8



夏休みは当初想像していたより忙しく過ぎていった。
宿題、勉強、遊び。
両親とちょっとした旅行にも出掛けた。花火大会をすっぽかしたお詫びにと、父が母と私を連れて海辺の温泉に連れて行ってくれたのだ。

「先生。はい、お土産」
「おお〜ありがとうな」
昨夜ラッピングした袋を渡すと、御影先生がにこにこと笑って受け取ってくれる。うっ笑顔が眩しい。
先生とは夏休み中にも関わらず、ほぼ毎朝学校の畑で顔を合わせている。結局夏休みは毎朝学校へ出てきては、ハーブたちの世話をしているからだ。先生は勿論当たり前のように毎日学校にいる。
植物の世話をしだしたら案外やることが多いというのと、日々の変化を見たいという気持ちから自然に足が学校の畑へ向いてしまう。本当にそれだけか、と聞かれるとバツが悪いけれど。
「おお!すげえな、綺麗だ」
「そうでしょ。海で拾ったシーグラスをつけたサンキャッチャーです」
「いいな。俺まで旅行に行った気分だ」
早速陽光を反射して煌めくサンキャッチャーを見て、穏やかな笑みを浮かべた御影先生が言う。
この顔を見て嬉しくなるくらいのささやかな幸福くらいは、どうか赦して欲しい。
 
「夏休み、あっという間だったなぁ」
「そうですね」
「明日から二学期か〜。課題は終わったか?」
「そういうのは、早めに片付けてるんで大丈夫です」
胸を張って言うと、そっかそっか流石だな、と褒められてそわそわとした気持ちになる。にこにこと上機嫌な様子で草をむしりながら、先生がふと口を開いた。
「お前の夏休みのクラブ活動レポート、読むの楽しみだ」
毎日植物見に来てたからいいのが書けただろ、と笑う御影先生を見る。
「え」
「え?」
目を丸くした先生と数秒間見つめあった後に膝から崩れ落ちた。
やってしもうた。
「……忘れてたんだな?」
「いえす……」
やっばい、まじで明日じゃん、明日提出じゃん、どうするよ。
「ちょ、先生、私帰りま、」
ぼけっとしてる暇は無いと慌てて立ち上がったら、がくんと身体が傾いだ。
「……俺のPC貸すから……理科準備室で書いてくか?」
御影先生が私の制服の裾を引っ張っている。眉を下げて見上げられた視線に充てられて、顔が、身体が熱い。
「う……えっと……じゃあ、お言葉に甘えます……」
「……っし!それじゃ、行くか!お茶くらい出すぜ」
ぱっと変わった表情が眩しい。勢いよく立ち上がってどこか楽しそうに話しかけてくるその口調に、私も口元が緩む。
ちり、と胸が微かに痛むけれど、見ないふりをした。ただ、目を掛けてくれているだけ。勘違いなんてしない。まだ大丈夫、これはただの学校でのひとコマ。近寄り過ぎてない。心の中必死で言い訳を並べ立てる私のことなど、知りもしない先生の大きな背中を見つめた。




 

ーーーーーーー




思わず引き止めたのは、今日をまだ終えたくないという、俺の未練たらしい貧乏根性からだ。手を握って止めなかったのは、ギリギリ拮抗している理性の証。
夏休みが楽しいと、このまま終わるなと、思ったのは初めてだった。朝、学校へ来たら牧が緑の波の中に立っている。その景色をいつだって、何度だって目に焼き付けた。
何故こんなにも、彼女に惹かれるのか分からない。だけど、どう目を逸らしても、牧は特別で、いつだって目で追ってしまう。相手は16歳で、俺は20半ばの、女子高生から見ればおっさんで、正気の沙汰じゃないのは重々承知だ。自分で自分を心底おぞましく思う気持ちは常に頭の片隅にある。それでも。
「う……えっと……じゃあ、お言葉に甘えます……」
合わせた視線をゆっくりと彷徨わせて、赤い顔で口をへの字に曲げる彼女を見る。
あ、照れた。
進展は望まない。ただ、もっと色んな顔を見たい、俺の言動でその色を変えてくれる様をもっと、と想う気持ちに動かされてしまう。
花火大会の日の、巧妙に本音を混ぜた電話での会話。あれ以来、閉ざしていた自分の気持ちの蓋が外れてしまったみたいだ。
まだ大丈夫だ、これは自然な親切。ただ俺が想っているだけ。そして、彼女の反応に意味なんて見出さない。
教師と生徒、その一線さえ守れば。
俺の後ろをついてくる存在を感じながら、自分がしてしまった行為と俺をつき動かした想いに言い訳をした。


.
.
.



