうものなのだろうけど。

「来ました」
「おう、入れ〜」
ノックをして来訪を告げれば、間延びした声が中から聞こえてガラリと扉を開けた。
「なんだよ身構えて」
私の顔をみるなり御影先生はくっくっと喉で笑うと、まぁ座れよ、とソファ席を指さして促してくる。素直に従ってソファに座ってお弁当を机に置いた。話が終わったら中庭にでも出てひとりで食べるつもりだ。今更マリィの所へ行けば風間くんに嫌味を言われかねない。
そんな私の予定を他所に、御影先生はコンビニで買ったのであろう冷やし中華のパックを机に置く。
「夏といえばこれだよなぁ。まぁ夏でなくても良いけど」
ほくほくとした顔でビニールを破り始める様子を見て困惑するが、固まっている私を見て御影先生がきょとんとした顔をする。
「なんだ、食わねぇのか?」
そう言われてしまえばこの状況でご飯を食べないのは不自然な気がして、私もお弁当の包みを開けた。
ね、狙いが分からない。
お母さんが詰めてくれたお弁当の彩りを見て、立派だなぁ、と感心している御影先生を訝しむ。
「あの、御影先生。まさか一緒にランチするために呼んだんじゃないですよね?」
「ん?なんだよつれねぇなぁ」
駄目か?なんて、麺を啜りながら上目遣いで聴いてくるその顔は悪戯を企む子供のそれだ。
「本当になんですか。言いたいことがあるなら早く、」
「じゃあ単刀直入に聞くが、なんでテストで手を抜いた?」
思いもよらない言葉を投げかけられて、ぐと言葉が詰まる。いつの間にか先生の視線が鋭く変化している。
そうだった、ダーホンだけじゃなくて、ここにも気をつけないといけない人がいた。
「……なんのことですか?」
しれっと視線を外す。
「あのなぁ」
先生が呆れたような声を出して、箸を置いた。
「こっちは出題者だぜ?わかるよ。外し方が妙なんだよ」
「え、でも他の先生は」
「俺には分かんの」
ってやっぱりか、と苦笑されて、あ、と口が開いた。私はいつも売り言葉に買い言葉で墓穴を掘る。
続けて、御影先生が肩を竦めて口を開く。
「さっきの問5の問題」
「え?」
一瞬なんのことか分からなかったが、授業のアレかとピンときた。私の表情を確認してから、御影先生の口端がニヤリと意地悪に上がる。
「お前、テストでは見当違いなこと書いてたよな?だけどどうだ、さっきの模範解答みたいな説明は。
あんな説明できる奴が、あの問題落とす筈がないだろ」
言われた言葉に唖然とする。私の解答を覚えておいた上で、あの説明をさせたのかと思うと恐ろしい。薄々気がついていたが、この人は半端じゃなく頭が良い。
「……そういう試すみたいなのってどうかと」
「お前がそれ言うか?」
段々追い詰められている自覚がありながら苦し紛れに出した言葉を、さらりと返されていよいよ言葉に詰まる。
いや、そうなんだけどさ。
罪悪感と後ろめたさから、目を合わせていられなくて逸らしてしまう。
「なぁ、牧」
穏やかな声で名前を呼ばれて、顔を覗き込まれる。目線だけで、大丈夫だ、と伝えてくる、いつもの先生のやり方。
狡いって。そんな声で名前を呼んで、そんな優しい目をされたら何もかも打ち明けたくなる。
「俺は別に咎めようとしてるわけじゃないんだぜ?
ただ、お前が何か抱えているものがあるなら、俺にも少し分けて欲しいって思ってるだけでさ」
それとも俺はそんなに頼り甲斐がないか、とこれ見よがしに眉を下げて見せた。本当に狡い。
「あ……私……」
本当は全て誰かにぶち撒けられたらと思うこともある。ずっと皆に嘘をついているような感じがあって、心に引っ掛かりを感じたまま生活していて、それが徐々に苦しくなってくるのだ。
傲慢かもしれないけれど、たまに思ってしまう。この世界は私が高校生活を楽しむためだけに作られた世界で、彼らや彼女らは私に付き合わされているのではないかと。
3年間が終われば私はきっといなくなるだろうから、それまではどうか許して欲しいなんて都合の良い言い訳を並べる自分が汚く感じる。特に今日みたいに、皆より多く持っているアドバンテージで何かができてしまった時には凹む。
でも、どうやって説明するの?無理でしょ。
自分の中の冷静な声がする。
そうだ。なんて言えば良いのだろう。私は本当は多分もう死んでいて、実は中身は26歳でこの世界に転生してきたんです、なんて言えるものか。ましてや、この世界は私が高校生の頃にやっていた恋愛ゲームの世界で、貴方方はその攻略キャラなんです、なんて。流石の先生でも理解不能だろうし、下手したら精神の病気を疑われかねない。
「……すいません」
謝罪の言葉を言うだけで精一杯だった。狡いのは私のほうだ。
本当のことを伝えられないことも、そうまでしてこれからの時間を守りたいと思うことも、全てが身勝手で酷いことをしているようで罪悪感に胸が締め付けられる。
堪えていた涙が零れ落ちる。この上泣いて逃れようとするなんて、最低。
「……牧」
優しく名前を呼ばれておずおずと顔を上げたら、先生が私の顔を見て、ははは、と明るく笑った。
「なんて顔してんだよ?べっぴんさんが台無しじゃねぇか」
よっと後に仰け反ってデスクからティッシュの箱を取って勧めてくれる。
「ごめんな、俺の勘違いだった。聞いて欲しい話があるんじゃねぇかなぁって変な邪推しちまった。でもそういうタイミングじゃなかったってことだろ?
聞いて欲しくなったら、俺はいつでも話を聞く。どんな内容でもな。だからそん時は遠慮すんな?
御影先生の懐にどーんと飛び込んできなさい」
「先生……」
胸を張って見せる言葉が優しさに満ちている。きっと気を使わせないように、明るく振る舞ってくれているんだろう。
ふと、御影先生の瞳が柔らかく揺れた。
「言いたくないこと無理に言う必要はねぇよ」
沁みじみと言ってくれた言葉に救われる。
それから、切り替えたようにからっと先生が笑った。
「俺なんか、言いたくねぇことばっかだぜ?プライベートなんてさぁ」
「ふふ……みちるとひかるは御影先生のそういうとこミステリアスだって言ってましたよ」
「そりゃちょっと格好良く言い過ぎだな。でもまぁそういうことにしとこう。さ、飯食っちまおうぜ」
私が抱えているものを見せられる日が来るとは思わないけど、その気持ちだけで嬉しいと素直に思う。御影先生は本当に尊敬できる先生で大人だ。もし私が逆の立場で、同じことができるとは思えない。
泣き腫らした目はみっともないだろうけど、今はそんな先生の優しさに甘えておくことにする。
ふわりと吹き込んだ夏の風が柔らかくカーテンを揺らした。





