7
ローズヒップ、ミント、レモングラス、ゼラニウム。
夏のハーブは緑が強く、花は色艶やかだ。
「皆、おはよう。ご飯だよ」
声を掛けながら水をやる。降りかかる雫を美味しそうに浴びているように見えるのは、きっとこの夏の陽気のせいだろう。
1つに束ねた髪の毛は日を遮ってくれず、じわじわと肌が焼かれるのがわかる。つ、と首筋を汗が流れていった。
「おはよう」
「おはようございます」
後から来た御影先生に、早いな、と声を掛けられて、暑くなる前に来ました、と答えると、感心感心と軽い言葉が帰ってくる。夏休みに入ってから、これが先生とのお決まりの会話になっている。
「ところで、お前は毎日毎日こんな所に来てていいのか?」
先生は手押し車を押しながらそんなことを言う。
痛いところを突かれた。そうなのだ。夏休みだというのに私は毎日ここに顔を出している。
朝ここへ来て、それから帰って宿題をして、本を読んだり映画を見て1日が終わる。
マリィは部活に風間くんとの逢瀬で忙しく、みちるとひかるもバイトやモデル業に旅行と忙しい。両親は共働きで、高校生にもなった娘の相手などしてくれるはずもない。夏祭りは父とデートの約束をしたけれど。
これからの自分の夏休みを思い浮かべると、つい顔を顰めてしまう。
「それそっくりそのままま先生に返しますよ。
実家に帰ったり、彼女と遊んだり、先生だって色々あるでしょう」
まだ若いんだから、と心の中で付け足し、自分のことは棚に上げて半ば八つ当たりのようにして御影先生に言葉を返せば、今度は先生が顔を顰めた。
「実家ぁ?態々出てきてんのに帰らねぇよ。
彼女はここの野菜と植物だし、俺は良いんだよ、ここで」
「モーリィーちゃんがいるじゃないですが」
「あいつはもう人妻だからな」
俺はもう昔の男だよ、と自分の言った言葉に自分でウケて笑っている。
要するに、私も先生も行く宛てがなく暇なのだ。
「はぁー。早く学校始まんないかなぁ……」
「はは、まだ夏休み始まって4日だぜ?」
学生は夏休みを楽しみにするもんだろう、とくすくすと笑って作業へ戻っていった。
誰もいない午前中の学校はがらんどうで、とても静かだ。休憩がてら日陰に座り込んだら立ち上がるのが億劫になって、制服のスカートから出た膝小僧をぼんやりと眺めて時間が過ぎ去っていく。
学校生活が楽しいぶん、長期の休みはこんなにも退屈なのだと初めて知った。
「お疲れ」
「ぎゃ!」
「ひでぇ声」
急に首筋に冷たい物が押し当てられて飛び退くと、御影先生がくっくっと喉を鳴らして笑う。手には汗をかいたスポーツ飲料が握られていて、不意打ちは腹立たしいが有難く頂くことにする。
「いただきます」
「おう」
ペットボトルを手渡してくれながら隣に腰掛けて、私よりも長い足を投げ出した。ボトルの蓋を開けて口元へ持っていくと、反った喉仏が往復を繰り返す。
なんということはない一場面なのだが、何故だか目が離せなくなった。
「……見過ぎ」
掛けられた言葉にはっとしたら、困ったような笑顔と目があって慌てて自分の分のボトルの蓋を開けて飲み物を喉へ流し込んだ。御影先生は何事もなかったかのように、おおすげぇCMみてぇだな、と楽しそうに笑っていたから誤魔化せたと信じたい。
「そういえば、来週課外授業ですよね?」
話を逸らすために、ふと思いついた話題を口にしてみる。マリィから、来る?というお誘いを受けて知った。私が来るなら、風間くんをなんとかして来ようかなということだったけれど。
「あぁ、ん〜……うん、まぁ、そうだ」
御影先生の濁すような歯切れの悪い返答が続く。
あ、やっぱり、と予想していたことに、思わずニヤついてしまった。
「課外授業の案内、漏れがあったでしょう?
課外授業、楽しみにしてたのになぁ〜?」
そうなのだ。主催者からの案内がないから、マリィに返事ができないでいた。暇なんだから、そりゃ参加したい。先生がミスするなんて、珍し……くはないような気がする。わりとうっかりしている所はあるから。ただこういう機会でもないと揶揄えることなんてないから楽しい。いつもしてやられてばかりは性にあわないのだ。
「大目にみてあげましょう」
「は、ははは……そりゃどうも……」
「私優しいでしょ?じゃあ今回はレポートは免除ということで」
「それとこれとは話が別だ」
期待はしていなかったけれどきっぱりと言われて、えー、と口を尖らせる。
それにしても楽しみだ。なんてったって行先は。
「駆け足で海に飛びこんで♩」
「はは、また懐かしい歌歌ってんな。そんなに楽しみか〜?海」
「えぇそりゃあもう!」
真夏の海水浴場が私を呼んでいる。
.