「お、もうこんな時間か」
伸びをすると理科室の木製椅子がかた、と音を立てた。日中外作業をして、それから明日からの準備の為に理科室にいる。自分の部屋と化した準備室を牧に貸し出したはいいものの、密室に2人でいることはできずに隣の部屋で作業することにしたのだ。
集中していたら、時刻は13時を回っている。
そういや昼まだだったな。
ぐう、と鳴る腹に空腹感を気付かされる。牧を誘ってランチにしようと立ち上がり、準備室へ続く扉をノックした。
「牧、入るぞ」
声を掛けるが返事がない。
牧?と再度声を掛け、そっと扉を押して開けてみる。

部屋に入ると、PCの前でうつ伏せている牧が目に入った。
居眠りなんて珍しいな、と少し驚く。
授業中にぼーっとしていることはあっても、居眠りをするような生徒ではない。夏の疲れが出ているのか、それともここが心地良かったのか。
ひんやりとした室内、時折舞い踊るカーテンの影、静かな空間で窓際のサンキャッチャーが反射する光の粒が揺れている。
確かに、なんだか夢の中にいるような光景だと思った。
「ん……」
小さく身じろぎした牧が身を起こす。どうやって起こせばいいのか迷っていたから、助かったとほっと息をついたのも束の間だった。
「……せんせ……?」
ぼんやりとした表情で俺を見たその顔に吐き掛けた息を呑む。
「……お前……牧、だよな?」
思わず言葉にして、目を瞬いた。俺の知っているあどけない顔はそこにはなくて、涼し気な瞳が俺を映した。大人びた、ではなく、その顔は大人の女の顔で頭が混乱する。どう見てもそれは、牧がそのまま大人になった姿に見えた。
「何言って……って、うわぁっ」
「あ、わ、悪い」
もっと近くで見ようと近寄ったのが不味かった。驚かせてしまったようで、思いっきり身を引いて顔を背けられて、俺も慌てて距離をとる。どっどっどっと心臓の音が大音量で鳴っている。
なんなんですか、もう、と首筋まで赤くなった牧がぶつぶつと文句を言い、それから、ゆっくりと視線がこちらを向いてー。
それはいつもと変わりない少し生意気そうな瞳。不服そうな顔もまた見慣れた表情で、まだ少女と青年の間の顔だった。
いやいやいや……やべーだろ。願望で幻覚見たか?
思わず両目を指で押した。
「……先生?」
「いや……なんかちょっと、夢見たかもしんねぇ」
「えぇ?寝てたのは私の方なんですけど」
可笑しそうにそう言う声に目から手を離せば、うっすらとぼやけた世界で牧がくすくすと笑っている。
やっぱそうだよな。
あどけないその表情を見て、安堵が胸を占める。それから、若干の落胆。
一瞬立場も年齢も気にしなくていい、違う世界の2人を想像してしまった。
「……俺のことはいいんだよ。レポートはできたのか?」
馬鹿な考えをかき消すように言うと、ご心配なく、もう終わりました、と牧が得意気に胸を張った。

「そういえば、さっき私も夢見てたんですよ」
学校近くの喫茶店で軽食を注文して待っている間に、思い出したように牧が言った。
「へぇ。どんな夢だ?」
聞き返すと、よく見る夢なんですけど、と言い掛けて、一瞬固まった後に牧は困ったように笑う。
「やっぱり内緒です」
「おい、なんだよそれ」
気になるだろ、と返すと視線を逸らしてまた笑った。
「でも、素敵な夢なんですよ」
そう言って、花が咲くように。















朝起きて鏡を見ると私は大人で、それを当たり前のように受け入れる。
歯を磨き終えてもまだ覚醒しきらない頭を振ると、背後から腕が回されてその腕に顔を埋めて声を掛ける。
『おはよう』
『ん……おはよ』
寝起きの鼻にかかった声が返る。
朝最初に交わす言葉、お揃いのスウェット、色違いの歯ブラシ。
今日は何をしようかと思いを巡らせる。
そろそろ植物の植え替え時期が来るから園芸屋さんに行って、それから夕食の買い出しをして、夜は映画でも見ようか。
『春乃』
少し掠れた声が耳元でしてくすぐったい。
『愛してる』
囁かれる言葉を、私は当然のように享受して微笑む。
『知ってる』

〜♩。
「んん……」
枕元で鳴り響くアラームで暴力的に起こされて、無理矢理起き上がった。手探りで明るくした液晶を薄目で見て、アラームの停止ボタンを押す。のろのろとベットの端に腰を掛けて室内の姿見に視線をやると、そこにはいつも通り10代の私がいる。
最近よく夢を見る。20代の私の夢。
どれもこれも他愛ない日常の風景で、フィルム映画のように流れる幸福なそれを見ている。
ただこの世界に来る前の20代の私の人生と違うのは、いつも隣に同じ人がいることだ。
「……いや、ちょっとイタくない?」
自嘲気味にそう言って立ち上がった。












