「喜助、どうじゃった、名前の様子は」
「相変わらずでしたよ」
そうか、と呟いて、夜一サンは窓の向こうの宵闇へ視線を投げかける。
その表情はこちらからは窺い知れないが、きっとまた苦悶の色を浮かべているのだろう。
その気持ちは、痛いほど、分かるけれど。
「で?今日こそは伝えてきたんじゃろうな?」
「へ。あ、あぁ…」
言い出しそびれてしまいましたァ、と言って力なく笑って見せると、夜一サンの呆れたといわんばかりのため息が飛んでくる。
「隊長就任の件は、いずれきちんと伝えますから」
ね?と頭の後を掻いておどけて見せるが、きっと夜一サンには見透かされているだろう。
ズルズルと時間稼ぎをしているということに。
彼女とボクを今現在辛うじて繋いでいるもの。
それは、分隊長と部下という、細い関係性だ。
檻理隊から外れたということが知れれば、もはやその関係すらなくなる。
無理を言って、隊長就任後もこの任務だけは秘密裏に継続させてもらっているが、いつまで続けることができるか。
隊長になってみれば瀞霊廷内にも何やら妙な動きが多い。
この件と瀞霊廷内の色々がどう結びついてくるのだろうか。
それ次第によっては、この件から手を引かざるを得なくなるだろう。
否、そもそも、あんな場所に彼女を置き去りにしている自分が、愛だの恋だの口にする資格などないのだ。
薄汚れた独占欲を振りかざすしか能のない、無能な分際で。
「喜助」
感情の籠もらない声に視線をあげれば、夜一サンの冷めた視線とぶつかる。
「最良の選択をしたと、儂は思っておる」
嘘だ。
「えぇ。そうっスね」
じゃボクはこれで、そう言い置いてゆっくりと腰を上げると、ひらりと夜一サンが興味なさげに手を振った。
隊首室に戻ると、もうすでに誰もいなかった。
やりかけの仕事を前に、暗がりの中椅子の背もたれに首をもたせかけてため息を吐く。
ゆったりと目と瞑ると、記憶の残像が浮かんでは消えていく。
細く頼りのない手首、月明かりに浮かび上がる白い肌、口元を覆う布越しの呼吸や、薄っすらと細められた目尻の赤。
記憶はいつも部分的にいやに鮮明に残る。
あれも確か梅の頃だったか。
あの部屋に漂っていた梅の香の記憶が刺激となって、最初に彼女と出会った日のことが鮮明に蘇った。
終