.
.
「お待たせしました」
「うわぁ暑い!」
「海キレー!」
真面目ちゃんを筆頭に集合場所に現れた女子を見た、おお、と声にならない男共の心の声が聞こえる。
今回の課外授業の出席率がやたら良かったことを考えるに当然の反応だろう。
「御影っちグッジョブ……!」
近くにいた男子生徒が小声で突いてくるが、いつものノリで返せない。俺までなぜこんなにソワソワしてしまうのか。
「春乃ちゃん脱がないの?」
女子の誰かの呑気な声に、視線と意識が一斉に向いた。
あぁいわんこっちゃねぇ。
男子の露骨な視線の先には、牧が立っている。
下は巻きスカートで露出が抑えられており、上には薄手のパーカーを羽織ってチャックを上まで閉めているから、実質肌面積は非常に少ない。
だからこそだ。
そうだよな、わかる、わかるぜ。上を脱いだ時の期待感が高まるのは。
健全な男子高校生の興味の矛先は十分に理解できるものの、その不躾な目線は全くもって面白くない。
それとなく自然に興味を逸らそうと進み出たところで、
「Not 紫外線」
当の本人は無表情でそう言うと、ついにはフードまで被ってしまい、男子たち全員の、なんだよ、という心のボヤきが宙に浮いた気がした。
一方で俺は何に対してか、ほっとして声を上げる。
「夏といえば海!勝手に楽しめ〜」
俺の放任な言葉に歓声が上がって、生徒たちは一斉に海に向かって走り出した。その中にちゃんと牧の姿もあって安心する。
今回の課外授業に牧にだけ声をかけそびれたのは、別にミスじゃない。単なる俺の我儘だ。
肌を人目に触れさせたくなかった。男子生徒の下卑た視線に晒したくない、なんてちょっと気持ち悪い理由もなくはなかったが、それよりも手術痕が残っているのではないかと思ったからだ。身体に傷が残っているかもしれないと思うと迂闊に誘えず、かと言って行先を今更変更するわけにもいかなかった。
それでも結局色々悩んだ挙句に、本人の意思に任せることにして連絡をしていたのではないかと思う。
まぁそんな勇気を振り絞るようなことを、あいつがさせないでくれたのだが。
「御影先生!」
きらきらと水飛沫が上がる。
クラスメイトと並んで手を振る牧の弾けるような笑顔を、眩しく目を細めて眺めて手を振り返した。
「先生」
「おう。もう戻ってきたのかよ」
「ちょっと疲れました」
ぼんやりと仲間と戯れる生徒たちを見ていたら、少し疲れた様子の牧が隣に腰を下ろす。
ちらりと横を見れば、牧の濡れた髪から雫が滴っていた。着てきた薄手のパーカーもしとどに濡れて身体に張り付いているその姿に目のやり場に困る。
「……これ、使え」
「ありがとうございます」
タオルを頭から掛けてやりながら自分の声が変に不機嫌に響くのが嫌で堪らないが、そんなことなどどこ吹く風の牧は、素直に頭にかぶせられたタオルで顔や頭についた水気を拭くと肩からタオルを羽織った。それからスンスンとタオルの匂いを嗅ぐ。
「……ふふ」
「えっ、なんだよ」
唐突に笑い出すものだから、なにか変な匂いでもしたかと身構える。そんな俺の気も知らず、牧はタオルに顔を埋めたまま、ふわりと笑った。
「御影先生の匂いがする」
「そっ……!」
それは駄目だろ……!
