海で深海に会う



海が好きだ。小さい頃からずっと、海が好きだった。
太陽の光を反射してきらきらと光る水面も、天気が悪い日の荒れるような波も、浴びると髪がパリパリになる潮風も、砂浜に埋まっている小さな貝殻も。何がきっかけになったのかはもう覚えていないが、平日でも土日でも時間があれば海に出かけていた。泳ぐのはあまり得意ではないので、いつも見る専門だった。ただ砂浜を歩き、たまに座り込んだりして、ぼぅっと眺める。それだけでずいぶん楽しかったので、中学生の頃は親に「あんたは海に連れて行きさえすれば満足するから、楽な子供ね」と冗談めかして言われたりもした。

ある日の夕暮れ、家の近くの海岸を、普段は行かないようなずっと先まで歩いていた。この辺りは家からそこそこ遠く、大きな学校が近くてそこの生徒がよくいるためあまり来ない。なんとなく、この辺りの海岸は自分の中で「そこの学校の人たちのもの」という認識だったからだ。なのになぜ今日はそんなところまで歩いてきたかと言うと、つい先程親と喧嘩をしたからである。大した理由ではなかったが何故かどうにも水に流すことができなくて、「お母さんのバカ!」という捨て台詞と共に家を飛び出してきた。
幸いあそこの学校の人たちは誰もいなかったので、適当な場所に腰を下ろすことにする。海は夕陽に染まっていた。うん、今日もきれい。

「んん…?」

波打ち際からは少し離れたところに座っていたが、浅瀬に何やら大きめのもの?が浮いているのが見えて目を凝らした。ポイ捨てかなぁ、嫌だなぁせっかく綺麗な海なのに汚さないでよ…と思いながら近づいてみる。え?いやモノっていうかアレ……

「人間じゃん!!!だっ大丈夫ですか?!」

「あれれ〜こんばんは〜。みたことない『ひと』ですね〜」

「…ハ?」

思わず大きな声が出た。水死体?!と若干怯えながら走って近付く。水に濡れるのも構わず海に入りガッとその人を掴むと、なんとも気の抜けた声で挨拶が飛んできた。

「え?あっハイ…こんばんは……。あの、大丈夫ですか…?」

「だいじょうぶです〜。きょうは『てんき』がいいので、『うみ』でぷかぷかしてました」

「あっ、そうですか…。ぷかぷか…そう……。……風邪引くかもしれませんし、とりあえず上がりません?」

ぜんぜん意味が分からなかった。死体ではなくて安心したが、この会話の成り立たなさは別の意味で怯える。でも勢いで腕を掴んでしまったし海にも入ってしまったので今更アッそうですか良かったですサヨウナラ!と去ることもできず、とりあえず海から上がることを提案する。よく分からないその人は特に嫌がりもせず、上機嫌にわたしの後をついてきてくれた。

先程座っていた砂浜ではなくて、コンクリートの階段の上に座る。勢いよく水に入っていったため、水しぶきでパンツまで濡れてしまった。制服じゃなかっただけマシだが、靴下と靴がぐしゅぐしゅで気持ち悪かったのでどちらも脱いで横に置いた。靴と靴下を脱ぎながら隣の人を覗き見ると、なんとニコニコとこちらを見ていたためばっちり目が合ってしまう。

「あんまりみない『かお』ですね。どこの『ひと』ですか〜?」

「えっと、あんまりこの辺には来ないようにしてるので…家は結構向こうの方の海岸沿いです。お兄さんは夢ノ咲の人ですか?」

「わぁすごい。よくわかりましたね」

「制服が…それに夢ノ咲ってこの辺じゃ有名ですし。」

有名と言われてもお兄さんはピンとこなさそうな顔をしていた。夢ノ咲にはアイドル科があるためこのへんの公立校の人間からすると憧れの的だ。かくいうわたしも友達に連れられてアイドル科のライブに行ったことがある。このお兄さんも、水に濡れていてもすごく綺麗な顔立ちであることが一目で分かるので、もしかしたらアイドル科なのかもしれない。

