三,忌地




壱.

 私たちの務める会社の社屋は自社所有の建物で、駅から徒歩10分圏内、だからといって都心でもなく、郊外でもないという絶妙な位置にある。
働き手にとっては通勤しやすいため生活プランを立てやすく、また会社を拠点にして外出しやすいという利点があり、顧客にとっては公共交通機関でも、その他交通手段でも来訪しやすいという好立地である。
 近隣には大きな公園もあり(元はこの地域を含むかなり広い地域に勢力を伸ばしていた藩主の城跡だったらしい。昔からあるこの土地は城下町だったわけだ)、賃貸の家賃価格帯は都心から2駅程は離れているにも関わらず概ね高めに設定されている。勿論土地の値段も、多少の上がり下がりはあれど、安定して平均の3倍程の価格を保っているような地域だ。
 所謂、一等地というやつである。
 そんな場所だからか、周辺には昔からその土地にある家や会社、神社仏閣が多い。

 後から参入してきた存在としては、名前を聞く大きな企業の支社、支店があったり、駐車場に高級車が並ぶような品の良いマンション(最近の金持ちは高層マンションにそれほど強い興味はないらしい)があったりはするが、新しく開拓して土地を作って建てた物が多く、比較的新しい建物は固まって建っていたりする。
 土地を作る、となると、森林を切り開いて土を削り平にするか、海や河川等の水場を埋め立てて土地にするかの二択であることが多い。
 この地域の場合は後者である。我が社がある地域より南一帯は、かつて海だったそうだ。

 このような話を聞くと、弊社は昔から地域に根付いた下町企業で、この会社の経営者である鶴見さんは数代目の社長である、という説明が収まり良いように思うが、実際は全く異なる。

 「篤四郎さんは、先見の明があって、聡明で、素晴らしい経営センスを持っておられる。更にこの美しさ……。あぁ〜……! 篤四郎さんっ……! 篤四郎さんに出会い、お支えする為に僕は生まれてきたっ……! 」

 鶴見さんのことをこう語るのは宇佐美さんであるが、まぁ、彼の鶴見さんに対する(タカの外れた)偏った評価を抜きにしても、我々の会社の創立者である鶴見篤四郎という人は、非常に頭の切れる人物であることは間違いない。

 鶴見さんが会社を立ち上げた当時は膨れに膨れたバブル経済が弾けた後で、バブルが弾ける寸前に転がしていた不動産を一気に手放し、銀行からの借入も低金利の間に全て返済して身綺麗にしたのだという。
 その状況が泡の中などとは思ってもいない周囲からは随分笑われたらしいが、果たしてバブルは弾けた。
 半狂乱の好景気が一夜の夢のようにして消え去り全員が茫然自失している間に、鶴見さんは暴落していく株価を眺めて優良株を見極め、我に返った人々が泡を食って株を売却し出した頃に、当初目をつけていた優良株を言い値で買い叩いていったのだそうだ。
 あの大きな経済危機の津波を上手く乗りこなして財を得た数少ない御仁と言えよう。
 その成功で手にした金を元手にして会社を建て、今現在の不景気の中でも黒字を出しているのだから、ただの“ラッキーおじさん”でないのは明白である。

 バブル当時、この好景気がいつまでも続くと信じていた鶴見さんの知人の中には、バブル崩壊前の彼の行動を自殺の前の身辺整理ではないかと訝しむ者もいたそうだ。そのくらい見事な手際だったようだが、鶴見さんは整理をした上で一つの買い物をしている。
 それが、現会社が建っている土地である。
 元々この周辺の土地を虎視眈々と狙ってはいたのだそうだ。

「欲しい土地がある時は、散歩がてらその周辺をぶらぶら歩くようにしていたんだよ」

 鶴見さん曰く、誰かからの伝聞ではなく、自らの目で見て、聞いた物しか認知しないようにしているらしい。
 件の土地に関しても、元々目を付けていた場所の周辺を散歩している時に見つけたのだそうだ。

 「いや、元々は埋立地の方を検討していたんだが、何故かその日は昔ながらの地域の方にも足を伸ばしてみようと思ってなぁ」

 その辺りの土地は歴史的には城下町であったこともあり、先祖伝来の土地のようになっていて売りに出されるような土地はないと見てノーマークだったらしい。切り売りする土地がないから埋め立て地が出来たわけで、それは当然の理屈である。
 
 まぁもしも会社をその地域に建てたらそこに住む人々と付き合いも出てくるやも、と単なる気まぐれにそれらしい理由をつけて、その方向に足を伸ばした。
 そこで、鶴見さんはその土地と出会う。

「物凄く良い場所に、ぽっかりと空き地があった。広さも充分でね。目を疑ったよ。
 だけど、なんと言えば良いのか……。立地が良いというそれだけじゃなくて、私はこの土地に、何故だか強烈に惹かれた」

 鶴見さんはそう言って、ふふ、と笑うと、今思えばあれが魅入られるというやつなんだろうなぁ、と遠くを見た。

 鶴見さんは、急いで知人の不動産関係者に連絡を取った。
 おかしな土地の空き方だったため、国の所有地ではないかと疑ったらしいが、そういうわけではなかった。
 ただ、土地の代表所有者は個人ではなく、その地区の自治会員複数で共有で所有しているということになっていたらしい。
 すぐに当時の自治会長へ連絡をとり、会って話す約束を取り付けたそうだ。
 
 団体で所有している土地ということは、この地区に古くからいる人間にとっては、昔から共有してきた余程大切な土地なのだろう。これは交渉するのに手こずるだろうなー。 
 鶴見さんは当時そんなことを思ったという。

 「……それが、拍子抜けするくらい簡単だったんだよ」

 そう言って、鶴見さんは苦笑する。

 なんでも話をするために自治会長の自宅へ出向くと、自治会長は勿論だが、自治会員数名、恐らく自治会員の中でも重鎮であろう人々が待っていたらしい。
 門前払いを食うことも考えていた鶴見さんの予想とは裏腹に、全員が嬉しそうな笑みを浮かべて出迎えてくれたのだそうだ。
 自治会長とその仲間達は揃って鶴見さんを[[rb:饗 > もてな]]し、あまつさえ、土地を譲って欲しいという申し出を笑顔で聞き入れた。中には、良かった良かった、めでたいめでたい、と言い合う人までいたらしい。
 話が上手すぎると訝しんだが、案の定自治会長の口から、但し条件がある、という言葉が出た。
 どんな条件かと内心固唾を飲んだところ、そう難しいことではない、と前置きした上で自治会長は条件について簡潔に述べた。
 
 一つ、土地の所有権が移ったらすぐに【ウゲツジ】という寺へ報告へいくこと。
 二つ、【ウゲツジ】の住職の指示には必ず従うこと。
 三つ、土地を手放すときは、必ず特定の個人もしくは団体へ譲渡するか売却すること。
 四つ、土地を手放し他者へ譲渡、売却する場合に、必ずこの条件を伝え呑ませること。
 
 正直鶴見さんは、なんだ、と思ったらしい。
 要するに、何か土着の信仰絡みの風習を守れということと、とにかく土地を遊ばせずに誰かの所有にしておけ、ということだと理解した鶴見さんは、にっこりと微笑んで頷いて付け加えた。お安い御用ですよ、と。
 その返答を聞いて自治会長含む自治会員たちはほっとしたような顔して、それからトントン拍子に土地の売買の話が進んだ。この条件について念書まで書かされたのには驚いたが、信心深い老人達の言う通りにしてあげようと、半ばボランティアのような気持ちだったと鶴見さんは言った。

