2020/03/04
星さんと別れて、外へ出る。
街の外れでよく見る、笑っちゃうようなネオンを放つホテルを横目に、敷地を通り抜けてまた寄宿舎の前の方へやってきた。
建物から出てきたというのに、洗濯物の匂いも、小鳥の声もしない。エグイサルの工事の音だけがうるさく響いているけれど、空気は無機質でどこか清潔感を感じた。
また、空を見上げる。
さてと、まだ少し早いけど、プールへ向かおうか。
*
「あれ、ルトラ早いね」
プールの入口の前で背を向けていた、小柄な人影に声を掛ける。
彼女は何か作業をしていた手を止めて、こちらを振り返った。
「ちょうど良かった」
「ん? どうかしたの?」
「これ、君に預ける。僕は他に準備があるから」
「これって...」
ルトラがぶっきらぼうに差し出したそれを、思わず受け取る。
一瞬、片手で持てるか心配するような様子を見せたルトラに、軽々と持って見せる。
渡されたそれは、トイピアノだった。
「すごいよこれ! ルトラが作ったの!?」
「うん、大部分は。合歓と琴都もやってくれた」
「もしかして、ずっと篭ってたのってこれのため?」
「そう。材料も限られているし、経験も足りないから、小さいもので練習しようと思って。音色は保証するよ」
「そっか。ふふ、それは楽しみ」
思わず笑みがこぼれた瞬間、ズキリと胸が痛む。
なんでこんなにドキドキしてるの。もう、ピアノなんて、いいのに。
「中で待ってて。まだ誰も来てないけど」
「あっ、うん、準備任せちゃってごめんね」
「そんなこと、いいよ、別に」
ポーカーフェイスの中に、戸惑いのような色が見えたが、ルトラはそれ以上何も言わずに校舎の方へ去って行った。
私は半開きになったプールのドアを、悪いとは思いつつも、仕方なく足を使って開けた。
靴を脱ぎ、裸足になって歩いていく。
そして、もう一枚ドアを越えると、懐かしい塩素の匂いに包まれた。
天窓に照らされ、キラキラと輝く水面に、思わずため息がこぼれる。
「素敵、かも」
倉庫の雰囲気と似て、ところどころ蔓植物が巻き付いている。
それもここでは、リゾートのような雰囲気になっていて素敵だった。
滑らないように気を付けながら、プールサイドの濡れていないところを探す。
そして、端っこの方に辿り着くと、もう一度床が濡れていないか確認してから、トイピアノを置いた。
その正面に、私もぺたりと子供のように座り込む。
なんとなく心が踊って、小さく笑い声を漏らせば、高い天井に音が反響する。音を追いかけるように、視線が上の方へ昇っていく。
眩しいほどに光を取り込む天井を、だらしない顔で見上げていた。
視線を天井に向けたまま、何気なく指をピアノに下ろす。
カンッと可愛らしい音が、また天井へ昇っていった。
きゅんと、ときめく。
自分の鼓動から、目を背けたいのに。
指が勝手に鍵盤を押していく。
ドビュッシーの夢想。
左手しか無い私の、たった25鍵の、夢想。
主旋律を左手で弾くのは難しくて、たどたどしく音が鳴る。
鍵盤が足りなくてオクターブ下で鳴らすと、それはもう、夢想とは呼べない、何も残らない拙い音楽になった。
それでも、カラコロと可愛い音を立てるピアノが、強く心を掴んで離してくれない。
そうか、これが私の捨てる夢なんだ。
「さよなら、しなくちゃ」
降り注ぐ光が、涙で拡散して眩しい。
子供の頃、親の運転する車の助手席で、眩しい目をぎゅっと閉じて、いつの間にか眠ってしまったことを思い出す。
通り過ぎた日々は、どれも美しい。
こんな陰鬱な気持ちだってきっと、大人になったら羨ましいほどの思い出になるんだ。
なるのかな?