予想だにしなかった言葉に、心臓がぎゅうと締め付けられる。緩む口元を抑えるのに必死で、その時の俺は彼女の表情を見逃していた。
「この匂いも、水の冷たさも笑い声も日差しの輝きも、もう二度と戻らない瞬間ですね」
「……牧?」
不意にこぼれた言葉に違和感を持って横を見れば、目を細めてクラスメイトを眺める彼女の横顔があった。眩しい物を見るようなその目が、目の前の景色では無いどこか別の遠い所を見ているようで不安になる。
なんでそんな顔するんだよ。
なにか抱え込んでることがあるなら、と言いかけて、期末テストの出来事を思い出す。俺には預けられない内容なのだ、きっと。
「なんて!ちょっとポエミーでした?」
俺がぐるぐると想い悩んでいる間に、彼女はからりと空気を変えてしまう。
「……いいんじゃないか?感傷に浸るのも青春のうちだ」
彼女がそうしたいなら、俺もそれに乗ってやるべきだろう。緩く笑って返しておく。
「御影先生」
「ん〜?」
「あれ、氷室教頭ですかね?」
「……んぇえ?!どっどこ?!」
「あはは、うっそでーす!」
泡を食って慌てる俺の横で、牧が明るい笑い声をあげて立ち上がった。
「この不良娘〜!覚えてろ?」
「きゃー!こわーい」
ふざけて笑って、きらきらとした陽光の中海に向かって走り去っていく後ろ姿はその辺にいる女子高生となんら変わらない。
そうだ、そうやって走って行ってしまえ。
お前は俺から眩しく眺められる側で、同級生たちを眺める側ではないのだから。
「御影先生」
「ん?」
帰り際の海岸沿いで、真面目ちゃんが横に並んだ。
「今日は楽しかったです」
「そっか、そりゃよかった。次も頼むぜ?」
「はい!今日は写真もいっぱい撮りましたよ。見てくださいよ、この春乃ちゃん可愛くないですか?」
にこにこと屈託なく笑いながら、ほらとスマホの画面を見せてくるから覗き込んでみれば、衝撃で咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ……」
「大丈夫ですか?」
慌てて口元を抑えて顔を背けた俺に、真面目ちゃんが心配そうに声を掛けるので手のひらを見せて、大丈夫だと応える。
そりゃ咳き込みたくなる。
目に飛び込んできたのは、パーカーを脱いだ水着姿(パーカーの下はビキニタイプのトップス!ほぼ下着だろ)の牧だった。数人の女子の真ん中で今まさにかき氷を食べようとしている所を撮られたようで、ちょうど視線を上げた瞬間が写っていた。
上から撮ったアングルでの上目遣い、白い肌、胸の谷間、腰のくびれ。
あまりに露骨で、見てはいけないものを見たという罪悪感が襲う。
こんな写真ホイホイ男に見せんじゃねぇよ。ていうか、そんな簡単に上着脱いでよかったのかよ。俺はてっきり、肌を見せないようにパーカーを着て隠しているのかと。
「本当にどうしたんですか……あ、間違った」
すいません今の無し、忘れてください、という真面目ちゃんの間の抜けた言葉に脱力する。どうやら、見せようとした写真とは違うものを見せてしまったらしい。
「春乃ちゃん、海来たの初めてなんですって」
不意にぽつと零れた呟きに顔を向けると、前を向いたまま微笑む横顔があった。視線の先にはクラスメイトと笑い合う牧がいる。
「私、春乃ちゃんが楽しそうにしてるの見ると、なんだか嬉しくなるんです」
最後はパーカー脱ぎ捨ててはしゃいでました、と言って嬉しそうに笑った。彼女の過去を知ってか知らずか、そんなことを言う真面目ちゃんに目を細める。
傷跡がどうだとか、俺が変に心配していただけらしい。しっかりと友達に殻を破って貰っていることを知ると素直に嬉しい。
牧、良かったな。友達できたじゃねぇか。
「おう。俺もだ。牧が笑ってるのを見ると嬉しくなる」
「ふふ。先生も春乃ちゃんのことが大好きなんですね」
なんの邪気もなく、満面の笑顔でそんなことを言うものだからつられて笑ってしまった。
「そうだな。俺はお前ら全員が大好きだよ」
牧も真面目ちゃんもクラスの悪ガキも園芸部の奴らも、全員ひっくるめて俺の大事な生徒で友人で子供たち。こういう思考が自然にできると安心する。
「マリィー?」
「はーい!
先生、失礼します」
遠くから呼ぶ友達の声に返事をして、パタパタと駆けていく後ろ姿を見送った。
.
.
.