 話がおかしな方向へ転び出したのは、その後からだった。
 土地が無事に手に入り、さぁこれからという時に、不可解な事故が起こる。
 
 まず最初に自治会長が死亡した。焼身自殺だった。遺体の近くに灯油のポリタンクが落ちていた為、灯油を使ったとみられた。
 異様なのは、外傷も酷かったが、内臓から燃えた形跡があったことである。理論的には、灯油を大量に飲んだ後に更に全身に浴び、それから火をどうにかして飲み込み、その後外側から身体にも引火したことになるらしい。
 次に自治会長の取り巻きの1人であった老人が、自分自身を滅多刺しにして死亡した。
 刺創しそうから自分で自分を刺したことは間違いがないようだったが、身体中を自分自身で滅多刺しにした後に、最後は自分の首を滅多刺しにして絶命していた。あまりに刺す回数が多かったからか、首はミシン目を切り取ったようになって辛うじてぶら下がっているような状態だったという。

 これらの事件が起こった場所。
 それが、彼らから鶴見さんが買い上げた土地であった。
 彼らはわざわざ、鶴見さんへ売った土地へ行って自死を決行したのである。

 土地の所有者ということ、最近所有者が変わったということが問題だったようで、警察に大いに疑われた鶴見さんはしつこい事情聴取を受けることになるが、そんな中慌てた自治会員の一人が鶴見さんへ連絡をしてきた。それから【ウゲツジ】へは行ったのか、と尋ねられた。
 
 行きはしたのだそうだ。しかも、2度も。
 それで【ウゲツジ】は【卯月寺】であることも知ったらしい。
 しかし2度の訪問はどちらも空振りに終わっており、結局住職には会えず仕舞いで月日が過ぎていた。
 自治会員は電話越しに、鶴見さんを物凄い剣幕で怒鳴りつけた。
 俺が死んでお前を呪う前に早く行け、と脅迫まがいのこと言い出す始末で、その日の夜中に鶴見さんはその自治会員と共に卯月寺を訪ねることになったのだそうだ。

 卯月寺を訪れると門の前に坊主の男性と子供の、親子らしき二人が立っていた。
 子供は幼稚園生くらいだったが二人とも袈裟を着ており、鶴見さんと自治会員の男性が乗った車が近づくなり、父親の方が身振りで停車するように求めてきた。
 車から降りると、子供の方が近寄ってきてこう言ったという。
 お待ちしていましたよ、大変なことになりましたね、と。

 「そこからだね。ご尊父と、時重くんとの付き合いは」

 そんな話をしながら朗らかにそんなことを言う鶴見さんは、やはり只者ではないというか、どこか普通ではないに違いないと思う。加えて、いやぁ〜生意気な子供でした、と言って頭を撫でて照れ笑いをする宇佐美さんである。
 なんだ、この話とこの状況は。
 引いている私を他所に鶴見さんは、ふと上を見上げた。

 「懐かしいな。あれからもう、20年以上経ったんだな」

 視線の先を辿って、私も顔を上げる。
 私たちの遥か頭上で、美しく穏やかな顔で微笑む顔が目に入る。
 
 ここは卯月寺内の御堂である。
 安置されているのは、この寺の御本尊である背丈5メートルは超える大きな仏像だ。
 
  「それが、こんな決着を迎えるとはなぁ」

 鶴見さんの独り言が、堂内に静かに響いた。



 


 弍.



 転職を機に引っ越してから、慌ただしくて中々帰れなかった実家に数ヶ月ぶりに帰ってきた。
 大学卒業後実家から通える距離の会社に就職したので、実は20代後半にして初めての一人暮らしライフを送っていることになる。
 ホームシックとまではいかないが一人暮らしの部屋はまだしっくりきていなくて、やはり住み慣れた実家は落ち着く。
 
 ただ1つの異物の存在を除いては。

 「やだ、も〜!宇佐美くん、おばさん煽てても何も出ないわよ〜?」
 「煽てるなんて酷いなぁ。
 本当にお綺麗な方だなぁて思ったんですから。
 お肌艶々じゃないですか」
 「まー!!もぉー!ちょっと聞いたぁ?!」

 いい歳した母親の黄色い声に辟易して白目を向きつつ、半年ほど前まで使っていた自室へ向かう。



 
 事ある毎に母親から命じられていた自室の荷物の整理に託けて、不要な物を会社の先輩の寺に寄付する、という苦しい言い訳の元、宇佐美さんを伴って実家に帰ったのには訳がある。

 切っ掛けは、そのいわく付きの手鏡は今どこにある、という宇佐美さんの一言だった。

 「恐らく実家にあると思いますが……捨ててはいないと思いますし」
 「ふぅん……近々帰る予定は?」
 「特に無いですけど」
 「じゃ、僕と一緒に帰ろうか?」
 「……は?」

 にっこりと笑って私を見る宇佐美さんに、眉を寄せて包み隠さず不満をこめた、は?、をお見舞いしたところ、宇佐美さんの片眉が上がった。
 やばい癇に触れた、と思った時には既に遅く、宇佐美さんの口元が歪んで、つらつらちくちくと私への口撃こうげきが始まってしまった。こうなると聞き終えるまで止まらない。
 馬鹿だの、能無しだの、頭が悪いだの、僕の言うことを黙って聞いておけばいいだの、概ね同じ内容のことを言葉を変えて気が済むまで言った後、ようやく真意について説明してくれた。
 
 宇佐美さんの目的は2つ。
 1つは発言の切っ掛けになっている例の手鏡を回収することである。
 宇佐美さん曰く、それは忌物いみものであるという。

 「物には記憶が残るんだよ」

 宇佐美さんは言う。

 人々が親しみをもって使えばその記憶が、恭しく神聖なものとして扱えばその記憶が、無論、忌まわしいモノが宿ればその記憶も残る。

 「しかも物は人より長くその記憶を持ち続ける。
 それが呼び水になって、また違う禍を呼んでしまう。
 だから、然るべき場所で、然るべき方法で、物の記憶が薄れるまで保管するんだよ」

 お焚き上げでもしてお寺に保管しているのだろうか。
 そんなことを思っていると、それだけならお前に取りに行ってもらえば良いんだけどさ、と宇佐美さんが言う。
 その通りだ。何故実家について来ようとする。
 そんな思考を見透かしたのか、宇佐美さんは、ふん、と鼻で笑った。

 「忌物いみものがあるように、忌地いみちもある。
 こればっかりは、確かめる為にそこに行くしかないからね〜」

 尾形さんにも聞かれたが、トキシゲくんが私に執着する理由に何か因縁めいたものがあるのではないかと疑っているらしい。
 例えば、住んだ土地に何かがあるとか。

 「でも、母親の実家ですよ?
 母親も幼少期にそこで過ごしてますけど、何も無かったのに……」

 母は私がまだ幼い頃に離婚して、赤ん坊だった私を連れて実家に戻っている。それは特段私の人生に昏い影を落とすわけでもなく、寧ろ祖母が大好きだった私にとっては、我が家は暖かく居心地の良い場所であった。だからこそ、社会人一年目も実家から離れ難かったのだ。そんな我が家が良くない土地だと言われるのは些か心外である。

 「元々その土地が忌地であったかどうかは別にしても、良ろしくない物が長年あった場所ではあるわけだから、その後土地が忌地になってるってことも十分あるんだよ。
 その場合は、早急に土地と物を分けないといけない。じゃなきゃ、どんどん酷くなるからね」