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「やらかした……」
己の部屋と化した理科準備室で、椅子の背に体重を預けて脱力する。
我慢して我慢して、堪えきれずに零れ落ちた涙を思い出して、半開きの口から薄いため息が漏れ出た。

ずっと違和感を感じていた。
最初は小中学校時代のことで周りに引け目を感じたくないとか、そんな理由でそれを隠しているのだろうと思っていた。けれど、どうもそれだけではないと思い始めていた頃だった。
期末テストの採点をしていて、妙な違和感を感じたのだ。いつもの授業中の牧の答え方からするとおかしな間違いが散見されたこと。それから偶々通りかかった時に見かけた、順位表を眺める牧の顔だ。
最初の期末テストで学年8位なんてかなり良い順位だと思うが、戸惑うような、複雑な表情をしていた。本多の「キミならもうちょっと上いくかと思ったけど」という言葉に、実際俺も同意だ。授業をしていれば生徒の習熟度なんていやでも見えてくるもんだ。牧はクラスの中でもかなり理解している方だと思う。他の先生方の授業も同様の評価を受けていたように聞いている。もっとも他の先生方は、まぁ調子が悪かったんでしょう、と受け流していたが。別に8位は悪くない順位なわけだし。
ただ俺が引っかかるのはそこじゃない。あいつが何か人に言えないようなことを抱え込んで、もしかしてそれで苦しい思いをしているのではないかという懸念だ。
真っ向から聞いて答えるような相手ではないと踏んで、試すようなことまでしてしまった。まぁ答えられないような相手に、あんなふうに質問することなんて絶対にしないのだが。もし失敗した時のためにきっちりフォローの言葉まで用意していたが、必要ないと言わんばかりに完璧な返答を返してくる牧に内心苦笑した。これでテストでわざとミスをしたことは判明したわけだ。
あいつはどこか脇が甘いというか、なんというか。そんなんじゃ、俺みたいに分かる奴には分かっちまうぞ、と思う。

理科準備室に現れた牧は、少しむくれたような、警戒したような表情を浮かべて立っていた。思わず笑ってしまう。
どうやって切り出すか下手に迷っていれば、痺れを切らした牧がやや喧嘩腰で言葉を投げかけてくるので俺も
下手に隠さずに真っ直ぐ聞くことにした。
「じゃあ単刀直入に聞くが、なんでテストで手を抜いた?」
自分の詰問するような口調に、自身がぎくりとする。違ぇだろ、そこじゃねぇだろ、と後悔するが、転がり出した会話の中で彼女の方が墓穴を掘ってくれてほっとした。余裕も何もあったもんじゃねぇな、と自嘲したくなる気持ちをグッと堪えて、俺の素直な気持ちを伝えてみる。
逸らされた視線を折角捕らえたのに、それはまたうろうろと落ち着きなく彷徨って、それから遂に力無く下に落ちてしまった。逡巡して葛藤して、一生懸命言葉を絞り出そうとしているのが分かる。
もういいよ。ごめんな、無理させて。
そう言おうと口を開きかけた時だった。
「……すいません」
震える声、ぎゅっと力の入った小さな肩、スカートを握りしめた華奢な手。
理由は分からない。だけど、今目の前の少女が何かに押し潰れそうになっているのが手に取るように分かる。
限界とばかりに、ぽた、と零れ落ちた涙がスカートに染みを作って、反射的に手が伸びるのを必死に押し留めた。今すぐ抱きしめて、頬に落ちるその涙を掬ってやれたらと願うのに。
それはお前の役目じゃない。
そうだな、と言い聞かせる。そうだ、これは教師で大人の、俺の役目じゃない。
代わりに名前を呼んで明るく笑ってみせれば、少しばかり牧の表情が和らいでほっとした。
冗談めかしてこの場をなんとか収めようとする。何が正解なのか、俺にはよく分からない。

さっきまで彼女が座っていたソファに目を向ける。
いつか、俺に何かを預けてくれる日が来るのだろうか。いや、別に俺にじゃなくても良いんだけど、と思って、でもやっぱり別の誰かにその役目を取られたらと思うとー。
「くそ……」
自分の女々しさに嫌気がさしてくる。
嫉妬心、独占欲、自身への嫌悪、その他諸々の汚い感情を飲み下して立ち上がった。
こういう時は土いじりに限る。
本格的に始まり出す夏の陽気が外で俺を待ち構えている。