夏は瞬く間に過ぎて行く。
「え、日曜日なのに仕事?」
「ごめん。急な接待が入ってさ……」
うんざりした顔をした後に申し訳無さそうに頭を下げる父を見て、社会人は大変だなと思う。
「父さんも春乃と花火見たかった……」
いつもは大きな父の背中が、しょんぼりと肩を落として小さく見えて益々不憫だけれど、ちょっと面白い。
夏休みに入ってあっという間に明日からもう8月だ。
8月1日は花火大会の日。海沿いで打ち上がる花火を父と一緒に見に行く約束をして、気を使って誘ってくれたマリィやみちる、ひかるの誘いを断った。マリィたちと一緒に行っても良かったのだが、風間くんから「まさかお前は花火大会アイツと行かないよな?」という脅しをかけられていたので(風間くんは私になぜだかとても強い……なぜだ……)、マリィの誘いを断るとほかの友達の誘いを受けにくくなってしまったのだ。
父とデートも乙じゃないかということで、早くに約束をしていたのだが……。
母が苦笑して父に話しかけた。
「楽しみにしてたのに、残念ねぇ」
「そりゃあ楽しみだったよ。娘からの誘いだぞ?」
落ち込んでいる父の前に夕食を用意しながら、まぁまた機会を作りましょうよ、と慰めている。
私の両親は仲が良い。残してきた2人のことを不意に思い出して、ぎゅうと鳩尾が絞られたような気がした。
誤魔化すようにして私は努めて明るい声を出す。
「そうそう。お父さん、またどこか連れて行ってよ。じゃあお母さん行こうよ」
「お母さん、この日は同窓会なのよ」
「あ、そうだった」
この日は母が居ないというのもあって、父と2人で花火に行く事にしていたのだった。
1人かぁとちょっと考える。
花火大会は昔父に抱っこされて行ったことがあるきりだ。前の世界でも大人になって出歩ける健康状態になったにも関わらず、結局人混みが嫌で行かなかったけれど……。
「折角浴衣買ったし、私は行こうなぁ」
これはやり残したことの1つだ。明日はどうなるか分からない身としては、やっぱり行っておきたい。
「1人で危なくないか?」
「友達誘えたら誘うよ」
口ではそう言ってみるものの、恐らく皆誰かしらと約束しているだろうから1人で行くつもりではあるけど。こうでも言わなければ納得しないだろうと思ったからだ。
「うーん……」
だけど父は、渋い顔をするのみだった。
父は少しばかり過保護だ。元の世界でも同じで、大学生にもなってくると鬱陶しくなり社会人になると共に実家を出た。今となってみれば、もう少し父のこの過保護に付き合えば良かったなと思わなくもない。
「もう、いいじゃない。春乃も高校生よ?」
少しうんざりした様に母が言ってくれる。こちらの母は元の世界の母より少し強い。
「お父さん、心配してくれてありがとう。気をつけて帰ってくるよ。21時には家に居るようにする」
私がそう言うとまだ渋い顔をしていたが、諦めたのか、気をつけて行ってきなさい、と言ってくれた。
.
.
.
「はい、できた」
「うわ、凄い!」
お太鼓結びだぁ、と喜んでくるりと回れば、母が微笑みながら団扇を渡してくれた。
「もっと蝶結びとか可愛いのあったのに」
「いや、これがいい!」
浴衣にお太鼓なんて粋でいいじゃないか。
紺地に白抜きの糸菊の花が咲いている。高校生なのに渋すぎるかなと思いもしたが、浴衣を着ると少し大人びるので問題なかった。メイクも合わせて少し大人っぽくして、髪も下めに結んだシニヨンで艶っぽくしたら、大学生かちょっと童顔の20代に見えなくもない。
久しぶりに中身の自分に近い姿になれて、なんだか少し嬉しい。
「うん、流石我が娘。可愛い」
「なぁに?お母さん。親バカ!」
「どんな親も子供に対してはバカなのよ」
あはは、と笑いあった。
巾着に細々と荷物を詰めて、下駄に足を通す。
「行ってきます」
玄関ドアを開けたら、夏の湿った暑い空気がぺとりとまとわりついた。
縁日だ。提灯や出店の明かりが暖かい光を投げかけている。思わず、うわぁ、と声が漏れた。
焼きとうもろこし、たこ焼き、イカ焼き、わたあめ、ヨーヨー、りんご飴……。
なんで、私は20代の時に行かなかったのだろう、ともはやその迂闊さに腹立たしさすら感じる。
友達と来なくて良かったかもしれない、と思う。だって、こんなに興奮しているところを見られたら恥ずかしいし、流石に不審に思われそうだ。
からんと下駄が鳴る。落ちてきた後れ髪を耳にかけて、少し自分を落ち着かせた。今日は大人な気分で出てきたけれど、心はすっかり子供に戻った。
「すいませーん!イカ焼き1本ください」
「あいよ!綺麗なお姉さんには、一味おまけしちゃう!」
「あはは!ありがと、おじさん!」
出店のおじさんとの軽い会話も楽しい。