 事も無げにそう言ってスマホを操りながら、今週末にしよう、と勝手に予定を決めてしまった。
 中途入社で仲の良い同僚もいない私には週末の予定などある筈もなく、如何様にでも宇佐美さんの予定に合わせられてしまう。無念過ぎる。
 如くして母親に事情を説明し宇佐美さんと共に実家に帰って来たのだが、宇佐美さんと話しながらちらちらと私を見てくる母は絶対良からぬ勘違いをしているに違いない。


 

 「……あれぇ……?無いな……んん??こっちかな……」

 母親と楽しげに話している隙にと、自室で例の探し物を開始してみて数分。
 予め母が段ボールにまとめてくれていた私物(母は私の部屋を余程早く片付けたかったようだ。長年の趣味が高じた結果茶道教室を開くことになったらしく、この部屋を茶室にしたいのだそうだ。人生を楽しんでいる)の中身を漁るが、記憶の中の手鏡は一向に姿を見せない。

 「へぇ、ここがお前の部屋?」
 「げ、宇佐美さん!母と話してたんじゃないですか?!」

 勝手に部屋を物色されたくなかったので、母親に宇佐美さんを預けて一人でさっさと用を済ませようとしたのに時間がかかりすぎてしまったらしい。
 居間で待っててくださいよ、と言うと、馬鹿、家の中見て回らなきゃ来た意味ないだろ、と鼻で笑って足元に転がっていた中学の卒業アルバムを拾い上げる。

 「ぎゃ!ちょっと、勝手に……!」
 「どれどれ〜?お前何組?」
 「返してくださいよ!」

 アルバムを遥か頭上に持ち上げて捲る宇佐美さんに抗議して、飛び上がって奪おうとするが全く届かない。
 というか、かなり強く体当たりしている筈なのにびくともしない体幹はどうなっているんだ、気持ち悪い。
 宇佐美さんの相手だけでもうんざりするのに、部屋でドタバタやっている音が気になったのか様子を見にきた母親が、手を口元に当てて生暖かい視線を送ってくる。
 
 「あらま〜仲の良いこと。いいわねぇ〜」
 「お母さん!よく見て?!娘いじめられてるよ?!」
 「そうなんです、僕ら仲良しなんです〜」

 にこにこと笑っている母に憤慨するが、それを無視して同じくにこにこと笑って返す宇佐美さんを思いっきり睨みつける。これ以上母におかしな勘違いをしてもらっては困るのはお互い様ではないのか。
 その視線に気がついても涼しい顔をしている宇佐美さんを見て、あぁこれはまた何か別の企みがあるな、と察する。この人は私が何か言ってどうこうなる人ではないということは、この数ヶ月の短い期間の中でも十分学んだ。
 結局諦めて、宇佐美さんと談笑を始めた母に向き直った。
 
 「あのさ、お母さん」
 「何よ」

 声に滲ませた苛立ちを感じ取ったからか、母が怪訝な顔をする。言いたいことは山程あるが、とりあえず今は聞くべき質問をすることにして気持ちを切り替える。
 
 「昔、私が小さい頃に、おばあちゃんがくれた手鏡覚えてる?赤い、花の柄が彫られた」
 「あぁ、あんたがえらく気に入ってた鏡」

 斜め上を見て、あったねぇそんなの、と少し遠い目になった母に更に問いかける。

 「あれ、どこにある?」
 「え?知らないわよ。あんたの物のことなんて。
  大体あんた、おばあちゃんや私があの鏡触ろうとするだけで物凄い剣幕で怒ってたじゃない。
  おばあちゃんなんて、あんたに鏡渡したこと物凄く後悔してたんだから。
  鏡持たせてからおかしくなっちゃったって」

 顔を顰めてそう言うと、そういえば最後までおばあちゃんそのこと気にしてたっけ、と母が付け加えた。
 祖母は数年前に他界している。能天気で喉元過ぎればの母は兎も角、祖母の目に私はどう映っていたのだろう。今となっては知る由もない。

 「あ、いた」

 一瞬存在を忘れかけていた宇佐美さんの声で我に返る。視線をやると、手にした中学の卒業アルバムの、とあるページを私に向けてきていた。まさしく中3の私が載っているページだ。

 「うわ、最悪!」

 意地悪な笑みを浮かべた宇佐美さんからアルバムを奪い返すと、その様子を見て母が笑った。
 
 「宇佐美くん、お茶飲んでいかない?生菓子買っておいたの」
 「いいんですかぁ?是非〜」

 長居するつもりか。
 そんな私からの非難の目線に気付きながら、宇佐美さんは母とともに部屋を後にしていった。

 

 結局その後いくら探しても手鏡は出てこなかった。
 宇佐美さんがお茶の作法を完璧にマスターしていることが判明し、華道に至っては寺の宗派が関連する流派で師範の腕前を持っているらしいということ(母は興奮気味だったが、私にはさっぱりである)以外に、目新しい発見は特になかった。

 「こんな優良物件しっかり捕まえときなさいよ!」

 凡そ母親が言う言葉とは思えないことを耳打ちされ、宇佐美さんの運転する車で(荷物を持って出るという口実だったため、宇佐美家の乗用車をお借りした)実家を後にした時にはもうすでに夕方になっていた。
 
 
 「中々面白いお母さんだったね」
 「すいません、母がはしゃいでしまって……」
 「いやいや、随分冷静な人だったと思うけど?」

 どこが?と訝しく思うと、しっかり品定めされたけどお眼鏡に適ったかな、と運転用の眼鏡の奥で意味深げに目を細めた宇佐美さんの横顔を見る。

 「え、そんな失礼なことしてました?うちの母……」
 
 眼鏡には適ったとは思われるが、家にやってきた初対面の人物に対して値踏みをするようなことをするか?と思い、それから最後の言葉を思い出して、するかもな、と思ってしまう。
 
 「そりゃ娘が家に男連れてきたら、どんな親だってそういう目線になるでしょ。別に気にしないよ。
 僕としては見なきゃいけない物は色々見れたし」

 実際、母は能天気で大雑把だが勘が鋭いところがある。宇佐美さんの何か普通ではない雰囲気や、探ろうとしている様子にどことなく気がついたのかもしれないなと思う。まぁ最終的には母の宇佐美さんへの評価は高く記録されたようだが。全く当てにならない評価だ。

 「それで、どうでした?家は……」
 「うん。それがさぁ、全然だったんだよね〜」
 「ぜ、全然とは……?」

 かっちかっちとウインカーの音を聞きながら、宇佐美さんの曖昧な言葉に質問を返す。
 全然良くないのか、全然良いのか、なんなんだ。不安になる。

 「おばあちゃん掃除好きだった?」
 「え?えぇ、まぁ……はい」

 宇佐美さんが言うように確かに祖母は無類の掃除好きで、毎日家を箒で履き、雑巾で拭き掃除をしていた。祖母が掃除をすると、どことなく家の中が澄んだ空気になったように感じたものだ。
 しかしその祖母はもうこの世にはおらず、今実家に一人で暮らしている母がその習慣を引き継いでいる。だからあの家を見て綺麗だと感じたとして、お母さん掃除好きだった?、と聞くのは分かるが、祖母についてそう聞いてくるのは腑に落ちない。
 戸惑ったまま返事をすると、宇佐美さんは、愛だねぇ、と呟いて、それから