2学期が始まってもう暫くが経ち、あっという間に秋だ。そうこうしているうちにすぐに冬がやってきて、春が来るのだろう。意識すればする程時間の流れは早い。
「ねぇねぇ春乃ちゃんは文化祭何するの?」
「園芸部の皆と合同でお茶部としてクラブ出展の予定だよ」
休み時間に文化祭の予定を聞かれてワクワクを隠せずに返すと、じゃあ遊びに行くね、とマリィが楽し気に言った。
文化祭に向けてそれぞれが動き出している。マリィは新体操部だから特にクラブで何か出展することはないらしく、クラス出展に専念するのだと楽しそうに話す。クラスの出展は和風喫茶だ。ゲーム内の文化祭の記憶が無く、そうだったっけ?という感じだ。
「着物は俺が見繕うから、楽しみにしとけよ」
「涼くん……」
急に話に入ってきた風間くんにより、一気に2人の世界になりやや辟易する。ここのところ、ともすればこうなる。ふと昼休み中のクラスを見回すと、この2人だけでなくちらほらと距離感が妙に近い男女が多くなった。やれやれ青春だねぇとそんなことを思う。
「そういえば、園芸部もカフェ出店だったよな。何を出すんだ?」
「おぉ、それを聞いてくれるか、風間くんよ」
文化祭の話題を振られて、待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせた自覚がある。風間くんが、やば、という顔をしたのをしっかりと認知したが、今回のお茶部の出展について語れるのが嬉しくて仕方がない。
人生初、お茶部初の文化祭出展は、園芸部の皆と一緒に育てたハーブを使ったお茶とお菓子に加え、はばたき山お茶園の協力のもと、秋収穫のお茶を出すことにしたのだ。しかも紅茶として出す予定だ。
実は、緑茶も烏龍茶も紅茶も全てお茶の葉自体は同じだ。加工工程によって種類が変わる。本来秋収穫のお茶は番茶といって、世間的には新茶には劣る普段飲みのお茶というレッテルが貼られている。しかし、この秋収穫のお茶をしっかり醗酵、乾燥させることで、オータムナルという1年のうちで最も香りが甘くまろやかで優しい味わいの紅茶になる。はばたき山茶園は秋収穫のお茶を番茶としても出しているが、セカンドブランドで紅茶の販売も行っている。今回はその収穫、製造の過程を少しお手伝いさせて貰えることになった。実はすでにもう何度か茶園にお邪魔して収穫や紅茶にしていく作業の手伝いをしている。毎回実体験を伴う新鮮な驚きが堪らなく楽しい。あとは販売用の紅茶にオリジナル包装をするところまできている。パッケージのデザインはそういうのが得意なみちるに手伝ってもらっていて、その作業もとても楽しい。クラブ出店時に掲示するために写真も大量に撮ったし、まとめるのが楽しみだ。
「春乃ちゃん、すごぉい。絶対紅茶飲みに行くね!ね、涼くん一緒に行こうよ」
「いいけどさ……毎回思うけど、お前お茶のことになるとすげぇ喋るよな」
そういうとこ本多に似てる、と笑った風間くんを見て、マリィが目を輝かせた。
「そうなの……!春乃ちゃんと本多くんってお似合いだと思わない?」
「あぁ、お互い研究者タイプって感じだな」
確かにダーホンは私のお茶談義に同じくらいの熱量でついてきてくれる唯一の同級生(園芸部員の子達でさえ私の話が始まるとスーッと引いていくのが分かる)であり、話していて楽しいがそれはそれだ。大体、ダーホンが私のところへ来るのはマリィ目当てなことは火を見るより明らか(これは、みちひかツインズと同意見だから確か)なのに気がついていないマリィと、それをいいことに多分気がついていて知らぬ振りをしている風間くんという背景が見え隠れする。
不意に2人の視線が私の背後に向き、噂をすれば本人か?と思いながら後を振り向くと別人が立っていた。
ー今朝、夢の中で会った人。
「牧と誰がお似合いだって?」
「……御影先生、盗み聞きですか」
恋バナなら俺も混ぜてくれ、と笑っている人を見上げた。
急に現れると心の準備ができていないから、心臓が煩い。それにこんな話は聞かれたくなかったな、という気持ちも相まって、色んな感情を誤魔化すように口から出た言葉は結局憎まれ口だ。可愛くないなぁ、と自分で自分に呆れてしまう。マリィみたいに可愛く、あ、せんせぇ、と甘ったるく言えたらいいのに。……いやダメだキャラじゃなさ過ぎて寒気がする。
「なんだよ、つれねぇなぁ。いいだろ混ぜてくれたって」
口を尖らせた先生のことをマリィがくすくす笑い、風間くんは呆れたように見ている。
「何か用があったんじゃないですか、先生」
「はいそうです、俺はお前に用事があったんです」
2人が変なことを言う前にと先に声を掛けると、面白くなさそうな顔して、それから明るく笑った。
「今週末、待ち合わせはバス停近くでいいな?時間は6時でどうだ。7時に茶園到着予定で。車で行くぞ」
「え、いいんですか?」
「何言ってんだ。お茶部顧問として、その辺は任せろって言っただろ」
先週、今週は公用車借りれねぇんだよな、とボヤいていたことを覚えていた私が、車ないって言ってませんでした?、と聞くと、レンタカーだ。大人だろ、と胸を張る。
「えぇ?!すいません、なんか、そこまで」
「俺がしたくてやってんだ。文化祭は準備も含めて楽しい!出店まで目一杯一緒に楽しもうぜ」
じゃあな、と鼻歌混じりに去っていく御影先生の後ろ姿を見送って、ふうと息を吐くと2人と目が合った。マリィがにこにこしながら口を開く。
「御影先生ってさぁ、春乃ちゃんと話してる時は先生じゃなくて高校生みたいになるよね」
楽しそうなマリィの言葉を受けて、風間くんが頷く。
「あぁ、俺も思った。そもそも子供っぽいところある人だけど、牧と話してる時は特にな。
さっきも、なんかデートを心待ちにして浮かれる男子みたいな?」
「は?!」
風間くんの言葉に思わず大きな声が出る。
「いや、冗談だよ……そんな本気にとるなよ」
私の真面目な反応に驚いたのか、眉を顰めたその眉間をどつきたい気持ちを抑えた。
このカップルは……。
人の気も知らずに好き放題言う2人に脱力する。これ以上先生を意識するようなことを言わないで欲しい。
あくまで御影先生はクラブ顧問としての責務を果たしてくれているだけで、週末だってクラブ活動の一環だ。そもそも朝6時から茶摘みに出かけるデートなど、どこの世界にあろうか。
「あ、あー……そういえば、2人は夏休みどこ行った?」
これ以上この会話を続けてはいけないと話を明後日の方向に逸らしたつもりだった。
途端にマリィの頬が桜色に染まり、それを愛おしげに風間くんが見つめる。
「えっとねぇ……どこ行ったっけ、涼くん?」
「あぁ、色々行ったよな。遊園地とかショッピングモールとか……海も。水着、可愛かった」
「もう、涼くん」
しまった。この話題はこれまで避けてきたのに。
入ってほしくないゾーンに突入した2人に目を回す。思いっきり薔薇色の世界になっている2人を尻目に次の授業の準備をしつつ、それでもそんな2人は微笑ましいなと思うのだった。