分からないや。
「譜字平さん」
月夜のような幻想的な声に、私はゆっくりと目蓋を開ける。
天井を仰ぐ私を、最原さんが屈んで覗き込んでいた。
「泣いているの?」
「いえ、その、眩しくて」
嘘ではない。
「変わった音のピアノだね」
懐かしむような表情で、最原さんがピアノに近付く。
そしてそのまま、彼は私の隣に座った。
「今のは月の光...じゃないよね?」
ああ、知っているよ。
君がその曲に焦がれる理由を。
「今のは夢想。同じく、ドビュッシーの曲です」
いい加減首が痛くなって、頭を起こすと、最原さんが黙ってピアノを見詰めていることに気が付いた。
「あの、触ってもいいですよ」
「えっ、本当に?」
最原さんはパッと顔を上げると、嬉しそうに、でもどこか寂しそうな目で、再びトイピアノを見詰める。
そして、人差し指をそっと白鍵の上に置いて、恐る恐るといった様子で、静かに鍵盤を押した。
コロン、と弱い音がこぼれると、グランドピアノに比べて断然少ない残響がして、そしてあっという間に止んでいく。
その仕草があまりに汚れなくて、まるで子供のように純粋で、可愛く見えてしまった。
同時に、ピアノへの憧れが、単純に音楽に向けられている訳ではないことを感じ取った。
この人は、好きな人がどんな音を鳴らすのか、知らないまま失ったんだ。
あんな悲劇のあとに、前を向く決意をしたんだ。
私には分からないよ。
左手が、鍵盤に向かっていく。
私の手に、最原さんの視線が向けられる。
そして、最原さんの人差し指が引っ込められると同時に、私はその旋律を鳴らした。
それは、やはり片手で弾くには困難で、25鍵には収まらずに不格好に崩れていく。
だけど、月の光だった。
あまりにも音が足りなくて、それとは分からないかもしれない。
だけど、私は、私の頭の中に溢れる音を抑えきれなくて、ただ吐き出すかのように、鍵盤を押していく。
そして、思い出してしまった。
私が、ピアニストから楽器職人へ、夢を乗り換えた日のことを。
この胸の高鳴りが、どこから来るのか、確かめてはいけない。
やがて音が止むと、最原さんは、トイピアノへ向けるかのように、穏やかに微笑んだ。私の顔は見ない。
「月の光、素敵だね」
「すみません、下手で」
「ううん。こんなに難しそうなのに、すごいよ」
「...できれば、両手で弾いてあげたかったです。私も、月の光、大好きだから」
ふと、最原さんの視線が、私の右腕の方に注がれる。いいや、右腕が、あった場所にだ。
「こういうこと、聞いていいのか分からないけど...」
「いいですよ、何を聞いても。お父さんに関することは言えませんけど」
「ううん。そうじゃないよ。君自身のこと。あと、ピアノのことかな」
「...それでも、いいですよ」
最原さんは膝を抱えるように座り直して、一呼吸置く。
そして、どこか遠くを見たまま、語りかけてきた。
「君は、やっぱり楽器が好きなんだな、って見てて思ったんだ。ピアニストの研究教室を通り掛かったとき、詩守村さん達も、夢中で修理してるのが分かった。とても、モノクマの命令だからとか、脅されてるようには見えないよ。...そして今、君のピアノを聞いて気付いたんだ。君は、掛け替えのない利き手を失ったんだと」
ハッと心が動かされて、吸い込まれるように彼の顔を見る。
彼はこちらを向かない。
「ごめん、腕を失って平気な人なんか居ないってことは分かってるんだ。楽器を修理するのに、障害になることも、当たり前に分かってるんだけど、そうじゃなくて。なにか、引っ掛かるんだよ」
「あ、の...」
そうだ、嘘をつこう。
「あの、私、さっきお父さんから聞いて思い出したことがあるんです」
最原さんが、驚いたようにこちらを見る。
初めて、じっくりと重なった視線に、心がほんの少し揺れた気がした。
「お父さんに目覚めさせてもらう前の、私の事です。きいて、くれますか?」
「うん、聞かせてよ」
ゴクリと唾を飲んで、私も最原さんの真似をして三角座りする。
目を合わせているのが居心地悪くなって、そっと自分の足に視線を落とす。
裸足の指が、ぬるい水で濡れてキラキラしている。
「お父さんが目覚めさせてくれるよりも前に、私たちは一度死んでいるらしいです」
「確かに、そんなことを言っていたね」
「そして死ぬ前は、最原さんたちと同じように、誰に攫われたか分かりませんが、この学園のどこかに眠らされていた、と思います」