 「お前、おばあちゃんに感謝しな〜。あの家、今もまだずっと掃除して清めてくれてるんだから」

 とハンドルを切りながら言った。

 「え、それは、どういう」
 「だから、その鏡のせいで残った良くない痕跡を、おばあちゃんが亡くなってからも掃除し続けてくれてるんだよ。それで、忌地にならずに済んでんの。
 孫のことも心配だったんじゃない。お前あの家出てよかったよ。じゃなきゃいつまでも成仏できない」

 それから、お母さんの掃除好きもおばあちゃんの影響だよ、と言って、ふふ、と笑う。

 「物理的にも美しく綺麗に保っておけば、新たに外からやってくる悪いモノを防げるからね」

 気も空間も綺麗に保つことが厄除の基本だから、と宇佐美さんは続ける。

 「待ってください、じゃあ、さっき家の中にもしかして、おばあちゃんが」
 「うん、いたよ。ずっとね」

 寧ろなんでお前に見えないか不思議なんだけど、と言う宇佐美さんの言葉を聞いて、どんな様子でしたか、と聞きかけて止めた。
 廊下で一心不乱に拭き掃除をしている祖母がぼんやりと浮かび上がる姿を思い浮かべてしまったからだ。

 「……あの……祖母の供養って……」
 「あぁ、すぐには無理だけど、折を見てちゃんとするよ。あまりにも可哀想だし」
 「そうですか……」

 案外優しい宇佐美さんの言葉にほっとした。
 見ず知らずの他人でも当然のように供養すると言ってくれる辺り、やはりお坊さんなのだなと思う。
 それから、はたと疑問が浮かぶ。

 「折を見てって、どうやってですか?」

 その“折”がどう言ったタイミングなのかは分からないが、今回のように実際見ないと分からないのではないか。

 「それに関しれは問題ないよ。これから定期的に顔を出すことになりそうだから」
 「……ん?」

 続いた言葉の意味が不明過ぎて、思考が全停止した。

 「季節のお茶会、たまに呼んでもらうことになったんだよ〜」
 「は?!」

 思わず大きな声を出すと、うるさ、と顔を顰められる。

 「なんですか、その約束?!聞いてませんけど?!」
 「なんだよ、悪い?家に行くのに口実がいるだろ。
 限りなく純度の高い善意でやってやってることなんだけど?何?文句〜?はぁ〜?」

 宇佐美さんが例の片眉を釣り上げた表情で煽りながら、自分じゃ何もできない癖に!、と言い放った。
 そう言われるとぐうの音も出ない。なんだか、詐欺に引っかかって悪条件を飲まされていくような気分である。

 「……絶対ひとりで行かないでくださいよ……」
 「えぇ〜どうしようかなぁ〜」

 腹が立つ。
 もったいぶった言い方に性格の悪さが滲み出ている。
 この男を優良物件と評した母に言いたい。優良物件と思われるものが売れ残っているのは、優良物件の皮を被ったとんでもない事故物件だからだと。

 「そうだなぁ、じゃあ、今から僕の仕事手伝ってくれない?」
 「仕事?宇佐美さん残してる仕事なんてありましたっけ?」

 唐突な交換条件に首を傾げると宇佐美さんは、あは、と笑う。

 「あるんだよねぇ。大事な仕事がさ」

 そう言って、宇佐美さんがちらりと後部座席に視線をやったがその真意は分からず、結局私はその条件を呑むしか無かった。
  





 参.


 

 遠くの空で夕暮れのあかと夜空のこんが溶け合って美しい。確かこういう時間帯のことをマジックアワーというのでは無かったか、と前に映画で見た知識を思い出した。
 
 会社に着いたのは18時過ぎであった。周辺は人家や公園があるのみのため、昼間のような賑やかさはない。
 こんな場所で、つい数週間程前の悪夢ような出来事が起きたのかと思うと不思議な気分になる。

 「宇佐美さん、警備解除しましたよ……って、何やってんですか」

 会社の駐車場に着くなり車から下ろされ、カードキーで警備システムを解除してくるように命じられた。文句を言いながらも素直に従って戻ってくれば、宇佐美さんは車のトランクを開けその陰で何やら作業をしている。 
 そこから現れた宇佐美さんの姿を見て、とてつもなく嫌な予感がした。

 「宇佐美さん仕事って」
 「うん、副業の方」

 やっぱりか、と引き受けてしまったことを盛大に後悔する。
 宇佐美さんは法衣に着替えていた。黒い着物が社屋の影に溶け出しそうだ。手には数珠を巻いている。
 この人がこの格好をするということは、何かがあるということだ。

 「はい、これ持って。これも」
 「なんですか、これ」

 手渡された物を繁々と眺める。
 掌に収まるサイズの小さな袋と、半紙に包まれた何かだ。

 「袋は香袋で魔を払う効果がある。
 何かあったら、その半紙はそのまま投げて」
 「え、何かってなんですか?」

 宇佐美さんは私の問いには答えずに、さぁ仕事だ、と言って歩き出した。慌ててついて行く。

 「え、ちょっ、ちょっと、ちょっと待ってください!意味が全く分からないんですけど!」
 「時間がない。ほら行くよ」

 開け放たれた会社の扉が近づいてくる。
 私はさっき、扉まで開けただろうか。

 「ちょっとそこに立って」

 目の前は会社の入り口。見慣れた筈のそれが、何か違うものに見える。
 背中に宇佐美さんの指が触れた。何か文字を書いているらしい。
 トントン、と2回軽く背中を指で叩かれた。

 「宇佐美さ、」
 「じゃあ行ってらっしゃい」

 え?
 
 短い疑問符が頭に浮かんだ時には、背中を押された後だった。
 顔に生暖かい何かが触れる。一瞬の息苦しさ、それから無音。
 
 気がつけば私は会社の中に入っていた。
 外から見た時は暗かった建物内に、何故か明かりが煌々とついている。

 「どうなって……」

 振り返ったら、そこに入ってきた扉は無くなっていた。





 *



 
 「もうっ……!!本当に!!頼むから二度とこんな事しないでくださいっ!説明!ちゃんと、説明を!!」
 「分かった分かった。ごめんってば。条件が色々必要だったんだよ」

 半泣き状態の私に流石に悪いと思ったのか、電話の向こう側で(それでも)軽く謝る宇佐美さんの声が聞こえてきた。
 明らかに様子のおかしい見慣れている筈の会社に入って振り向いたら、入ってきた入口が消えていた。
 こんなことが起これば誰だって取り乱すだろう。
 すぐに宇佐美さんからの電話が掛かって来なかったら普通に泣いていたと思う。

 「自分でも何度か試したんだけどさぁ。やっぱり僕じゃ駄目みたいなんだよね〜」

 どうやら宇佐美さんはこの現象を起こしたかったらしい。
 数年に1度社員がこの現象に遭遇する事件が起きており、それを解決するというのが今回の仕事だという。

 「色々調べてみたら、この日の逢魔時の時間帯に何も知らない奴が会社に入るっていうのが条件みたいでさぁ」

 そう言って、怪異の癖にRPGゲームみたいなことするよね、と軽口を叩いた後も宇佐美さんの説明は続く。

 「忌地と忌物の関係を説明したよな?」
 「はい、それは聞きましたけど」
 「じゃあここからは実践編で〜す」
 「……」

 正直まじでぶん殴りたい。
 電話の向こう側で明らかに楽しんでいる様子の宇佐美さんの声を聞いて、湧き上がる怒りをなんとか堪える。
 ここで私が激昂して電話を切られたら堪ったものではない。