「あれで、手も繋いでないんですよ?!まだ!!信じられます?!」
「ははは。あいつららしいなぁ」
「それはそうですけど、にしても、もうちょっとこう……」
手をワキワキと動かして、焦ったさを表現する私を隣で御影先生が笑う。ちらりと横を見れば運転する横顔と目が合って、ん?と微笑まれて慌てて視線を逸らした。
結局慣れることはなかったな、と思う。助手席に座って、運転席に御影先生がいるというこの状況にだ。もう何度目かの週末のクラブ活動で今日でそれも最後だというのに、最後までとてつもなく緊張してしまっている。
いつもいつも早朝で眠たい筈なのに、眠気なんて微塵も感じなかった。秋の朝方は薄暗くて、それもきっとこの緊張感を後押ししている。そんな私とは対照的に先生はいつもより肩の力が抜けていて、のんびりと言葉を続ける。
「お前から聞くクラスの奴らの話、すげえ面白ぇんだよな」
「へ、そうですか?」
「おう。よく見てるよな、お前。なんていうか、皆のお姉さんって感じでちょっと俯瞰した視点が、俺は聞きやすくていい」
緩く笑う先生の言葉に、う、やっぱり鋭いな、と思いつつ、まぁ違和感がないならいいかと思うことにする。それにしても、先生はマリィと風間くんの話を聞いて切なくなったりしないのだろうか。でも考えてみれば、マリィは今、数年ぶりに出会った幼馴染の王子という風間くんに夢中なようで、課外授業にも風間くんが優先で出たり出なかったりだから御影先生との仲が深まりようがない。……なんだか段々ゲーム的な脳で考えるのも疲れてきた。私がどう行動しようと、なるようにしかならないのではないかという境地に至りつつある。
「おーい、牧?」
「え、あ、はい」
大丈夫か、と前を見たまま困ったように先生が笑う。またひとりで考え込む悪い癖が出た。
「すいません」
「別に謝ることじゃねぇだろ。でも急に黙ると少ぉし心配になるから、“今からちょっと考えごとします”って言ってくれると助かるな」
「えぇ?そんな無茶な」
私の返しに、ははは、と御影先生が楽しそうに笑う。
「お、陽が昇ってきた」
先生の言葉通り、山の端がオレンジに染まり出した。この美しい光景もこれで見納めかもしれない。大事に目に焼き付けた。