調子に乗ってあれやこれやと買い込んでは道端で食べる。外で、道端でご飯食べてる……!とそれすらも感動だ。
普段なら食べ物を買い込んで1人道端でもりもり食べている女がいれば不審がられそうなものだけれど、今日はお祭りで皆浮かれているから私の事など誰も気にしていない。
「うま……」
焼き鳥を平らげてほう、と息をつくと、向いのりんご飴の夜店のお兄さんと目が合った。ちょいちょいと手招きされて、誘われるようにふらふらと近寄る。
「お姉さん、いい食べっぷりだったねぇ」
「お恥ずかしい……」
「あはは、お姉さん可愛いね。
実はさ、さっきちょっと失敗して割れちゃったいちご飴があるんだよ。いる?」
「いる……!!」
気のいいお兄さんは、いい返事、とまたひとしきり笑うと、はい、と飴を差し出してきた。確かにちょっとヒビが入っている。
「いくらですか?」
「お姉さん、可愛いからプレゼント」
うわ、チャラぁい。
綺麗な金髪の少し長めの髪に、片方だけ揺れるタイプのピアス。典型的なヤンキーだけれど、びっくりするくらい綺麗な顔をしている。この顔に惚れる女の子は多いだろう。
「彼氏とはぐれた?」
「んー、そんなとこかな」
何となく話に乗ってみると、
「こんなに綺麗な子を1人にして、彼氏も心配してるでしょ。彼氏が来るまで俺が彼氏役やってあげよっか?」
お兄さんは調子の良い言葉を言ってにっこりと微笑んだ。これは多分、高校生だとは思われていないようだ。
歯の浮くようなセリフだけれど、イケメンに褒められるのは嬉しい。ちょっとばかりテンションが上がってしまった。
「うふふ、いちご飴ありがとう」
「なぁんだ、つれないの。どいたしまして」
さて次は何をしようかな、と振り向きざまに店の外に出たら、丁度歩いてきた人の目の前に飛び出してしまった。
「おっと」
軽い驚きの言葉に、やってしまった、とすぐに頭を下げる。
それから、視線を上げて目を見開いた。
ーーーーーーーー
「あーあっちい……」
賑やかな祭りの雰囲気も、スーツ姿じゃ全く楽しめない。こんな日に見回りとは教師は辛い。
毎年見回りをしているわけではないのだが、今年に関しては氷室教頭が得てきた変質者情報により、特別警戒ということで見回りをすることになったのだ。
もちろん氷室教頭自身も出てきている。あともう1人は俺だ。独身で暇であるということから白羽の矢が立ったのだろう。「私も行きます。御影先生お願いできますか」なんて氷室教頭に言われたら、断れるわけねぇじゃねぇか。
それにしても意外に知り合いに会わないもんだな。
会場をぶらぶら歩きながら知った顔は居ないかと見回すが、見知らぬ顔ばかりだ。
あともう少しで花火が上がればお役御免。せめて夜店で何か買って帰ろうと物色していると、横のりんご飴屋から浴衣姿の女性が飛び出してきた。
人の前に飛び出してしまったことに気づいたその人が、慌てて頭を下げる。
「す、いません……って御影先生?」
「え……牧……?」
ぱっと上を向いたその目が大きく見開かれて、俺も目を瞬いた。目の前の女性が牧だと分かったのは数秒後。
華やかなメイクに楚々と結った髪の後れ毛が色っぽくて、いつもより大人びて見える。紺地に白い花の散るその浴衣がまた、雰囲気をぐっと上品にしていて……端的に言うなら見蕩れるくらい綺麗だった。
「あの、御影先生……?」
「あ、あぁ、すまん、ちょっとぼーっとしちまって」
大丈夫ですか、と心配そうに顔を覗き込まれるので、顔を逸らす。やめてくれ、今、下から覗き込むのは。
「おねーさーん、彼氏見つかったー?」
不意に若い男の声がして振り向くと、彼女が飛び出してきた屋台から金髪長髪ピアスの如何にもな輩が牧に手を振るのでぎょっとする。更に驚いたのは
「あはは、うん!」
その言葉に大きく頷いて、牧が俺の腕をとったことだ。息が止まるかと思った。
「彼氏かっこいいね」
そう言ってにやにやと笑う男に、牧は少しも動じずに、そうでしょ、とだけ言ってのける。
そうでしょ?……そうでしょ?!
完全に動揺しまくっている俺の腕を引いて歩き出した牧に動かされて、はっと我に返った。
「あ、おい、なに」
「すいません、先生、ちょっとだけ付き合って」
お願い、と目を見られてしまえば、振りほどくことも出来ない。
されるがままに連れられて暫く歩いた所で、牧が笑い出した。
「あははは!あー楽しい。あの人、私のこと何歳くらいに見えてたのかなぁ」
「お前なぁ……」
こっちの気も知らずに朗らかに笑っている牧を見て、呆れてしまう。
「いやだって、あの人……」
腕を組んだまま笑顔で見上げられて目が合った。
一瞬の間。それから、万歳の形で手を離される。
「す、すいません!」
自分でしておいて、その顔は駄目だろ。