 「そこは元々忌地で卯月寺が鎮めてきた場所なんだよ。にも関わらず、そんな怪異が起きる。変だろ。
 そしてお前が今いるそこに入り込んだ人たちが、必ず見る物がある」
 「忌物……ですか?」
 
 これまでの話の流れを考えて答えを言ってみると、ピンポーン、と宇佐美さんの満足げな声が聞こえた。馬鹿にされている気しかしない。

 「掌大の小さな箱を見たって言うんだけど、皆そこで記憶が途絶えるんだよねぇ。
 呪物なのか曰くつきの何かなのか、それは分からないけど、恐らくそれが忌物になっている。だから土地とその物を引き離したい。
 そこで、それを取ってくるのが今回の仕事ってわけ」

 簡単に言うなよと思うが話を聞く限り結局はそれを見つけないと、この不思議空間から出られないということなのだろう。
 さっさとそれを見つけて気を失うでもなんでもいいから、ここから抜け出したい。

 「……わかりました。どうすればいいですか?」

 腹を括ってそう質問すると、いいねぇ、と宇佐美さんの声が返ってくる。
 
 「これは予想なんだけど、多分地に一番近い所にあるんじゃないかと思うんだよね。
 となると、1階の倉庫が該当すると思う。あそこ、実は半地下になってるから」
 「1階倉庫……あぁ確か……」

 スマホを耳に充てたまま廊下を歩く。
 1階廊下の突き当たりの右手に倉庫の扉があった筈だ。
 突き当たりまでそう長い廊下ではない筈なのに何故だかとても遠く感じる。
 電気がついているのに、奥が薄暗くてどこまでも続いているように見えるからだろう。

 不意に、ゆらりと、遠くで何かが動いた。

 「宇佐美さん」
 「うん?」
 「誰か、います」

 恐らく倉庫の扉があるであろう場所に、人が立っている。
 そっと近寄って見れば段々姿がはっきりとしてきて、それがスーツを身に纏った身長の高い男性だと分かった。
 
 俯いていた顔がゆっくりと私の方へー。

 「おや、どうして君が」
 「鶴見さん!」

 立っていたのは倉庫の鍵を手にして、ドアノブに手をかけていた鶴見さんだった。
 ほっとして肩の力が抜ける。駆け寄るといつもの柔和な笑みを浮かべて、こんばんは、と挨拶を寄越してくれた。

 「お疲れ様です。鶴見さん、どうしてここに」
 「いや、見つかってしまったね。
 実は倉庫に私物を置いてるんだが、それをこっそり取りに来たと言うわけさ」

 絵に描いたようなウィンクをして、内緒だよ、と口元に指を当てる完璧な所作。
 思わず見惚れていると、君も倉庫に用事かな? と鶴見さんが、鍵を差し込みながら言う。

 「あ、はい、宇佐美さんから頼まれ事を……あ、そうだ、宇佐美さん」

 手にしていたスマホの存在を忘れていた。

 「もしもし?」

 スマホに向かって声をかけるが、電話の向こう側は静まり返っている。
 切りやがった。
 信じられない思いで暗くなったスマホの画面を見つめていると、扉が開く音がして鶴見さんが声を掛けてくる。

 「一緒に行こうか」
 「はい……!是非!」

 良かった、と思いながら、鶴見さんの背中を追いかけた。
 宇佐美さんとの通話は途切れてしまったが、鶴見さんがいてくれるので心強い。
 正直何があるかも知れない倉庫にひとりで入っていくのは、相当に勇気がいることだった。


 


 
 存在は知っていたが、倉庫に入ったのは初めてだった。。
 宇佐美さんが言っていた通り、半地下になっているその倉庫は、扉を開けるとすぐに短い階段がありフロアに続いている。
 明かり取りのためか少し上に小窓があり、そこから夕日が差し込んで倉庫内が茜色に染まっていた。

 「暗いから、足元に気をつけて降りておいで」

 先にフロアに降りていた鶴見さんが優しい言葉をかけてくれ、どこまでも紳士な振る舞いに感動すら覚える。
 私が降りるのを見届けてから、鶴見さんは私物とやらを取りに奥へ入って行った。
 私も何となくその背中を追いかける。

 ふと、物置として使われているのであろう会議用の机に、古びた小さな木箱があるのが目に入った。
 何だろう、と思って手を伸ばす。
 つ、と蓋に指を滑らせると、かさりとした水分のない木の感覚が伝わってきた。しかし指に埃はつかない。見た目には随分古い物のように見えるが状態はとても綺麗なようだ。
 箱を茜が照らす。
 蓋に手をかけて、持ち上げた。

 「……くし……?」
 「つげくしだな」

 ひゅっと喉が締まるのを感じた。
 横に目をやると、いつの間にか鶴見さんが背後から私の手元を覗き込んでいる。

 「つ、鶴見さん」
 「見てごらん。この美しい飾りを」

 上擦る声で名前を呼ぶが、鶴見さんの視線は真っ直ぐに手元の櫛へ向けられている。
 未だ収まらない心臓音を聴きながら、私も促されるままに手元に視線を落とした。
 それは朱塗りの美しい櫛で、小さな櫛にこれでもかというくらいに花の金蒔絵きんまきえが施されている。

 「これは芍薬しゃくやく、そしてこれが牡丹ぼたん、それから百合」

 長い指が一つ一つ花を指していく。
 
 綺麗ー。
 
 私の口が勝手に動いた。

 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」

 歌うように節をつけた声が耳元で囁かれる。
 それからそっと私の手から櫛を取っていった。
 
 髪を撫でられる。
 自慢の美しく豊かな髪を彼に触られている。
 歓喜が身体中を巡る。

 「美しい貴方を思って作ったのですよ。
 嗚呼、この櫛で貴方の髪を梳ける日が来るなんて」

 すっと心地よい感覚が髪を伝う。何度も何度も。
 私はずっとこんな日を夢見ていた。
 首元に吐息がかかり、口付けされたのだと知る。
 あ、と声にならない声が出た、と思った。



 「おい、僕のに触るな」

 

 この場にいるはずのない声がする。
 私の髪を解いていた手がぴたりと止まった。
 どこから、と思って、自分の口から出たことに気がつく。

 ちょっと待て。
 自慢の豊かな髪など私にはない。櫛を贈られるいわれも。
 私は何を。
 茜を背に背後から影が伸びる。
 
 背後にいるのは、誰だ。

 そう思った時には、倉庫に差し込んでいた茜は急速に色を失い闇に飲み込まれてしまった。


 「鶴見さん……?」
 「あ、あ、嗚呼……わ、私は、」

 名を呼ぶのと同時に鶴見さんの弱々しい声がする。
 まずい、混乱している。
 一緒に怪異に巻き込まれてしまった。
 
 手探りで鶴見さんがいるであろう場所を探り、その手を掴む。
 鶴見さんの手にはしっかりと先程の櫛が握られていたようで、その手から櫛を取ると代わりにポケットに入れていた香袋を握らせた。

 「鶴見さん、しっかりこれ握っていてくださいね。一緒にここを出ますよ」

 何とかして鶴見さんを立たせ、それから途方に暮れる。
 暗闇で方向感覚が分からない。
 
 そうだ、スマホ。
 
 暗闇を照らすライトの存在を思い出して、香袋が入っていた方と反対のポケットに手を突っ込む。
 手に紙と硬いスマホが当たる感覚がした。建物に入る前に持たされた半紙の存在を思い出す。半紙ごとスマホを取り出して、震える指でタップする。
 見れば画面には50件以上の宇佐美さんからの着信履歴が表示されていた。全く気が付かなかったことに驚愕しつつ、表示をタップして耳に充てるとすぐに宇佐美さんが電話口に出た。