「うわ……!香りがすごい!」
発酵室から取り出された茶葉はもうすっかり鮮やかな赤褐色に変化していて、紅茶の香りを漂わせている。
「ふふ。これが、春乃ちゃんが手揉みした分ね」
「わぁ〜!!!!すごい……!!嬉しい……」
「摘むのも揉むのも機械にかければ楽だけど、手作業したお茶となると思い入れが違うわよね」
「はい……!」
茶園のスタッフさんが優しく手渡してくれた、自分のお茶を見て感動で声が詰まる。我が子のように可愛いとはこういうことを言うのだろう。
紅茶は茶葉を発酵させることで出来上がる。茶葉を摘んで、それから乾燥、酸化発酵を促すための揉み作業、さらにゆっくりと発酵させ、頃合いで熱乾燥することでその発酵を止める。これで紅茶ができるのだが、大量の茶葉にこの工程を行うのに普通は機械に頼る。
今回私は摘菜てきさい揉捻じゅうねんの作業を手でさせてもらった。そりゃあ機械にかければ楽に均等にできるが、これは文化祭のためで、文化体験することに価値がある。こういうことをさせてもらえるのは高校生の特権だなと思う。大人でここまでの茶園さんにここまでの迷惑をかけるのは無理だろう。
「あとは乾燥機に掛けて、葉を砕いたり茎の部分を取り除く工程をして、製品になっていくのよ」
「なるほど」
エプロンのポケットからメモを取り出して書き込み、その工程写真とってもいいですか?と聞くと、勿論よ、とスタッフさんが笑ってくれた。摘採からお茶が製品になるまでなんてそう見られるものではないからテンションが上がる。
「牧」
呼ばれて振り返ると、よ、と御影先生が手を上げていた。御影先生は御影先生で、私が作業を手伝っている間に茶園の他の力がいる仕事を手伝っている。申し訳ないなと思わなくもないが、嫌いではないようで楽しそうにしているので罪悪感も少し軽くなる。
それに、
「どうも。牧がお世話になってます」
「いえいえ〜春乃ちゃんとても熱心でぇ」
こうして女性スタッフに会うたびに輝きスマイルをお見舞いするため、すっかり皆のアイドルと化した先生を見ていると女性スタッフさんにとっては良いのかなと思ったりする。たまにこの人は自分の顔の良さ分かってやってるよね?と思うことがあるけれど、天然なのだろうか。
「牧、乾燥の工程に入ったら事務室に来るようにって。お茶のテイスティングだそうだ。お呼ばれしようぜ」
「えっ!!やった!!あ……でも」
スタッフさんに視線を送ると、にっこりと微笑んでくれた。
「乾燥は機械作業だから、私たちでないと難しいの。だから行ってきていいよ」
「ありがとうございます……!」
頭を下げると、もう可愛いねぇ春乃ちゃんは、とスタッフさんが朗らかに笑う。ここの女性スタッフさんたちはとても優しい。
事務所に向かう道すがら、昼過ぎから降り出した雨を眺めて歩いていると、先生が穏やかに笑った。
「可愛がってもらってるみたいでよかったな、牧」
「はい、皆さんとても良くしてくださって……」
社会人の厳しさを経験している分、高校生だからというだけで無条件で向けられる優しさが身に染みる。
「まぁ実際、お前可愛いからな」
「はっ?!なっ?!えっ?!」
急にとんでもないことを言い出す御影先生に慌てると、くっくっと可笑しそうに笑って、それからふんわりと柔らかい微笑みを向けてくれた。
「自分の仕事にこんなにも興味を持ってくれて一生懸命になってくれる子がいたら、そりゃあ可愛いって。
なんかしてやりてぇなって思うよ。茶園のスタッフさんがお前に良くしてくれるのは、お前の姿勢や気持ちがスタッフさんたちに響いているからだ。こういうことから縁って繋がっていくんだぜ。来年も是非っていう声も掛かってる。はば学とはばたき山茶園の繋がりをお前が作ったんだ」
お前すげえよ、と向けられた嬉しそうな笑顔がちかちかと輝いて見えて、素直に褒められたことが嬉しい。高校生だから、なんて考えていた自分が勿体なく感じる。そうか、この縁は私が引き寄せたのかと思うと、少し誇らしい気持ちになった。
「はい……!ありがとうございます!」
先生は急に威勢の良くなった私の返事に少し面食らったような顔をして、それからくしゃっと笑って、おう、と一言言って前を向く。
降り続けている細かな秋雨の音が、柔らかく私たちを包み込む。
ああ、今目に、心に映したこの瞬間は永遠だな、とそんなことを思った。









