「危ないで、そないに乗り出したら」
興奮のままに2人して見えるものを指さして眺めていると、背後からヒヤリと冷たい声が聞こえて、ボクらはそのまま後ろに引っ張られる。
ふかふかの座席に放り投げられてボクはその声の主を見た。
黒く光沢のある学生服がスラリと長い手足にちょうど良く仕立てられていて、手には白い手袋が嵌められている。
頭には学生服と同じ素材の学生帽がのせられ、首元には金のボタンが電灯の光を受けてキラキラと輝く。
時折、車窓から流れ込んできた風が肩を覆う短い外套の裾を舞い上がらせた。
ピカピカに磨かれた黒い革靴の片方の爪先を、コツコツと床に打ちつけながら首を傾げたその不思議な男は、星一つない夜空のような瞳を大きくさせた。
「キミィらァ、どっから来たん?」
ペタリ、と身体に纏わりつくような威圧感を漂わせる冷ややかなその視線から、ボクは目を逸らす。
「わ、わからへん」
そう呟くのがやっとだった。
隣で苗字さんが息を呑んでいるのを感じる。
「ふゥん…。ま、ええわ」
彼はフッと視線を逸らして、ふらりとボクらと向かい合わせの座席に腰を下ろした。
ーなんでそこに座るん…。
視線が逸らされたことで緊張が抜けてどっと身体が座席に沈み込むような感じがしたが、今度は不可解さに対する腹立たしさが込み上げてくる。
「御堂筋くん…」
隣に座っている苗字さんが、そっと囁くようにボクの名前を呼んだ。
頬杖をついて窓の外を見ていた目の前の男が、チラリと窓越しにこちらに視線を向けてくるが再び外に視線を戻した。
「だ、大丈夫やよ」
心配そうにこちらを見ている苗字さんを安心させようと、ボクは精一杯の強がりを言って頷いて見せる。
「キミィ」
目の前に座る学生服の男が、じっとりと目を細めながら話しかけてきた。
「なん、ですか?」
ボクは恐る恐る答える。
苗字さんが、きゅうっとボクの手を掴んだ。
「名前は?」
「…み、御堂筋翔、です」
男は驚いたように目を見開いた後、隣のキミィはァ?と不思議に間延びしたイントネーションで苗字さんを見る。
「苗字名前…」
男はその答えを聞くと、やっぱり、と小さく呟いて大きな手で顔を覆った。
暫くそのまま窓枠に肘をついて何か考え込んだ後、ため息をひとつ吐いて顔を上げた。
「あの…」
苗字さんが恐る恐る男に声を掛ける。
「貴方のお名前は?」
ボクは、よくそんなことが聞けるなとギョッとして苗字さんを見た。
苗字さんは真っ直ぐに彼を見据えている。
この子はこんなに強い子だっただろうか。
本当にボクの知っている彼女なのか?
「…ボクゥは…ボクゥも、アキラ、や」
彼はちらとボクを見て迷うように言葉を探した後、最後はキッパリと名を名乗った。
「アキラ…さん?」
「クン、でええ」
「え?」
「アキラ、クンでええ」
「アキラくん」
苗字さんは何が面白いのか、ふふ、と笑った後、ボクに向かって、アキラくんだってさ、とまた笑って見せて楽しそうに足をぶらぶらと揺らした。
アキラ、なんて名前珍しくもないのに、まるで自分が呼ばれているようでくすぐったい。
「次は、白鳥の停車場ー。次は、白鳥の停車場」
どこからともなく、まるでチェロのようなごうごうとした不思議な声が聞こえた。
これは多分この列車に乗り込んだ最初に聞いた声。
窓の外にふと目をやると、いつの間にか辺りは星々の光り輝く夜空を抜けて、列車は銀色に輝く芒の原の中を進んでいた。
芒は風に揺れてさらさらと波をたて、時折ふわりと銀色の粉を夜空に巻き上げている。
芒の波の先には、大きくて立派な白い十字架が厳かに柔らかな光を発しているのが見える。
「母さん、心配しとらんやろか」
どこともわからない風景をじっと眺めていると、ふと寂しさが込み上げてきてボクは思わず不安な気持ちを声に出してしまった。
「…キミィのお母さん、元気なん?」
ボクの零した言葉を聞いてか、前に座るアキラくんがぽつりと呟くように聞く。
「…?体は弱いけど、元気や。一応」
変な質問だと思いながらも、ボクは答える。
それを聞くとアキラくんは、フゥン、と言いながら窓の外に視線を戻した。
車窓に映るその横顔を見ると、微かに目を細めた読み取れない表情をしている。
「そやったら、絶対に帰らなあかんなァ」
「…うん。ボク、帰りたい」
「来れたんや。帰れるわ」
こちらも見ずにアキラくんは言う。
ぶっきらぼうなその言葉はどこか確信めいていて、ボクは幾分不安が薄れたような気がして、うん、と頷いた。
「わぁ、すごい…」
苗字さんの声が聞こえて、ボクもまたその視線の先を追い車窓の外を見て息を呑む。
先程遠くに見えていた大きな十字架が、車窓の外すぐ側で夜空の濃紺の中に煌々と輝いていた。
fin