 「おい、どうなってる?!」
 「宇佐美さんっ!今、倉庫で!真っ暗で、私、」
 「落ち着け!半紙はある?」
 「あります……!」
 「それしっかり握ってな。何かに襲われたら投げろ。あと、香袋は持ってる?」
 「あ、香袋は、鶴見さんに持ってもらってます」
 「は……?」

 宇佐美さんの指示が止まった。
 それからゆっくりと息を吸う音がする。

 「いいか?よく聞け……。篤四郎さんは、僕とここにいる」
 「え、なに、」

 何を言ってるんですか、と言いかけて気づく。
 会社に来た時、セキュリティは機能していた。解除したのは私だ。
 鶴見さんは、どうやって中に入った。

 「そこに居るのは」

 宇佐美さんの声がスマホの向こう側で響く。

 「篤四郎さんじゃない」

 一気に血の気が引いていくと同時に、足に何かが触れた。
 視線を下に向ける。

 足元にじっと私を見上げる鶴見さんの顔があった。

 目が逸らせない。
 じっと私を見たまま何か口の中で喰んでいるような動きを見せ、それから、べぇと吐き出す。
 それは、ぐちゃぐちゃに破れた香袋だった。

 
 「ぎゃあっ!!!!!! 」
 「おい! しっかりしろ!」

 
 耳元で宇佐美さんの声が聞こえて、弾かれたように走り出した。
 右も左も分からない暗闇の中を走るのは物凄い恐怖だが、それよりもあの得体の知れないものから逃げ出したい気持ちの方が勝る。

 「右に行って」
 「右?! 右ですか?! 」
 「うん、そのまま真っ直ぐ。扉があるからそこから出て」
 「扉……!!! 」

 スマホから聞こえる宇佐美さんの声を頼りに、片手を前に伸ばして走る。
 先ほど見た倉庫内にこんなに走り回れるスペースがあるわけがないと考えると不気味だし、なぜあんなに置いてあった物にぶつからないのかも恐怖でしかないが、もう考えないようにする。

 「痛ぁっ! と、扉っ……!!! 」

 伸ばしていた手の指先が硬い壁にぶつかって、本来曲がらない方向に思いっきり曲がった。
 手に激痛が走るが構わずに手を下に下ろすとドアノブに触れる。

 出られる!

 そう思ったのも束の間、後ろ髪がぐんと後ろに引っ張られた。
 今度は首がおかしな方向に曲がり、首が反った状態になる。
 突然視界に大きく口を開けた鶴見さんの顔が入ってきた。

 「ぎゃああああ!!!!」

 スマホごと握りしめていた半紙をその口めがけて投げつける。
 髪を引っ張られていた力が緩んで、その勢いのままドアノブを回した。
 空気が一気に扉の外から流れ込んでくる。
 
 
 外だ。
 夜の色、植物の匂い、顔に当たる風を感じる。

 
 ーずちゃ。
 
 
 嫌な音が足元からして、足が冷たい物に覆われた。
 慌てて藻がくと足を取られて転びかけて、咄嗟に両手を着く。
 それで漸く、足に触れていたものが水で、どうも底には泥が溜まっているらしいことに気がついた。

 着地した場所は浅い池のような場所だったらしい。
 背後を振り向くと、そこに扉はなかった。
 扉がないというより、建物もない。
 綺麗に整えられたつつじの植木が植っている茂みがあるのみである。

 
 「どっから出てきた? 」

 聞き慣れた声が聞こえて顔を上げると、呆れたような顔をした宇佐美さんが立っていた。
 法衣が濡れるのも気にせず、ばしゃばしゃと池に入ってくる。

 「……うっ……うさ、うさみさんの、馬鹿ぁ……!!! はげぇ!!! もう、いやっ!! 嫌い!! 」
 「あ〜もう、はいはい。悪かったって。ちゃんと護摩焚いて祈祷してやるから」

 手足を取られて四つん這いのまま動けずに泣き出した私に、宇佐美さんが、大丈夫大丈夫、と声を掛けてくる。

 「ほら、ちゃんと立って」
 「許さない、絶対、許さない」

 腕を掴まれてとりあえず嵌った手を抜いてもらいながらぶつぶつ文句を言い続けるが、宇佐美さんは涼しい顔だ。
 本当に許さない、この腐れ外道坊主。

 「足、抜きな」

 心中で盛大に呪いつつも、今はこの人に物理的に助けて貰わなければ。
 促されて何とか深く嵌った左足を持ち上げると、もったりとした感触と共に足があがった。
 次に右足。

 「ん……?んんぅ……?!ちょっ……全然抜けなっ……!!なんか引っかかって、」
 
 ぐいぐいと足を上に上げようと動かすと、何か支えが取れたようにして足が持ち上がった。
 足には蔦が絡まっていて、これが引っ掛かってたのかと気がつくがそれでもまだ足が重い。
 蔦の先に何かが引っかかっているらしかった。

 「蔦に何か……」

 そう言いながら自分の足元を手で弄った。
 それから蔦を掴んで引っ張り上げ、釣りよろしく蔦にぶら下がっていたそれをまじまじと見る。

 人の頭骨だった。

 「ぎ……! 」
 
 本日何度目かの絶叫を上げ掛けた時だった。
 
 「大丈夫か、君たち?! 」

 息急き切ってやって来た人物を見て限界を迎えた。
 
 気が遠くなりながら、篤四郎さんに失礼だろ!という宇佐美さんの声が聞こえたが、倉庫の中での一件を知らない宇佐美さんには何も言われたくないと思ったところで、私の意識は完全に途切れた。



 
 


 
 肆.



 
 卯月寺のご本尊が安置されている堂内で、私と鶴見さんは宇佐美さんによる加持祈祷を受けた。
 所謂いわゆるお祓い、厄祓い、というやつである。
 儀式後の堂内は燭台に灯された蝋燭のゆらめく灯りに静かに照らされており、燃え尽きた香木の香りが漂っている。

 「珍しく夕方に眠ってしまってね」

 鶴見さんがぽつりと話しだすと、その影がゆらゆらと揺れた。
 
 夢を見た、と鶴見さんは言う。
 自分が誰か女性の髪を梳いていて、手に握ったつげの美しい櫛がとても愛おしかったと語った。
 
 「その櫛を、目の前の女性に贈ったんだと気がついたんだよ」

 何度も何度もその髪を梳いているうちに、彼女との幸福な記憶を思い出したのそうだ。
 2人は本当に愛し合っていたんだなぁ、という鶴見さんの言葉に、私もそれを知っているような気持ちになる。

 誰ともなしに、盆に置かれた頭骨と朱色の櫛に視線が集まった。

 「目が覚めて、あの場所に行かなければと思って、それで到着してみれば、君たちに先を越されていたというわけだ」

 そう言った鶴見さんは苦笑して、怖い思いをさせてすまなかった、と今日何度目かの謝罪を口にし低頭した。

 「いえ、そんな……! 顔を上げてください! 」
 「そうですよ、篤四郎さん! こいつは大丈夫なんですから」

 お前が言うな、と言う視線を送ると、宇佐美さんの、何か文句あるか、という鋭い視線が飛んでくる。
 暫く睨み合っていると、弱々しく笑った鶴見さんが口を開いた。

 「君には、あの土地がどういうモノか話しておかなければならないね」
 
 じっと私の目を見た鶴見さんは溜息を一つこぼした後に、現会社が立っているあの土地をどのようにして手に入れたのかについて語って聞かせてくれた。



 
 