ーーーーーーーーーーーーーーーー






「ありがとうございました」
「いえいえ、本当に私たちにとっても良い機会になりました。是非来年もこちらからお願いしたいくらいです」
「そう言って頂けると……本当に有難いです」
深々と頭を下げると茶園の主人である斎藤さんが優しく返してくれ、実際本当に有り難さで胸がいっぱいだった。
これからお茶の木は休眠期に入り、農園は農閑期となる。これからの厳しい冬に備えて、この広大な茶園の管理をしていくのだという。その地味でいて大変な作業があるから、収穫期に実を結ぶのだ。
農業を生業にしている人の話を聞いて直に場所を見て、これからやっていくのであろう作業を想像すると、俺が園芸部やプライベートでやってることなんてほんのお遊びだなと思う。
「いやでも、作業的にも先生がいてくださったお陰でかなり助かりました。茶園も人手不足で、段々高齢化もしてきてますから……」
「後継者は……」
「いやぁ、私の不徳の致すところでね、息子に茶園の魅力を伝えきれずに逃げられてしまいました。農業でしかも茶園なんて不安定なもんやれるかってね」
今や息子はお堅い銀行員ですよ、と言って笑う斎藤さんの顔を見ていると、自分のことではないのに罪悪感がじわりと胸を湿らせた。家業から逃げる親不孝息子か、と自分を省みて自嘲する。
「手伝いが必要な時は言ってください。飛んできますから。今後ともどうぞよろしくお願いします」
「ははは。そう言って貰えるだけ、嬉しいですわ。こちらこそ、よろしくお願いします」
罪悪感を誤魔化すように言った言葉も、相手が好意的に受け取ってくれれば少しは報われる。
斎藤さんの息子さんはしっかりと自分の人生の選択をしたのだろう。俺はどうするのか、答えはまだ出ない中途半端な若造だ。












「よし、帰るか」
「はい」
車に乗り込むと、牧がシートベルトを締めて背筋を伸ばすのを見てそっと苦笑した。
どうにも車という空間に緊張するらしく、毎回身体に力を入れて座る牧をほぐそうと意識的にこちらは肩の力を抜いていたのだが、結局最後の最後まで緊張させっぱなしになってしまった。
ちらりと時計を見ると時刻は16時過ぎ。結構長居したな、と思うがちょうど日の入りするにいい頃合いだ。
「牧、この後ちょっとだけ寄り道いいか」
「え?いいですけど……」
「よし、じゃあ出発するぞ」
ギアをドライブに入れ、戸惑う牧を乗せてゆっくりと車を発進させた。
悪いな、今日だけ少し俺の我儘に付き合ってくれ。
隣で固まっている牧に心の中で謝罪をして、山道にアクセルを踏み込んだ。

