彼女と最初に交わした言葉を鮮明に覚えている。
夕闇の中、梅の香が漂う隊舎の庭で声をかけたのはボクの方だった。
『夜鷹サンって、変わった名っスね』
『…私には似合いの名だと思っていますが』
その言葉の意味をいまいち理解しきれなかったが、口元だけで笑ってみせたその横顔があまりに綺麗でそっと息を吐いた。
思えば、あの日既にボクは、彼女にどうしようもなく惹かれていたのだろう。
そうだというのに。
なぜあの時、"貴方は美しい"の一言を出し惜しんでしまったのか。
たとえ、そんな薄っぺらい一言を吐いたところで何も変わらなかったとしても。
彼女はボクより少し先に入隊していた先輩で、ボクは一介の隊士だった。
たまたま同じ任務で行動を共にするため配属された隊に彼女がいた。
彼女は隊内では目立たない隊士だった。
居ても居なくても誰も気にも留めない存在として、ただひっそりと彼女はそこにいた。
体格も小柄で、能力も、人柄も何か特別なものはない、平凡な隊士。
それが周囲の彼女に対する評価であった。
ボクと夜一サンを除いては。
『気付いておるか、喜助』
『ハイ』
『頼むぞ』
『そのつもりです』
夜一サンと一言二言交わした会話で通じ合う程、気がつくことができれば、彼女の違和感は強烈だった。
同じ任務について、その動きを注意深く見ていればすぐに分かる。
あの動きは隠密行動を骨の髄まで叩き込まれた者の動き。
訓練された、というような生半可なものではない。
その技で生きてきた、と言ったほうが正しいように感じた。
それほどまでに、自然に、いとも簡単に、躊躇なく、彼女はすれすれのところでいつも自分の命を守っていた。
その手際の良さに、誰も気が付かない程ひっそりと、静かに。
得体の知れない者は常に警戒の対象となる。
夜一サンに言われるまでもなく、ボクは監視と調査の為彼女の傍にいることが多くなった。
傍にいればいるほど"夜鷹"という女性(ひと)は分からなくなっていった。
彼女にはあまりに謎が多すぎた。
過去を探ろうとしても、空白なのだ。
文字通り、全くの空っぽで、真っ白で、あまりにも痕跡が無い。
共に時を過ごしている彼女が、まるで夢幻であるかのように。
それでも、その人形のように表情のない瞳に、ボクを写して欲しいと願ってしまった。
そんなボクの浅はかな願いを知ってか知らずか、彼女は少しずつ変わっていたかのように思えた。
感情のなかった瞳が揺れる瞬間や、頬が緩む瞬間を、ボクは確かに見たのだ。
特に(妬ましいことに)夜一サンの前では、随分と豊かな表情を見せるようになった。
夜一サン自身警戒は怠ってはいないようだが、彼女の持つ秘密は別にしても、彼女という人間をどうも放っておけない何かを感じているらしかった。
夜一サンが気に入った隊士によくやる、頭をくしゃくしゃと撫でる行為が彼女のお気に入りなようで、猫のようにうっとりと目を細める彼女を拝むことができた。
そんな彼女の微笑ましい変化が見られると共に、ふとした瞬間のどこか苦しげな、物悲しそうな表情もまた、よく見かけるようになった。
その表情の意味を、もう少し早く掴めていたなら。
『浦原くん』
『夜鷹サン、どうしたんスか?』
彼女を探り始めて暫くが経った頃だった。
珍しく彼女から声をかけてきたことに驚き半分、嬉しさ半分でいそいそと彼女に近寄った。
ボクが彼女に出会って早くも数回の四季を繰り返し、またあの梅の季節がやってきた頃だった。
隊舎の庭、満開の梅の中で夕闇に浮かんだ彼女が、まるであの日と同じ瞳をしていたことに気がついた時には、ボクはすでに巧妙に消されていた彼女の正体を知っていた。
本当の名前も、その生い立ちも、この場所にいることの目的も恐らくは。
それでも、止められると思っていた。
それだけの準備も、注意も払っていたと、守りながら戦うことの困難さも知らずに。
その瞳に見入っていていたら、急に襟元を引き寄せられて腰から前に身体が折れ曲がった。
気がつけば、視線が彼女の項や華奢な肩の細部を捉えるまでの距離に接近していた。
流石の早業と、感心する間もないうちに、彼女の吐息が小さく耳にかかった。
『ちゃんと、見張っていてね』
小さな囁きが夕闇に溶けるか溶けないかの間に、ふっと身を離した彼女がおこした風の中に梅の香が漂って消えた。
ハッと視線を横へ移動した時には、彼女は既に隊舎の廊下をするりと曲がっていたところだった。
あぁ、あの時。
過去を振り返ればその言葉ばかりが心を占める。
何より苦しいのは、貴方に罪を背負わせてしまったこと。
そんな罪、あって無いようなものだといくら声を掛けたところで、気休めにもなりはしない。
どう向き合っていくのか、そのために何が自分にできるのか。
今も半信半疑のままでいる。
終