 土地を譲り受けた後元所有者であった自治会の長とその会員が亡くなった事件を受けて、卯月寺を訪ねた鶴見さんは、あの土地に纏わる曰くを聞くこととなる。
 
 まだあの辺り一帯が城下町だった頃、あの土地は処刑場だったのだそうだ。
 場内には沼があり、その沼で処刑後の刀を洗ったり、沼の水で地に落ちた血液を洗い流したため、血飲み沼とよばれていたという。
 しかしそれ自体はさして問題ではなかったと、宇佐美さんは言う。

 「それこそ、その当時から卯月寺でしっかり供養していたからね。
 さっきお前が出てきた池あったろ。あれがその名残だよ。それであのつつじ株が植っているところが、かつての供養場所だったところで、今も彼岸の時期にはしっかり法要を行なっている」

 たまに幽霊が出たというような騒ぎがあっても、特段それらが何か悪影響を及ぼすことはなかったらしい。
 土地を譲り受けた時に卯月寺へ必ず行けと言われたのも、この法要を欠かすなということではないかと宇佐美さんは続ける。

 「そういう有象無象とは別に、強い因縁がまた別にあそこにはあるんだよ」
 「因縁ですか?」

 卯月寺の力を持ってしてでも治らない因縁とは何だろうかと単純に興味が湧く。

 「はな姫の話を知ってるかい?」

 鶴見さんが微笑んで言う。

 「はな姫……ですか?」

 全く聞き覚えのない名前に首を傾げると、宇佐美さんの、これだから学の無い奴は、という小馬鹿にした言葉が飛んでくる。
 私への罪悪感はすっかり払拭されたらしい。いや、そんなものハナから感じていなかったかもしれないが。
 苛々と宇佐美さんを睨んでいると、鶴見さんがまぁまぁと宥めるように言葉を紡ぐ。

 はな姫は何代目かの藩主の娘だそうだ。
 藩主の娘でありながら、大罪である放火をおこなった罪であの地で火炙りにされて処刑されている。

 「因みに、その菩提を弔ってるのも卯月寺なんだけどね」

 と宇佐美さんがつけ加え、ちゃんとお墓も寺の敷地内にあるよ、と言う。

 「どうして、お姫様がそんなことを」
 「好いた男をお家に殺されたからさ」

 宇佐美さんの低くなった声に呼応するように、蝋燭の灯が揺れた。
 切ない話なんだよ、と鶴見さんが静かに続ける。

 「随分お転婆な姫だったみたいでね。彼女はよく城下町にお忍びで遊びに出て来ていたらしい。
 それである職人と恋に落ちる。姫にしても、男の方にしても悲劇だな。身分が違いすぎる」

 2人はしかしやはり離れ難く、櫛職人であった男はある日姫に櫛を送ったのだそうだ。朱色の美しい、花の金蒔絵きんまきえの櫛であったという。
 当時櫛を送るのは男性から女性への求婚の意味があり、『く』=苦しくとも、『し』=死ぬまで一緒に、というシャレもあったらしい。
 勿論、2人だって実際に結婚できるとは思っていなかっただろう。
 姫にはその頃縁談話が持ち上がっており、それは城下に住む者誰しもが知っていることだった。勿論男も。
 それでも櫛を送ったのは、心は死ぬまで共にある、という意思表示だったのではないかと鶴見さんは言う。
 だがその櫛がきっかけで、藩主である父親に男との密会が露呈してしまう。

 「それが藩主の逆鱗に触れて、姫についていた側近、乳母数名が処刑された。
 恋仲だったその男は見せしめの上斬首となり、弔う事さえ許さぬと、首は血飲み沼へ沈めたんだそうだよ」

 鶴見さんの声が暗く沈む。

 「そんなことがあって、はな姫は狂ってしまったんだろうなぁ……」

 ある日の夕方にはな姫はふらりと城を出ると、城下に火を放ったのだそうだ。
 その日は風が強く、乾燥した外気に煽られて火は瞬く間に燃え広がった。
 その後姫は自ら処刑場に現れ、私が火を放ちました、と言った。
 白装束に髪には朱色に花の金蒔絵の櫛を刺した姿で、自身の処刑を求めたと記録されている。

 「藩主ははな姫は火事で亡くなったということにして、知らない町人の娘だと言い張って彼女を処刑した。
 火に炙られながら、はな姫は恋しい男の名を呼んでいたそうだ」

 
 ー立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
 
 視線を盆に置かれた櫛に落とすと、不意に、倉庫で聞いた声が蘇る。
 
 そうか、と思う。
 この櫛は、男が普段は伝えることを許されない言葉を、全て盛り込んだ物だったのだ。
 きっと彼女はこの上なく嬉しかっただろう。その思い出だけで良かっただろうに。

 せめて男と同じ場所で死にたいと思ったのだろうか。
 叶うならば男の元に白無垢で嫁ぎたかっただろうに、最後は白装束で男の後を追ったのだろう。せめてもの飾りにと、男から贈られた櫛をさしてー。

 
  
 「そんな姫のことを憐れに思った町人たちと、当時の住職が菩提を弔ってあげようということにしたというわけ。まぁ、表向き姫とはいえないから、お墓は“おはなさんの墓”ということになっているけどね」

 宇佐美さんの言葉に飛ばしていた意識を戻す。

 「……でも、ちゃんと供養してるってことですよね、はな姫もそのお相手も」

 姫は墓があるわけだし、処刑される人たちを土地ごと供養しているのであれば、やるべきことはやっているのではと疑問に思う。
 宇佐美さんが、ふん、と鼻で笑った。

 「それはこっちの解釈。本人たちは納得してないってことでしょ」

 宇佐美さんが言うには、その後数十年置きにあの土地で人死が出るようになった。
 それも土地の所有者の関連者に死者が出るようになったのだそうだ。
 
 「前所有者達は全てを篤四郎さんに覆い被せようってことで、その説明もなしに土地を売ったってことだよ」

 売ってしまって所有者が変われば害はないと考えたのだろうか。
 そう思うと、念書まで書かせた条件はよくできている。
 卯月寺と必ず繋げることで地鎮は続けさせ、土地の所有者を固定することでこの因縁も宙ぶらりんにせずに、誰かに託すことができる。
 あの周辺に暮らす人間が皆それを分かっていて、普通に暮らしているのかと思うと空恐ろしいことだ。

 「浅ましいよねぇ。
 まぁ、結局は土地の所有権が変わったところで、因果はちゃんと前所有者に残っていたみたいだけど」

 ざまあみろ、と言わんばかりの宇佐美さんの言い草に、鶴見さんが苦笑する。
 そんな鶴見さんを見て、でも安心してくださいね篤四郎さん、と宇佐美さんが目を輝かせた。

 「見たところ篤四郎さんに憑いていた因縁は消えました。
 その頭骨は男のものなのでしょう。芳姫の櫛も見つかった今、気が済んだのだと思いますよ。2人の気配が骨と櫛に宿っているので。
 篤四郎さんの姿で現れたのは、長年憑いてきた貴方の姿を模倣したのだと思われます。
 恐らく自分の姿形も曖昧になって、それでも想いだけは残っていたのではないかと」