「わ……すごい」
「だろ?この前ちょっと茶園に寄った時に見つけてさ」
向かったのは茶園からの帰り道、10分ほど車で降った所にある湖だ。
吸い寄せられるように湖の方へ歩いていく後ろ姿を、のんびりと追いかける。
昼に降った秋雨が空気を冷やすという条件と、水温との差が激しくなるこの時間帯が重なると、この周辺にだけ薄く靄のような霧が発生する。それが酷く幻想的なのだ。ひとりで来ると、ちょっと怖いくらいに。
そして、ここにはもう一つ秘密がある。
「そろそろだぞ」
「え……?えぇ??なんですか、あれ?」
初めは一つ二つの儚い灯りが徐々に増えて、湖の周りで光り出す。あっという間に美しい光の点在ができ、霧の中薄ぼんやりと灯る灯りが美しくぼやけた。
目を丸くして新鮮な驚きを見せてくれる牧の反応が嬉しい。
「ここな、クロマドボタルの住処らしい」
「クロマドボタル?」
「そう。蛍の一種だな。幼虫が光るんだよ。飛ばないし、明かりも明滅せずに活動時間帯は光り続ける」
夜空が落ちてきたみたいだろ、と笑って見せると、牧は高揚した顔でこくこくと何度も頷いた。
「秋蛍っていうと、夏の蛍の生き残りの弱々しい感じがして切ないけど、こいつらは元気一杯の赤ちゃんたちだからな。気分いいだろ」
「はい……本当に綺麗……」
呟くようにそう言って、うっとりとその光を目に映す彼女の横顔を見る。
前にふと重ね合わせた、中国の昔話を思い出した。
こんな夢現のような場所にいると、どうしても夢想してしまう。
「……お前が 白娘子ハクジョウシなら、俺はなんだろうな」
「え?……あぁ、白蛇伝ハクジャデンですか」
「え、知ってんのかよ」
思わず口にしてしまった独り言を拾われて、動揺してしまう。こんなマイナーな話知らないだろうと踏んでいたのに、この子の知識の広さには舌を巻く。
「あらすじ程度は……。ていうか私が白娘子ハクジョウシとか、それはあまりに良く言い過ぎですよ」
千年生きた白蛇の精で美女なんてちょっと盛りすぎでしょ、と言って、ふふと照れたように笑うのを見て、自分の顔が赤くなるのが分かる。
十分知ってんじゃねぇか……。
そんな俺のことなど知らないのだろう牧が、でも、と口を開いて、俺は彼女の横顔を見た。
「じゃあ私が白娘子ハクジョウシだっていうんなら、そこは御影先生が、」
冗談っぽく笑いを含んだ声。それから、視線が俺に向く。
合った視線が外せなくなったのは、お互い雰囲気に呑まれているからだろう。分かっている。だけど。
牧の瞳に沈む光を探すように見つめて、彼女もまた視線を逸らさなくて。まだ見えない、もっと、近くでー。
不意に俺の胸ポケットでスマホが振動して、2人して弾かれたように飛び上がった。
帰宅時間を長引かせないために、タイマーを設定していたのを忘れていた。泡を食ってタイマーを止める。心音が体中で鳴っているようにうるさい。
「お、もう17時だ!帰るぞ!」
「は、はい!帰りましょう!」
慌てて背筋を伸ばして車へ向かう。
……あっぶね……!!!!
己の理性がここまで脆かったのかと思うと先が思いやられた。
ふーと吐いた息によって少しは落ち着いてくれた心臓が、この後の出来事にこの比ではないくらいに跳ね上がることをこの時の俺はまだ知らない。










車内は沈黙のまま、車は山を降っていく。先程の空気感がまだ2人の間にあるように感じられて気まずい。
暫くすると隣からすうすうと寝息が聞こえてきて、牧が眠ってしまったことを知った。
なんだ意識してたのは俺だけか、とちょっと肩透かしだが、変に緊張されて押し黙られるよりはずっと良い。
山道なので寝顔を確認できないが、寝ている顔を見られるのは嫌だろうと敢えて視線をやらないようにした。
それにしても、と今更ながら己の言動を恥じる。そして、いやでもあの場所がやばいんだな、と思い直した。
森林公園内にある蛍の住処には相手の心の声が聞こえるなんて妙な噂があるが、あの場所もやばい気がする。自然の力が、人の本音を引き出す不思議な作用を及ぼすのだろうか。迂闊に行くべき場所じゃないな、と自分に言い聞かせた。
そうこうしているうちにやっと山道を抜け、街中に降りてほっとする。山の中にいると別の次元に置き去りにされたようで、心許無くなることがある。それでも、走る車内に街の灯りが通り過ぎて行くのを見ながら、あぁもう終わってしまうな、と少し寂しくなったりなんかする。随分矛盾してるな、と自分の思考を嘲笑った。
車が住宅街に入り、そろそろ着くぞ、と声を掛けようとして、いやでもやっぱりギリギリまで寝かしておいてやろうと開いた口を閉じる。随分疲れたのだろう、ぐっすりと眠っているようだから。

