07:芽を出した

2020/07/09

#3

「はぁ、はぁ」

「もー、急にどうしたのさ紗如。ケガしてるのに走ったらあぶないよー?」

プールの外へ出てきた私は、息を整えながら、膝に手をついた。
走るのはそれほど苦手じゃないのに、いつまで経っても呼吸が整わなくて、苦しさのあまりぎゅっと目を閉じた。
自分の鼓動が、頭に強く響いてくる。

「もうっ...琴都がへんなこと言うからぁ...!」

「へっ? わたしなんか言った?」

琴都は、心底分からないという表情をしている。

「キスとか、そういうの!」

「ええ!? 普通の話じゃない!?」

「全然普通じゃ...! ん、いや、普通かも?」

「ほらー、恋愛の話なんてべつに女子高生なら普通じゃない?」

「そ、そうかも...」

「ふふふー。それじゃ紗如ちゃんはどうしてあんなに慌ててたのかなー?」

「えっ?」

ついと顔を上げて、見透かしたような琴都の笑みと対峙する。
子犬みたいにまん丸な目が、好奇心に満ちているのが分かった。

もう負けだ、と思って私は正直に話す事にした。

「あのね、私、ちょっとだけ最原さんのこと素敵だなって思っちゃったの。まあその、中継とかでも活躍見てたらさ、普通ちょっとくらいカッコいいってなる...よね?」

「うんうん、私も最原くんカッコいいとおもうよー。あと照れ顔がキュートだよねっ」

「う、うん...。だから、それだけなの、別に好きとかじゃなくて」

「そっかぁ。あはは、紗如は変わってるね〜」

ため息混じりに、それでも明るい声で琴都はそう言うと、入口前の段差に腰掛けた。私も、隣に座り込む。
借りた上着が汚れないように、床を手で払いながら私は聞き返した。

「変わってる?」

「うん。だって最原くん達はさ、ここに来てから作られた、いわばキャラクターのような存在なんだよ? そんな人に恋をするってことは...」

そこまで言いかけると、琴都は上手い表現を探してか、首を傾げて考え込む。
私は、聞きながら思い付いた言葉で返事をする。

「馬鹿げてる? アニメに恋をするようなものだって、思う?」

「馬鹿だなんて思わないよ」

「それに、中継を見ている人達の多くは、そういう目で見てるよ? 琴都だって中継見たでしょ」

「アイドルみたいに、ってこと?」

「そうそう」

「それじゃ紗如が言う、最原くんが素敵って気持ちは、アイドルに憧れるような気持ちなの?」

「えっ? そりゃ、そう...だよ?」

幻への恋愛感情と、アイドルへの憧憬。似てるようで全然違うその気持ちから、私は目を逸らす。
こういうことは、ぼんやりしたままにして置けばいいのだ。
はっきりと確かめないでおけば、こんな曖昧な気持ちはいずれ、無かったことになるから。

それに、と付け加えようとしたところで、先に琴都にその言葉を言われてしまう。

「それに、さ。ここに居る人のほとんどは、きっと死んじゃうんだよね」

明るい声でも隠せないくらい、その言葉は空虚に響いた。
私は何かに操られたようにゆっくりと空中を見上げて、何か言おうとしたけれど、言葉が出て来ずに息が漏れた。

季節の無い空、季節の匂いも無い風に、少しずつ思い出が刻まれていく感覚がする。
平凡な偏差値の公立高校で、半分よりは上くらいの学校生活を送ってきた私に、突然訪れた非日常。
ただ、階段に腰掛けて雑談しているこの瞬間でさえ、いつか強く思い出す時が来る気がした。

「私、東条さんとか、星さんとか、色んな人に助けられ過ぎたよ。もうとっくに情が湧いてて、入れ込まないなんてもう無理みたい。...だから、ここを出たら、もう中継も見ないよ」

「…まだ、出て行くこと考えてるんだね」

「うん。いろいろ、立ち去り難い理由はあるけど、半々くらいですごく迷ってる」

「うんうん、いーよいーよ。悩んでから決めて、そしたら、もしお別れになっちゃっても、わたし...がんばるから...」

寂しそうに琴都が俯いているのを見て、私はこの出会いが普通の友人関係の始まりとは違うのだと思い知った。

「そっか、ここを出たら、私たちもう会えないんだね」

「会えなくはないよ。きっと、がんばれば会えるって」

「無理だよ。もし本当にピアノの修理が終わって、約束通りピアノ工房に入れてもらったとしても、それぞれの行き先は分からない」

「それでも、有名な工房を調べれば見当はつくでしょ?」

「曖昧な場所の情報だけで探し回るなんて、全然簡単なことじゃないよ。子供が1人で国を渡るなんて、全然簡単じゃない」

「...それじゃあさ、有名になろうよ」

琴都は、俯いていた顔を上げると、頬杖をついた。
その視線の先には、エグイサルの居る非日常の風景か、その瞳にしか映らない、未来の景色か。
穏やかな表情から読み取るのは、簡単な事だった。