耳まで真っ赤になったその顔を見て、一瞬思考が止まりかけたが妙に落ち着いてしまった。自分より動揺している相手を目の前にすると冷静になるものだ。
ちょっと浮かれ過ぎました、と慌てている牧の姿に思わずくすりと笑ってしまう。と、周りが見えていない彼女が人にぶつかりそうになった。
「あぶね」
咄嗟に肩を引き寄せたら、思ったより小さい身体がすっぽりと収まってしまう。成り行きだったが、彼女は完全に言葉を失ってしまったようで俺の腕の中で固まっている。妙な高揚感と嗜虐心。
だからといって何をするわけでもないが。
「はしゃぎ過ぎ注意な」
「は、はい……」
ぱっと手を離して解放してやれば、全身から力が抜けたようで、息をついた彼女を見て笑った。
「はは、気を付けろよ?不良娘」
「ふりょ……もう、馬鹿にして」
つんとそっぽを向いてしまった彼女の首がほんのり赤い。
「そう怒んなよ、べっぴんさん」
「揶揄ってるでしょう?」
ムッとした声を出して振り向いた牧と視線が絡んだ。
俺今どんな顔してんだ。
「いや、でもほんと、」
綺麗だ。
その言葉をちょうど俺の後ろで咲いた花火が掻き消してくれたことを祈る。
もっとも、目の前の牧の反応からするに届いちまったかもしれねぇが。
「ついでだし、花火見るか」
「……はい」
彼女が今手の甲で押さえた頬は俺が赤くしたのだと、自惚れた気持ちはそっと隠して花火を見上げた。
・
・
・
「今更だけど、はぐれたとかじゃなくて、お前1人で来たんだよな?」
「はい。本当は父と来る予定だったんですけど。父は急に仕事が入って……友達もそれぞれ約束があるだろうし1人で来ました」
花火終了のアナウンスと共に帰路に着く人波の中、のんびり歩きながら言う牧に顔を顰めた。
「そりゃ危ねぇよ。よくご両親が許したな」
「親には友達を誘おうかな、と言ってありましたから」
「お前……不審者が出てるっていう情報もあんだぜ……さっきも声掛けられてたろ」
「あぁ、あれは」
左上を見てちょっと考えて、それから、ナンパ?と楽しそうに笑っている。危機感が足りなさ過ぎて頭が痛くなってきた。
「じゃあ帰りも1人なんだな?」
「ええ、そうですね」
「送ってく」
俺の言葉に、えっ、という顔をした牧を見て、前もこんなことあったなと思い出す。
ああそうだ、入学式の日だ。
出会った時からそうだ。どこか危なっかしいこの子にずっと振り回されている。俺が勝手に心配になって、不安になるけれど、俺が思っているよりきっと、彼女はずっと強い子なのだろう。それでも、だ。
「こんなべっぴんさん、ひとりで歩いて帰すわけにいかねぇだろ」
「もう……ふふ……じゃあお言葉に甘えます」
「……ったく……わかってねぇなぁ」
自分がどれだけか弱くて、甘い存在なのかが分かっていないところは、やっぱり俺を不安にするんだ。
夏の夜道はもったりと重たい湿気を含んだ空気で満ち、心地良い疲れが歩みを緩やかにする。
ぽつりぽつりと並んだ街頭、夜空には薄い三日月が浮き、カラコロと鳴る下駄の音が横を歩く
女性の存在を知らせる。
やっぱついて来て良かったな、とこの静けさに自分の判断を認めた。
「お祭り、楽しかったです。小さい頃ぶりだったけど、大人になって来たのにあの頃よりきらきらしてた」
「大人になってって、お前はまだ子供だろ」
「え?……あぁ、そっか……言葉の文ですよ」
祭りの余韻が続いてるのか薄らと笑った牧の言葉に突っ込みを入れると、今気が付いたかのような顔をする。
自分のことをもう大人だと思っているのかと思うと、益々今後が心配になる。
「あのさ、俺はどんな生徒のことも、子供だからって侮るつもりはねぇよ。でもな」
コツ、と俺の靴の音が下駄の音に重なった。牧が俺の顔を見る。
「お前はまだ高校生であることは事実で、守られる立場なんだよ。危ないことも、自分ひとりで解決できないことも山程ある。なんでもやってやれるような気持ちになるのも分かるが、もう少し上手く大人や周りを頼ってほしい。今日だって、最初から諦めずに友達に声かけりゃ良かっただろ。別に俺でも良かったんだぜ?」
最後は冗談めかしたが、自分で口にして、あぁ、と気がつく。俺がこの子に不安になるのは、時折妙に大人びた思考と決定や物言いをするところだ。外見は大人びていても中身はまだ16歳だな、なんていう感想は抱きやすいのだろうが、彼女の場合は逆なのだ。外見や立場と、その中身のそぐわなさがとても危うく感じる。我儘を言わない代わりに、なんでも自分でどうにかしようとしてしまう。試行錯誤はいいと思うが、あまりに潔すぎるところがあって、その思考の仕方や判断が少し高校生のそれとはズレる。もう少し歳をとって自分の人生を丸ごと自分で引き受けられる覚悟ができてからするような考えを、なぜかこの子は自然にしてしまう。