「うん、僕の記憶からもそう思うよ」
「そして、さらに前、才囚学園に連れて来られるより前の、日常の私。ええと、その、自分ではっきりとした記憶がある訳ではないんですけど、楽器職人を目指してピアノ工房に弟子入りしていた、みたいなんです」
頭の中で、嘘がバレないように整理していく。
「本当は、最初の夢はピアニストになることで、クラスの中では、ピアノ教室の中では、一番にピアノが上手だったんです。だけど、少しずつ学年が上がるにつれて、友達の中でも一番じゃなくなって、それでも一番になりたくてたくさん練習したの。もしかしたら、大した実力差なんて無かったかもしれない。ううん、むしろ私の方が上手だったかもしれない。だけど私は、競争に疲れてしまって...」
思い出した景色が、現実のように目の前の鍵盤と重なってい。
それが耐えきれなくて、私は顔を隠すようにぎゅっと膝を抱えた。
「だけど、その友達は、それでも負けないって楽しそうで。競争を続けることができて、それだけで、ああ、私は負けなんだなって思ったんです」
最後の言葉の残響に、じっくりと耳を傾ける。
完全に音が止む頃には、目の前の思い出は消えて、景色が現実に戻っていた。
「それで、楽器職人になろうと思ったの?」
「はい。もっと競争の少ない場所で、ピアノと関わっていたくて。逃げたみたいになっちゃったけど、でも楽器の勉強も面白いですよ。...って思ってたみたい。あの、あんまり記憶は無いんですけどね!」
モノクマから聞かされたという嘘に乗せて、私の初めの夢を話してしまった。話してしまいたくなったの。
どうしてだろう。自分でも忘れていたのに。
「ごめんなさい、変な話して。あの、私は少し教えてもらったけど、琴都たちは何も思い出せないみたいですから。修理を任されたのもきっと偶然です」
「それでも、引っ掛かってた理由が分かったよ」
「私が腕を失って、絶望していた理由のこと、ですね」
「君の心の中には、ピアニストの夢も残っていた...ってことだよね」
「あはは、やめてください。腕があったとしても、もうピアニストになんて」
「えっと、ごめんね、踏み込んだことを聞いて」
「私が好きで話したことですよ」
言葉に詰まって、どちらともなくため息をつく。その時、複数人の足音が外から近付いて来たことに気付いた。
合歓たちがやって来たんだろう。
「いけない。僕、昨日使ったパラソルを探しに来たんだ」
「パラソル?」
「うん、昨日茶柱さんたちに言われて持ってきたんだけど、なんか今日も使うみたいで」
言いながら最原さんは立ち上がり、辺りを見回す。
そうしている間に、プールのドアが開いて、合歓たちが入ってきた。
「待たせたな、紗如」
声を掛けられて、私は立ち上がる。何やら荷物を抱える合歓たちの元へ、私は歩いて行った。
合歓は、別に手伝わないでいいのに、なんて苦笑いするけれど、なんだかいつも通りにしていたかったのだ。
そして、トイピアノについて軽く話しながら、準備に取り掛かろうということになった。
合歓、琴都、ルトラがプールサイドの床を踏み、入口の扉を閉めようとした。
その時だった。
「あー!! またあなたですか!」
靴箱の先にあるドアを開けて、茶柱さんがこちらを指差していた。
東条さんや、他の女子も居る。
水着やタオルを手に持っている様子からして、彼女達もプールで遊ぼうとしていたのだろう。
慌てる私を気にも止めず、茶柱さんはずんずんと近付いてくる。
それに気付いた合歓が、迎え撃つようにドアの前に仁王立ちした。
「なんですかあなた! なんでモノクマの手下であるあなた達が、学園の設備を使っているんですか!」
「モノ...父さんの許可得てるんだから別にいいだろ!」
「ダメです!ここはこれから転子たちのバカンスに使うんです!あと、キュートな顔してそんな乱暴な言葉遣いも、ちょっとダメです!」
「あーん? じゃあ一緒に遊ぼうぜぇ?」
「あなたとなんて御免ですよ! 女子とはいえ、夢野さんを守るためなら、転子は鬼になります」
「ふん! こっちだって御免だっつーの! やり合うしかねぇみてーだな」
火花を散らす茶柱さんと合歓。
パラソルを拾ってきた最原さんがこちらへやって来たが、2人の間に入ることは叶わなかった。
私はただ、2人を見守って立っていた。