「私は、もう職人になれる望みなんて...」

「その事は、今は考えないで。紗如がどうなっても、私たち、必ず有名なピアノ職人になるからさ、見つけに来てよ」

「琴都はすごいね。そんな風に自信が持てるなんて、私にはきっと、腕があっても無理だよ...」

「あはは。自信じゃないよ。これは希望」

「希望?」

私の問い掛けに、琴都の瞳がこちらを向く。
きらきらと子供のような黒目が、少しだけ私の心を無邪気な方へ導くような気がした。
彼女は私の手を握って、言う。

「こうなったら嬉しいなって思う未来を想像するの。それが私の希望だよ。だからね、紗如。腕はきっと治るし、仮に治らなくても、その左腕でのし上がる事だってきっとできる。そして、もしそれも叶わなくても、私たちが力になるよ。大丈夫、紗如の人生は全然最低なんかじゃないよ」

「琴都...」

左手でぎゅっと、彼女の手を握り返す。温かくて、柔らかくて、でも少し頼りない女の子の手。
その小さな手のひらの中にある、無垢な希望を少しだけ貰った気がした。

「ありがとう。私、まだまだきっと悩むと思うし、たくさん泣き言も言うと思うけど、未来の全てを諦める事はしないよ」

「うん! …よかった、少しでも元気づけられたなら」

安堵を含んだ微笑みをこちらに向ける琴都を、私はきっと穏やかな表情で見ているのだろう。

「そういえばさっき、合歓にお姫さまって言ってたけど、琴都のそういう前向きなところも、映画に出てくるお姫さまみたいだね」

「ええ!? 紗如分かってくれてたの!?」

「え、な、なにが?」

「わたしが、前向きでお洒落でかわいい、音楽と自然を愛するお姫さまになりたいってこと!」

「いやそこまでは知らなかったけど…。ふふ、でもそんなに憧れだったんだね」

「うん!」

琴都は頷くと、そろそろプールに戻ろうか、と立ち上がった。手を握ったままの私も、一緒に立ち上がる。
そういえば、水着のままだった。
誰もここを通り掛からなかったのが幸いである。

滑らかなコンクリートでも、裸足はちょっと痛いな、と思いながら扉に手を掛ける。
その瞬間に、向こう側から扉が勢いよく開かれて、茶柱さん達が顔を出した。

「詩守村さん! 譜字平さん! 見つけましたよ!」

「わー! まだやってたのー!」

「当然です! 側葉良さんでは相手にならないのでやって来ました!」

「ルトラはー? 簡単に負けると思えないけど」

「ええ。日坂さんもある意味相手にしたくないので」

「なるほど」

「なるほどじゃありません! 隙ありです!」

茶柱さん、夜長さんは琴都を挟み撃ちにしようと回り込み、そこに夢野さんもダルそうに加わると、3人は水鉄砲のような容器の引き金を引いた。

「あれ?」

何故か、私を狙う人は1人も居ない。

「ぎゃー! かわいい水着がー!」

琴都が間一髪で避ける様子をただ棒立ちで眺めていると、突然茶柱さんがこちらに振り返った。
しまった、こっちに撃ってくる。

そう思った瞬間、茶柱さんが水鉄砲を捨てた。

「え? あの、茶柱さん?」

「譜字平さん! 隙ありです!!」

どこから出したのか、フラフープのような大きな輪っかを振り上げ、私の頭上からそっとくぐらせてきた。
掛け声とは裏腹に勢いの無い動きに、私はポカンと口を開けてしまった。

「えっと、なんでしょうかこれは…」

「譜字平さんはお怪我をされているので! 走るような勝負は危ないですから」

「へっ…?」

これが一体どんな勝負なのかは分からないが、目の前の茶柱さんは勝ち誇ったように腰に手を当てている。多分、茶柱さんの勝ちだったのだろう。

「ぷふっ…あははっ」

思わず私は吹き出してしまった。

「なっ、なんですか急に笑ったりして」

「いえ、優しいなって」

「別にあなたに優しくしたわけではありません! ただ、痛いのは可哀想なので…」

それが優しいのにな、と思ったけれど、怒られそうなので黙っておいた。
そんなことをしてるうちに。

「うわーん! 紗如たすけて! かわいい水着が! サラサラにした髪がー!」

「にゃははー。大人しく撃たれればきっと神さまも許してくれるよー」

「神さまに怒られるようなことしてないよー!」

「んあー、さっさとインク使いきって戻りたいんじゃが…」

「ひぃぃぃ! 助けてー! 殺されるー!!」

殺すなんて大袈裟な、と口を挟もうとした時だった。
校舎の方へ向かっていく1人の人影が、ふと足を止め、琴都の助けを聞き付けてか、こちらに走ってきた。

ん? あれは…。


back