「……子供子供って、それは子供扱いして“侮っている”のではないのですか?」
「だけど、大人でもねぇだろ。だったらそれは“妥当な扱い”だ」
それでいて、こんなふうに駄々を捏ねるんだ。大人なんだか、子供なんだかとため息をついて、大体そんなふうに返してくるところが子供なんだ、と売り言葉を買いかけて口を噤んだ。
あれ、俺なんか……。
相手の言葉に波立っていく自分の気持ちに気がついて驚く。今まで生徒相手にこんなふうに苛立ったことなどなかった。大抵は穏やかに、いつも違う土俵から声を掛けていた筈なのに。いやいやそれどころか、これまでの人生でこんなことってあったか?急に留学なんて不当な両親の決定さえ、呑み込んだ俺が。
「私は、子供じゃありません」
牧の決然とした声に思考が途切れる。
「あのな、俺の話聞いてたか」
「先生は」
呆れた俺の言葉を遮って、完全に歩みを止めた牧がぎゅうと巾着の紐を握りしめた。
「大人の立場で私に言っているんですか、それとも先生としての立場?」
俯いていた視線が上がり、冷たい怒りを湛えた眼差しが俺を捕らえる。
「前に、私は私のままでいいって言ってくれましたよね。あれ、すごく嬉しかったんです。
立場とか関係なく、私を人としてちゃんと見て、掛けてくれた言葉だと思ったからです。だけど、今日の貴方は……」
どんどん心理的な距離が離れていくのがわかる。
違う、と言いかけて、何も違わないことに愕然とする。俺は何、もの分かりの良い教師みたいなこと言ってたんだ。
「つまらない、ただの大人で先生です」
言外に含まれた、こんな人だと思わなかったという落胆が聞こえた気がして、言葉を失う。
「送って頂き、ありがとうございました。あそこが家です。9時には家に辿り着くように父に言っているので、帰ります」
2軒先の家を指差して澱みなく言い、俺に反論の隙も与えない。話すことはないと言わんばかりに踵を返して、行ってしまった。その後ろ姿を俺はただ茫然と見送ることしかできず、祭りで浮ついた気持ちは急速に冷えていった。
敗因は何か。それは俺の愚かさだ。
俺を頼ってほしい、側に置きたい、危ない目にあわせたくない、そういう欲の根底にあるもの。
本当はもう最初に出会った頃から芽生えていたものなのに、ずっと見ない振りをしていた。心の中でさえ、絶対に言葉にしてはならないと思っていたその気持ちが、こんなにも早く膨らんでいたことに気がつけていなかった。
目を逸らし続けて、俺にとって収まりの良い“大人としての庇護欲”という器に無理やり押し込んでいたのがこんな形で出てくるとは。ちゃんと認めて、苦しくても抱えて、その上で御影小次郎として言葉をかければ良かったのか。
スマホを取り出して、クラスの連絡先の中から牧の名前を触りかけて迷う。
でもじゃあ、なんと言えばいいんだ。俺がもし牧と同じ歳で隔たりが何もなかったなら、とどうしても考えてしまう。裏を返せばそれは、俺がガチガチに立場や関係に縛られているということだ。
だけどさ、牧、実際お前が子供で高校生であるように、俺もまた教師で大人であることはやっぱり変えられない事実なんだぜ。
「あぁ、もういい!」
知るか、と口に出して言ってみれば、幾分かスッキリした気持ちになって息を吐いた。
ーーーーーーーー
「やってしまった」
帰宅後すぐに、先に帰ってきていた父にただいまとだけ言って、自室のベットに倒れ込んだ。
私ってこんなんだったっけ?と自分に落胆して、いやでもこういう可愛くない女だった気がすると素の自分を思い出して溜息をつく。
それにしたって自身の幼さに嫌気がさす。肉体が高校生になると精神まで高校生になるのだろうか。
御影先生の言うことはもっともだ。今私は16歳で、実際親の庇護なく生活することは難しく、何を選択するにしても保護者の同意が必要である。それは今の私がまだ子供で、守らなければ様々な危険に晒される存在だからだ。誰も私に大人の判断力がある事など知らないのだ。
いや、私は実際幼いのかもしれない。大人な考え方をすれば、自分の置かれた立場と周りの人々の立場を考えて迷惑をかけない選択をするのだろう。けれど、それでここに来た意味があるのだうか。失った青春を取り戻すチャンスを得たというのに。
「そんなこと思ってるから子供だっていわれるんだよ」
呟きは部屋に響く。
本当はわかっている。
こんなに意固地になったのは、相手が御影先生だからだ。
御影先生には言われたくなかった。
1人この世界に放り出されて、不安もあれば苦しさを感じることもあって、そんな時に"お前はお前でいい"と私そのものを肯定されたことにどんなに安心したか。高校生や、娘や、友達としての私ではなく、私自身を見てもらえた気になっていた。
