花開くまで(2/4)
「すまんな、苗字」
「いえ、暇なんでいいです」
地面に落ちた赤や黄色の葉を竹箒で掃く。
「じゃあ、先生、職員会議行くから」
あとはよろしく。
そう言って、先生は走って行ってしまった。
先生の背中を見送って、再度そこらじゅうに散らばった枯葉に向き合う。
学期が明けても美化委員は続く。
仕事も途切れなく続いている。
中庭の掃除当番は範囲が広いし、芝生の上を掃除するから面倒くさくて1番厄介な仕事だ。
くじ引きで決まった担当を部活や勉強があるからと次々に理由を出され、結局何も言えなかった私が引き受けることになってしまった。
ええの?
へ?
キミがええなら、ええんやけど。
後期の美化委員の仕事割を決めたあと、珍しく御堂筋くんから声を掛けられたことを思い出す。
仕方ないじゃん。
足元の落ち葉を蹴飛ばして、心中で呟いた。
こんなところで、独りで落ち葉を集めていると世界から取り残されたような気分になる。
「あーもう、やめだやめだ!」
箒を放り出して、芝生の上に寝転がった。
遠くから吹奏楽の楽器の音がバラバラと聴こえる。
野球部のバットがボールを打つ音が甲高く響いて、ホイッスルの音がその後を追いかけた。
皆はどこか遠いところで、汗水流して必死になっている。
私のいる世界とは、どこか、違うところで。
あー…。いー気分。
私は今何からも解き放たれ自由だ。
そう、もう、何からも追われることはない。
私は降りたんだ、あそこから。
「せいせいするわ!」
誰もいないのをいいことに両手を押し上げて叫んで、
…綺麗…。
その先にあった空に目を奪われた。
秋晴れの高い高い空が何処までも続いて、白い雲が細く細くたなびいている。
「カメラ…持ってきとけばよかった」
気づいたら空の写真ばかり撮っている。
好きなのだ。
陸上を辞めてからはじめた写真の技術は、自分でも分かるくらいにどんどん上達していた。
それなのに、撮る写真は空ばっかり。
なんと未練たらしいことか。
空に向けていた手がいい加減痺れて、パタリと降ろす。
手の甲を顔にあてて、目を瞑った。
目を瞑っていても、瞼の向こう側の光を感じる。
「苗字…?」
名前を呼ばれた気がする。
え、誰?
この学校に私の苗字を呼び捨てにするような、親しい間柄の人はいないはずだけれど。
ゆっくりと起き上がって声のした方を見た。
「やっぱりや!やっと見つけたわ!」
タタタッとスラリとした長身で黒髪のショートの女子が駆けてくる。
制服が伏見高のじゃない。
両肘をついて半分起き上がりかけた状態で近づいてくる彼女を凝視していると、止まることなく突進してきてそのまま肩を掴んで押し倒してきた。
背中に鈍痛が走る。
「…いっ…たぁ…」
「あんた、こないなとこで何してんねん!」
「…えぇ?」
ていうか、どちらさま…?
まじまじと明らかに怒っているその顔を見て、1人の人物にいき当たる。
「な、鳴子?!」
「そうや!鳴子翔子や!」
幻でも見ているような気分だ。
なんでこんな日に限って。
「こんないなとこで、何してんねんって聞いてんねん!」
「なに、って」
こっちが聞きたいんだけど…。
この感じをじわじわと思い出す。
直球で裏表のない、彼女のこの感じ。
「手、どけてよ」
舌打ちしたい気持ちをぐっと堪えて、短く呟いた。
ハッとしたように離れた鳴子の手を確認して、再び後ろ手に肘をつく。
「こんなとこまで、なに?」
「…なんで大会でらんの」
こんな、こんな、訳の分からん高校入って。
鳴子の声が震える。
「秋季大会の時言ったじゃん」
自分の声がいやに冷たく響く。
大方、勝手に引退したことに腹を立てて押しかけて来たというところか。
そういうこと、なんで、あんたに言われなきゃいけないの。
「バイバイって」
「そっ…!!」
そんなんで、分かるわけないやん…!
苦しそうな声が響く。
なんで、あんたが苦しそうにするの。
泣きそうな顔するの。
「あたしは…あたしは…!あんたの記録抜くのに必死で…!それやのに」
あんたはこんなとこで、髪なんか、伸ばして…!
絞り出すように、私を責める言葉が紡がれていく。
触れている身体の部分が熱い。
全身全霊で母親に文句を言う子供のようだ。
迷子になって、泣いて、探して、やっと母親を見つけた時のような。
「…寂しかった?」
そうなのだ。
この子の考えてることはダダ漏れで、手に取るように分かってしまう、昔から。
俯く顔を覗き込むと、瞳が潤んで今にもこぼれ落ちそうだ。
その顔をみたら、何でだか笑ってしまった。
「そういうあんたは、髪、切ったんだ」
「…あんたが言うたんやん」
そうか、そうだったな、そんなこともあった。
頬にかかる鳴子の髪にそっと触れる。
「似合ってる」
「なっ…!!」
アホちゃう!