「どうしてこのあたりに『こない』ようにしているんですか?」

「えっ。…なんとなく、ここは夢ノ咲の人たちの海なのかな〜って…」

はは、と頬を掻きながら答えると、お兄さんは「『うみ』はだれのものでもありませんよ〜」と朗らかに笑った。細められた目に夕陽が反射してきらきら光る。さっきまで見ていた水面みたいできれいだな、と思った。
思わず見惚れていたが、ひゅうと吹いた風にハッと意識を取り戻す。そうだ、今わたしたちはどちらも水に濡れた後なんだった。わたしは下半身だけだからまだ良いが、お兄さんは頭から足先までビショビショだ。いくら夏とは言え、本当に風邪を引いてしまう。

「お兄さん!帰りましょう!早く体を拭かないと本当に風邪引いてしまいます」

「『だいじょうぶ』です〜」

「えぇ……。」

心配の声もバッサリと即答で斬られてしまい困惑した。しかしわたしの方も水に濡れていたことを思い出したようで、「おんなのこが『からだ』をひやすのはよくありませんね」と言ってお兄さんは腰を上げた。そのまま、靴を履いた(靴下はもう諦めた)ため一拍遅れて立ち上がろうとするわたしに向かって手を差し伸べてくれる。完全に変な人だったし、まさかそんな紳士的な振る舞いをしてくれるだなんて思ってもいなかったのでドキリとしてしまった。有り難くその手をとると、軽く引かれてその勢いのままに立ち上がる。なんだかお姫様にでもなった気分だ。

「お兄さん、いつもここにいるんですか?」

「ん〜…『いつも』じゃありませんねぇ。」

もしかしたらまた会えるかも、と淡い期待を抱いてそう問いかけてみるが、見事に玉砕した。お兄さんがいるのならこの「夢ノ咲の海」にもまた来ようかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。お前は近場の海岸にいときなさいという神様のお告げかな…と遠い目をしていると、「どうかしましたか?」と顔を覗き込まれた。なんでもないです…と力なく答えるわたしを見て、お兄さんはまた楽しそうに目を細めた。またきらきらと瞳が光る。海みたいな瞳だ。

「『ここ』にはいませんけど。いつも『あっち』にいます。」

片手でわたしの手を握ったまま、もう片方の手でお兄さんは学校の方を指差した。夢ノ咲学院だ。そりゃそうだ、学生なんだし、ほぼ毎日のように学校にいるだろう。でもアイドル科のような芸能関係の学科のある学校に、わたしのような一般人が気軽に入ることができるとは思えない。

「あさって、『らいぶ』があります。よかったら、みにきてくださいね。」

「えっ!それ、他校生でも見れるやつですか?!」

「だれでも『だいかんげい』です〜」

「……!い、行くかもしれません」

ライブへのお誘いにがっつくように答えてしまったことが少し恥ずかしくて、意味もなく前髪を撫で付けそっぽを向きながら返事をする。というか、やっぱりアイドル科だったんだ。引かれたかな、と心配になってチラリとお兄さんの方を見たが、「おまちしています〜」と変わらずニコニコしていたので安心した。
お兄さんはあ、と思い出したように声を上げると、どこからかプラスチックのケースのようなものを取り出す。なんだろうあれ、何か分かんないけど濡れないようにわざわざプラスチックのケースに入れてんのかな…と考えていると、目の前にずいっと紙が差し出された。明後日の日付と時刻が書かれた、これは…。

「頂いてもいいんですか?」

「はい〜。それがないとはいれませんから。」

「ありがとうございます!」

明後日のライブのチケットだった。嬉しくなって思わず胸の前でぎゅっと握る。行くかもしれません、なんて答えたが、心はとっくに「行く」の方に傾ききっていたのでとても嬉しい。くしゃくしゃにしないように丁寧に折ってポケットの中に入れた。

「それじゃあ、きをつけてかえってくださいね。」

「お兄さんも。風邪引かないでくださいね。」

別れの挨拶をしてお互い別の方向へと帰っていく。帰り道もずっと、お兄さんのきらきらした瞳を思い出して足取りがずいぶん軽い。怒って出ていったのに鼻歌を歌いながら帰ってきたものだから、お母さんはすっかり驚いていた。
早く明後日にならないかな。お兄さんはわたしのことを覚えていてくれるかな。覚えていてくれたなら、今日すっかり聞くのを忘れていた名前を聞いて、それで、またあの夢ノ咲の海でお喋りしませんかって誘ってみよう。
まるで遠足前の子どものように明後日に想いを馳せながら、ベッドに潜り込んだ。

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