だからなのか、立場という線を引いて物を言われたことに酷く腹が立って、悲しくなってしまった。本当は私は貴方の隣に居たっておかしくないのにと、気づかないようにしようとしていた気持ちが溢れてしまった。
あんな目で、綺麗だ、なんて言われて、舞い上がってしまったのかも。それこそ、本来気をつけるべき私の立場を忘れて。
ふと海での課外授業の後、海辺を歩く2人を思い出す。
これで良かったのかもしれない。そもそも近づくべきじゃなかった。
そりゃあ恋愛ゲームの男の人なのだから、魅力的に決まってる。だけど、それはマリィの為に発揮されるべきもので、私に対してではない。
「……着替えよ」
起き上がって、帯に手をかけた。しゅるりと解けた帯と共に心も解けていく。
〜♩
不意にスマホから着信音が鳴った。誰だろう、とひっくり返していた液晶を表にして、
「……なんで」
顔が歪むのがわかる。
暫く鳴っているスマホを見つめていたらとうとう切れて、ほっとしたら再びスマホが鳴った。出るか出ないか、逡巡して手を伸ばした。
「……はい」
「もしもし、俺だ」
観念して出れば、今一番聞きたくなかった声が耳元でする。
「御影先生、なんですか」
「ちょっと話せるか」
平常な声を出そうとするのに、どうしてもぶっきらぼうになってしまう声が嫌だ。それでも、先生がスマホの向こう側でふっと微笑んだのが分かる。。きっと眉を下げて、あの困ったような笑顔を浮かべているのだろう。
「……」
「よし、じゃあ今から言うのは俺の独り言。いくぞ〜」
御影先生の軽い笑い声と、息遣いが耳をくすぐる。
「俺はさ、お前が可愛くて仕方ないんだよ。なんかほっとけなくてさ……なんでだろうな。多分、俺自身と重ねちまうんだろうな」
少しの間の後、実はさ、と先生の声がほんの少し掠れた。
「俺、高校は海外に留学してて、ほとんど高校生活なんてないようなもんだった。飛び級で周りと歳も離れすぎてて、友達と遊びに行くとかそういうのも全然なかった。だから、はば学でお前らみんなの青春に便乗させてもらって、俺も高校生活楽しんでるつもりだった。
でも、不器用に高校生活送ってるお前見てると、どうも俺のそういう消化し切れなかった思いみたいなものが刺激されちまうんだろうな。気持ちを寄せすぎちまって、なんかもう、お前のことよりお前を応援したい自分の気持ちの方が前に出ちゃうんだ」
初めて聞く先生の過去に、ああこの人は私と同じだ、と思うし、彼もまたそう思ったのだろう。きっとこの人は私のこれまでの過去のことを知っている。
御影先生は少し言い淀んで、それから息を吸う。
「ガラにもなく説教じみたこと言っちまったことは、謝るよ。すまなかった。俺はただ……」
「……先生?」
急に止まってしまった言葉に思わず声をかけると、ふっと笑ったのが分かった。
「……悪い、喋り過ぎた。だけど、立場とかそんなん関係なく俺が個人的に、お前のことを勝手にものすごぉく気にかけているってだけ。ま、俺の我儘だな。だけどこんなこと言えないだろ?だから教師と大人の権限使っちまった。悪かったな」
そこまで言うと、よーし独り言終わり!と締め括くる、明るい声に苦しくなる。
「先生、私」
「ん?」
ーきっと貴方に気にかけてもらえるような人間ではないです。嘘をついて、ここにいるのだから。
出掛かった言葉を飲み込んだら、先生の穏やかな声が続きを促してくれる。
ああ今全部吐き出してしまえたら楽になれるのに。
私は本当は26歳で、貴方と同じように青春を取り戻そうとしていると。だけど、御影先生は大人で私は高校生なんて随分不公平な話だ。
「……今日一緒に花火が見れたことも、送るって言って貰ったことも、本当はすごく嬉しかったです。
ひとりで来て良かったな、なんて思ったくらい」
「お前なぁ」
「分かってます。確かに私の行動は少し軽率だったと思うから……次は最初から御影先生を誘いますよ」
「えっ?!」
耳元で大きな声が響いて、あからさまに動揺しているのが分かって笑ってしまう。
この気持ちが届いてもらっては困るのに、伝われと思う私の矛盾した気持ちが内側で暴れ回っている。
だけどここら辺が潮時だろう。
「そうしたら他の子も誘って何人かで行きやすいし、先生も花火大会誰かと楽しめるでしょう?」
「あ、あぁ〜!そうだな。そうしよう、それがいい」
これでいい。
この世界の異物である私が、世界の不文律を壊してこれ以上御影先生と近づきすぎるのは良くない。
それでも、想うだけならどうか許してほしい。
「じゃ、仲直りな」
「はい。……先生、私初めて人と喧嘩して仲直りしましたよ」
「おおー!いいな。実は俺もだよ」
電話越しに笑い合う。
こうやって穏やかに3年間が過ぎていけばいいと願った。
そんな私の祈りは、近いうちに崩れ去ることになる。
続