頬に触れた手を振り払われて、手が宙をさまよう。
真っ赤な顔をする彼女を見ていると、羨ましさで心がはち切れそうだ。
こんなふうに素直に人にぶつけられたら。
こんなふうに自由に走って行けたら。
こんなふうに会いたいと思う人に何も考えずに会いに行けたら。
「帰る!」
鳴子はスクッと立ち上がると、思い出したように小さく折りたたんだメモを投げて寄越した。
「それ、連絡先!」
それだけ言うと、長い足で駆け出していった。
その後ろ姿を、揺れる襟足を、目で追う。
目眩がするようなフラッシュバック。
髪、切ったんやね。
先に話しかけてきたのは彼女だった。
小学生の頃から大会の上位常連選手の鳴子とは同学年だったがなんの興味もなく、話そうなどという意識は全くなかった。
跳ぶのに、邪魔だし。
一言答えると、そうなんや、と少し顔を赤くして俯く彼女を見て、変な子だなと思った。
その後も大きな大会で毎回彼女に会うたびに話しかけられ、さすがに鳴子翔子という名前を覚えた。
関西では負け無しの選手だということも、周りから聞いて知ることになる。
彼女は活発なタイプで、友達も多く、部の先輩や同期からも慕われていたようだ。
そんな彼女の憧れでありライバルが私だと公言しているということを聞き、正直お門違いだと思った。
高跳びは人と比べるものじゃない。
自分を越えていく、そういう作業の繰り返しだと思っていたから。
それに、あの頃の私から見れば鳴子は自分よりも遥かに多くのものを手にしているように見えたからだ。
最後の大会だった3年の秋季大会で、自己ベストである大会最高記録を出した。
その時の、キラキラとした目でおめでとう!と言った鳴子の顔を今も鮮明に覚えている。
すごいなぁ!どうしたらそんなに跳べるん?
まず、髪切ったら?
なるほど、軽量化ってことか!
嫌味を言ったつもりが素直に頷く鳴子に少し呆れていると、遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえて、あ、もう行かな!またね!と走って行ってしまった。
その背中めがけて、思わず叫んでいた。
鳴子!
…っ!なにー?
バイバイ。
彼女は一瞬驚いた顔をしたものの、あの花が咲いたような笑顔で大きく手を振って、ポニーテールの黒髪を左右に揺らしながら輪の中に帰っていった。
私にとっては、痛くて、苦い、そんな思い出。
「なっんや!なんや!」
鳴子はズンズンと歩きながら怒りにまかせて呟く。
こっちは心配して、心配して。
柔らかく微笑む苗字の顔を思い出す。
なに、そんな丸なってんねん!
昔のあんたはもっと、あたしの見えん遠いところ見とったやろ。
そんなふうに、真正面からあたしを見るような子じゃなかった。
その目に映してもらおうと、一生懸命だった。
それなのに、こんなにも簡単に。
変わっていく彼女は、それでも、やっぱり今も、手の届かない存在で。
「…もっと遠くなった」
立ち止まって小さく呟いて、指先が触れた頬をぐっと手の甲で抑える。
ポケットで携帯が小さく震えた。
「はい」
「おー翔子!」
どやった?会えたか、例の名前ちゃんには。
能天気なアホの声が受話器越しに聴こえる。
「…会った。スカシくんにお礼言うといて」
「しかし、お前、よう高校まで突き止めたな」
「たまたまや」
スカシが高校分かったら教えろ言うとったけど。
章吉の友達のスカシくんはどうやら、あの子のことが忘れられないらしい。
「勝手に教えていいか分からへんもん」
「…お前ガサツやけど、そういうとこあるよな」
「なに?バカにしとんの?」
ええとこや言うてんねん。
カカッと笑う声が聴こえて、冬に1回そっち帰るから、と言って電話は切れてしまった。
苗字と同じ地元だったという子が偶然にも章吉の部活の同期と聞き、彼女のことを色々と聞いた。
秋季大会以降怪我をして陸上部を辞めたこと、京都に引っ越していってしまったこと、不器用な彼女はチームメイトやクラスの子とあまりうまくいっていなかったから、彼女の行方を知る友達はいないこと。
それからは自分の伝手を辿って、京都の知り合いに声を掛け行方を辿った。
そういえば、この前、駅で苗字さんに似た子みたわ。
あの制服て確か京都伏見やなかったかな。
京都伏見?
駅で苗字に似た子を見かけたという友達の話を聞いて、最初は耳を疑った。
京都伏見なんて、そんな聞いたことのない高校に行っていると思わなかったからだ。
やっぱり完全に陸上を離れてしまったんだと思った。
あの子はたった独りで、全部抱え込んで、誰も自分を知らない所へ行こうとしたのだろうか。
結局居てもたってもいられず、その週の週末京都伏見高校に来てしまった。
久しぶりに会った苗字は、前のような鋭さはなくなっていて。
それが酷く切なくて、悲しくて。
でも、この子の前で絶対に泣かないと、そう思った。
だって、誰よりも泣いて、崩れてしまいそうなのは、きっと。
あたしがそれを支えてあげられたら、そう思って連絡先を渡してきたが、きっと彼女はなにも言わないだろう。
そういう子だ、あの子は。