薄氷(3/4)



温めるだけだからすぐにできるから、ソファにでも座っといて、と声を掛けられて、違和感しかないその空間にそっと身を置いた。

カウンターキッチンの向こうに見える彼女の顔を盗み見る。

穏やかな表情を浮かべて食事の用意をしている様子を見て、先程自転車を弄る自分を見ていた彼女の表情を思い出す。

なんでそないな顔するん。

両手で顔を覆ってそっとため息を吐く。

安心しているような、嬉しそうな、そんな顔をされたら。

「キモ」

顔を上げて勘違いしてしまいそうな自分を、咎めるように呟く。

今日、ここへは最後に約束を果たすためだけに来たはずだった。
不確かな、曖昧な口約束でも、後に何も残したくなかったから。
その筈だったのに。

ほんま、ボクゥいつの間にこないなアマチャンになったんや。

彼女があまり必死に誘うものだから、断りきれずにこんなことになっている。



「そういえば、」

苗字さんが遠慮がちにキッチンから話しかけてくる。

「もしかしてマンションの下にいたのは、私が家にいなかったから待ってくれてたりした?」

だとしたらごめんね、という彼女の言葉に、別に待ってへん、とぼそりと返す。

本当だ。
別に待っていたわけではない。
マンションについたのはいいものの、なんと言って連絡したらいいか迷ってあそこに居たなんて格好つかないこと言えるわけがない。

なんとなくバツが悪くて視線を泳がすと、カウンターの隅に飾られた写真が目に入る。
切れ長で涼やかな目元、薄くて小さな唇、何よりもその穏やかな笑顔が、よく彼女に似ている。

「お母さんだよ」

事も無げにそう言いながら、いつの間にか食事を載せた盆を持って立っていた苗字さんがボクの視線の先を捉えて、薄く微笑んだ。

「仏壇は、引っ越しの時に処分しちゃったから」

今は写真とお水とお線香だけ、と言いながら食卓にふたり分の食事を並べていく彼女を見る。

あぁこの子は、もう寂しさに慣れて、受け入れてもうてるんやな。

横顔を見てそんなことを思う。

でもそんな彼女が、束の間でも誰かと食事を共にしたいと思う相手がたまたまボクやったとして、その時間を少しだけ割くことくらい罰は当たらない筈だ。

「できたよー」

エプロンを掛けて苗字さんが席に着き、どうぞどうぞ、と対面の席を促してくる。
誘われるままに席について手を合わせた。

「いただきます」
「いただきます」

ふたり分の声が穏やかに響く。

煮物に冷奴、ほうれん草のお浸しにご飯、味噌汁。
気取らないがバランスのとれた食事が並んでいる。
箸を動かしてその食事を口に運んで味わう。
濃ゆすぎず、薄すぎず、ちょうど良い味付けだ。

「口に合うかな…?」
「まァまァやね」

窺うように聞いてくる苗字さんに素っ気なく返すと、まぁまぁかぁ、と困ったように笑った。

「…関東の人間にしてはええ味付けなんちゃうん」
「ほんと?嬉しいなぁ。
うちお母さんが関西出身だから、多分うちの料理は関西寄りの味付けなんだよね」

取り繕うようなボクの言葉にもニコニコと嬉しそうに笑う苗字さんの表情は、いつも学校で見ているその顔よりも幾分幼く見える。
こういう表情は初めて見た、と心中で呟いて思わず目を細める。
なんで、もう切り離そうとする時に限って、キミはこんな気持ちをくれるんだろう。




「嘘やよ」
「ん?」
「まァまァて言うたのは」

おいしいで、と慣れない言葉を口に出して言ってみれば、体温が上がるのを感じる。
今伝えないと、この先伝えられないかもしれないと、そう思った。
こういう時間はもうこないだろうから。

「…きゅ、急にどうしたの、御堂筋くん」
「…思たこと言うただけや」

誤魔化すように箸を動かして、好物の豆腐を口に運んだ。
ほろり口の中で豆腐が崩れていく。
ボクの彼女への想いとともに。