 鶴見さんに対する宇佐美さんの説明を聞いてぞっとする。

 自分の姿も分からなくなるくらいの強い想いと、模倣。
 もしかして、と思う。
 彼は、鶴見さんに成り代わろうとしたのではないか。
 というより、自分なのか、鶴見さんなのか、分からなくなってしまっていたのかもしれない。
 それくらい、あの時に見た鶴見さんは、私の知る鶴見さんだった。
 
 そうだとすれば私は、あの時彼の夢想する彼女を、模倣させられていたのではないか。
 あのまま我に返らなければ、私は得体の知れない記憶だけの化け物にー。

 ぞくぞくと背中が粟立った。

 否、やっぱり一番怖いのはこの人だな、と隣にいる宇佐美さんを見て思う。

 恐らく、宇佐美さんは焦っていたのだろう。
 数十年に一度の因果がいつ鶴見さんに巡ってくるか分からない。
 だから早く何とかして解決したいが、全てを知っている者にはこの因果は解けないという厄介なモノだった。
 そこで、このことについては何も知らないが、怪異にはほんの少しばかり免疫がある私を利用したわけだ。
 あまつさえ、私がやったことを自分の手柄のようにして鶴見さんにアピールする始末である。
 憎しみここに極まれりだ。

 「……このくそ野郎が……」
 「は?なんか言った?」

 平気な顔の宇佐美さんを憎々しげに見て呟くと、眉を寄せてこちらを見る。
 
  「いーえ、別に、何も」
 
 これ以上変に絡むと口撃が始まりそうだと視線を逸らした先で、鶴見さんが視界に入った。
 
 そっと櫛を撫でている。
 ひどく優しげで、それでいて哀しげな表情が、鶴見さんの美しい横顔に浮かぶ。
 
 「鶴見さん?」
 「あ……あぁ……長居してしまったね」
 
 鶴見さんがぼんやりとした顔をして、私を見た。
 顔は鶴見さんのはずなのに、その表情のせいか一瞬見知らぬ人のような錯覚を覚える。
 それから鶴見さんは頭をひとつ振ると、おもむろに立ち上がった。
 つられて立ち上がって視線を合わせた時には、いつもの鶴見さんの顔でホッとする。

 「いや、世話になった。私はこれで失礼するよ。お父上はおられるかな」
 「父は今日遠方に呼ばれていて不在なんです。僕から篤四郎さんが来られたことを伝えておきますよ」

 鶴見さんはちらりと宇佐美さんを見ると、そうか、と呟いてその肩に手を置いた。

 「あまり父上に秘密は通じないと思うぞ。正直に今日のことを話すように」
 「あちゃあ……やっぱり篤四郎さんにはお見通しですねぇ。勿論、そのつもりですよ」

 宇佐美さんの言葉に、だといいんだけどな、と目だけで笑って、鶴見さんは御堂を後にして行った。






 *




 「男の頭骨ははな姫のお墓の横に新しいお墓を建てて供養。
 櫛は今まだお焚き上げ中。終わったら然るべき場所で保管」

 週明けの昼下がり、休憩がてら入ったカフェで宇佐美さんに先日の一件について尋ねると、スマホを触りながら簡潔に回答が返ってきた。

 そもそもなぜあの土地の所有者に厄を成したのか。
 恨むべきは藩主であって、殺してきたのは全く関係ない人たちである。
 そんな疑問を宇佐美さんに漏らすと、恨みより未練が強かったんじゃない、と考えるようにして言った。

 「そう複雑な思いは残せないんだよ。
 恐らく1番強い思いが、一緒になりたいっていう未練だったんじゃないかなぁ。
 なぜ篤四郎さんがその思いに引っ張られちゃったのかは分からないけどね」
 
 恨みより未練か、と宇佐美さんの説明を聞いて思う。
 案外受けた仕打ちに対しては納得済だったのかもな、とも。
 一緒になりたかったという想いだけがその瞬間の強さのまま残って、ここまでのことを起こしたのではないかと想像する。
 ただ気づいて欲しくて。願いが叶うまでずっとー。
 
 何はともあれこれでやっと芳姫と男が一緒になれたのかと思うと良かったと思う反面、長年に亘って人死まで出したお騒がせなカップルだなと思わなくもない。

 一連の騒動を思い出していて、そういえば、と先日から引っかかっていたことについて口にしてみる。

 「あの半紙って何だったんですか」
 「あぁ、あれ?……ん〜……即席の魔除け」
 「え、嘘、もしかして」

 ひょっとして、と、とても嫌な予感が頭を過ると、だって生は持たせらんないでしょ流石に、と恐ろしいことを言い出す。
 絶対そうだ、絶対あれだ。

 「最悪! 握り締めちゃったじゃないですか! 」
 「いいじゃん、厄除けになってさぁ」

 にやにやと笑って、何なら今度飲ませてやろうか、と本当に最低なセクハラ発言をし出す。
 本当に最低だ、いや、まじで本当に。

 「そんなヤバい物持たせなくても、倉庫の中の様子が見えるような力があるなら、もっとマシな方法他にあったんじゃないですか」
 「は?何のこと?」

 宇佐美さんが怪訝な顔をする。
 またすっとぼけやがって、と込み上げる苛々をカフェオレで流し込んで睨みつけた。

 「私に右に行けって指示したじゃないですか。それから、そのまま真っ直ぐって。見えてなきゃあんな指示できないでしょ」

 倉庫の中で背後から追いかけてくるモノから逃げながら、宇佐美さんがスマホの向こう側から言った言葉を思い出す。
 あの言葉がなかったらあそこから抜け出せていたとは思えないので、救ってはもらったと思う。
 それでもやっぱり文句の一つも言いたい。

 しかし、私のその言葉に宇佐美さんは、首を傾げた。

 「そんなこと言ってないけど」
 「え、でも、私確かに」

 確かに聞いたのだ。
 宇佐美さんの声ではっきりと。

 それから、今の今まで抜けていた記憶に気がつく。

 『おい、僕のに触るな』

 あの言葉は、誰が言ったんだ。

 冷たい手でベッタリと背中を撫でられたような感覚に思わず身震いする。

 「何。どうした?」
 「……いや……何でも、ないです……」

 急に静かになった私を宇佐美さんが訝しげに見るが説明する気になれず、そっと手にしたカップをテーブルに置いた。
 


 
 
 
 後日、半紙と共に投げたスマホを回収する為、宇佐美さんに着いてきてもらって倉庫に入った。
 どうしても暫く行く気になれず、手痛い出費ではあるが、解約して新しいスマホを購入したので(新しいスマホに古いスマホから電話がきたりして、などと脅かしてくる宇佐美さんは本当に最低だった)、特段生活的には困らないのだが、やはりずっと倉庫に転がしておくのは落ち着かない。
 宇佐美さんに倉庫に着いてきて欲しいと頼むと、心底面倒くさそうな顔をされたがなりふり構ってはいられなかった。
 
 確かにそこには液晶がばきばきに砕けたスマホが転がっていた。
 が、私が飛び出した扉の方はいくら探しても見つけられなかった。

 指示通りに行動したことを、今更恐ろしく思う。
 もしかしたら、開けた扉の先には彼岸ひがんが広がって居たかもしれないのだ。

 「無いはずの扉を通って、あの世に行かなくてよかったよね〜」

 私の考えを知ってか知らずか、軽くそう言い放つ宇佐美さんの言葉には答えず、行きましょう、と声を掛けてその場を後にする。
 暗がりが足に纏わりつくような気がしたが、きっと気の所為だろう。
 明かり取りの小窓からは、綺麗な茜が差し込んでいた。
 
 
 
 

<続>