実際この判断は正しかった。もしこの時、横を見ていたら事故でも起こしていたかもしれないと思うと、本当に洒落にならない。

ゆったりとブレーキを踏んで、ギアをパーキングに入れる。我ながらスムーズな停車に満足だ。
完璧なタイミングだろうと、声を掛ける心の準備をして今度こそ口を開いた。
「牧、着いた……」
言葉を失う。
掛けようとした言葉をそのままに、息を呑んだ。
街灯がはっきりと照らしたその寝顔を、唖然として見つめる。
は……?なんだ……これ。
目の前で起こっている現実と、頭が処理できる情報が見合っておらずフリーズする。でも、その間もずっと、目の前の視覚的情報は入ってくるわけで。
助手席で安らかな寝息を立てているのは、よく知る俺の生徒である牧春乃ではない。
あの夏の幻想がそこに居た。
つまりは、少女の牧春乃ではなく、大人の牧春乃が居る。
「どうなってんだ……」
こんなに間近でまじまじと見て、それはやっぱり牧で、でもどう見ても高校生の牧ではない。頭がおかしくなりそうだ。どう確認しても、目の前のあり得ない事実が変わらない。
途方に暮れて呟くと、ん、と形の良い眉が寄る。薄い唇が開いて、ふるりと長い睫毛が揺れた。薄らと開いた目と視線が絡む。まだ夢の中のような表情で、ぼんやりと見つめ返してくるその顔はやはり、大人の女性のそれだ。でも、時折彼女が見せていた大人びた表情とも重なる。
「御影せんせ……ん……すいません、寝てしまいました……」
寝起きの覚醒しきっていない声がひどく艶っぽい。というか、起きたのにやっぱり姿が大人のままで、俺はどうしたらいいか分からず、その姿をただ眺めた。もぞと動くその体は少しだけ大きくなったように感じる。色々と質量を増したような。高校の制服がやけに小さく見える。
「なんですか?」
じろじろ見て、と眉を寄せて訝しげに俺を見た牧が言う。
大人の牧は高校生のあどけなさがない分どこかスッとしたシャープさがあって、冷ややかな印象を受ける。不躾な視線をちゃんと咎められたように感じてどきりとして、居心地が悪くなった。
……って、いや、そうじゃなくて。
「……お前、やっぱり牧だよな……?」
「はい?さっきから何……」
彼女の視線が俺の後ろに飛ぶ。それから、一瞬にして顔色が変わった。
「……?!はぁ?!」
「うわっ」
急に距離を詰められて驚いて間抜けな声が出る。我に返った彼女が慌てて真反対に身を引いた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
恐らく俺の後で窓に映った自分を咄嗟によく見ようとしたのだろう。この反応からすると、これは彼女からしてもイレギュラーなことらしい。
まじまじと自分の手を見て、それから助手席側の窓を覗き込んで顔を確認している。
「戻った……?」
そう呟くと、どうしよう、とその青ざめた顔にペタリと手を当てた。
今、戻った、って言ったか。
「牧、落ち着け」
そうだ、落ち着け、俺。
やっぱり大人のままの彼女に声を掛けながら、それは俺に対して掛けている言葉でもあった。
はっとした牧の視線が俺に向く。その瞳は不安に揺れている。
「お前は、俺の知る牧で合ってるんだよな?」
「……」
逡巡するように視線が彷徨った。
おい、黙ってちゃわかんねぇだろ。
焦る気持ちをなんとか抑え込む。
「牧?」
できるだけ穏やかな声を装うが、彼女の肩はびくりと震えてしまう。こんな時に俺はどうしてこう上手く出来ないのだろう。
「……ごめんなさい……」
今にも泣き出しそうに歪んだその顔は、いつか見た泣き顔とは違って、まるで柔らかさがなくて硬い壁を感じる。そのまま割れちまいそうだ。理科準備室で泣いたあの子の方がまだ、絆されそうな柔らかさがあった。
「……ごめんじゃわかんねぇだろ。頼む、ちゃんと説明してくれ」
俺の言葉を聞いて、何かに耐えるよう牧が目を閉じる。それでも堪えきれなかったのか、睫毛を伝って涙が溢れ落ちた。咄嗟に手を伸ばしてその涙を掬えば、拒絶するように身体を引かれる。
「……やめてください」
はっきりとした拒絶。噛み締めた唇に色がない。自分がしてしまった行為が間違いだったと今更悟る。
「悪い。俺はただ、」
「大丈夫です。これは違うんです。自分でなんとかします、構わないで」
小さな声で、見ないで、放っておいて、と次々に出てくるのは距離をとる言葉ばかりだ。高校生の彼女がはっきりと言葉にしなかった思いを、大人の彼女が言葉にしていく。
分かっていた。牧が俺と、いや、他の誰とも距離をとっていること、絶対に踏み込ませないという意志の強さがあることを。だけど、いつもどこか寂しそうにしていたことも。
「牧」
崩れてしまわないようにと、必死に壁になる言葉を吐き続ける彼女の声が痛い。思わず名前を呼んでもそれは止まってくれなくて、声を殺して泣く声が混ざる。
もういっそ、抱きしめてしまおうか。
そう思って、手を伸ばしかけた所でハタと止めた。
もう魔法は解けてしまったらしい。
「……あ……」
彼女も気がついたようだ。
顔を覆っていた手を外すと、俺のよく知るあどけなさの残る顔がそこにあった。
「牧、俺は」
「っつ……ごめんなさい、私、帰ります」
「牧……!」
掴もうとした手をすり抜けて、彼女は車から降りて行ってしまった。
走っていく後ろ姿を追いかけることが、今の俺には出来ない。
魔法が解けてしまう前に、迷わずに抱きしめて、距離なんかなくしちまえば良かったのに。
「何やってんだ、俺は……!」
何が正解だったのか分からないまま、俺は自分を責めることしかできない。