屠所の羊、最後の午餐(ごさん)

「…これ、食う?」

カシャ、とビニールに包まれたメロンパンが私の視線の先に落とされた。

「……ど、う…して?」
「疲れた時って、甘いもの食べたらすげー五臓六腑に染みるじゃん…」
「…ぁ…ありがとう…えと、お金…」
「は?いらねって!」

記憶の限りは、初めて話すクラスメイトの人。名前は確か…牛巻蒔生さん、えっと男の子な…女の子?私は詳しくないけれど、みんなそう話していた。
ゆっくり視線を上げても瞳を直視する勇気はないものの改めて容姿を意識する。天然パーマなのか、少しくるっと巻かれたような焦茶の髪、気怠げな垂れた瞳が私を見つめている。

「…でも…」
「金は要らないからさ、服…」

服、そのワードに思わず肩がビクッと怯えるように跳ねた。

メロンパンをあげるから脱げって事かな、牛巻さんは女の子とは言え、男の子と一緒に話している事が多そうだから…男の子達に頼まれて、私を揶揄いに来たのかな…。
優しくしてくれている筈の目の前の人すら、疑ってしまう自分が醜くて苦しくて…。

また私、ダメになっちゃうのかな…。

__________________

物心ついた頃から母はいなくて、父と2人で暮らしていた。
お父さんはいつも優しくて、私を育てる為、そしてお母さんが原因で求められた慰謝料を返す為に頑張ってお仕事をしてくれていた。

お母さんと離婚していただけなら、お金に大きく困る事はなかったんだと思うけど…不倫相手だ、と父に慰謝料を求める人達は執拗な人達でなるべく早く支払いを終える為に父は自らの色んなものを削って生活していた。
幼い私にはそれを見せないように、私の前では合わせてくれていたし、欲しいものがあれば言うようにいつも言ってくれていた。

でも大変そうなお父さんのお手伝いの為に段々と家事を手伝って覚えていく程、お父さんの隠す色んなものを漠然と察知してしまってもいた。
だから、おねだりもしない、でも私もお父さんに気付かれないように色んな事を我慢していった。

「莉々夢、どこかお出かけしたい所ない?お父さん久しぶりにお休みが3日もあるから1日くらいお出かけ出来るよ」

父は休日は専ら疲れて眠るばかり、だから私もどこかに行きたいとねだる事もしなかったし私からも、ゆっくりお休みして欲しい、と伝えていた。
負担にはなりたくない、でもお父さんとお出かけがしたかったのは子供心には事実で。
あまりお金がかからなくて、行きたい所を考えた。

「あのね、くりーむそーだ?飲んでみたいの、クラスの子がね、飲んだって言ってて…」
「クリームソーダかぁ、いいね。お父さんも長らく飲んでないから飲みたいなぁ。でも、それだけで良いの?遊園地とか…もっと楽しい所もあるよ?」
「ううん、りりむね…お父さんとクリームソーダが飲みたいの」
「そっか、ならクリームソーダとお菓子も食べようね」

聞き分けが良すぎて、欲も見せなさすぎる娘に困ったような笑顔を見せながらも頷いてくれた。
週末には父とクリームソーダとパンケーキを食べて、帰り道には伸ばしっぱなしの桃色の髪を結ぶ為に、可愛いリボンの髪飾りを買ってくれて学校に行く時にはリボンの髪飾りで後ろにまとめて結ぶのが当たり前になった。

我慢は多くても、お父さんが大好き。
だから人を羨ましくなる事はあるけど、我慢する事は決して苦しい事じゃなかった。

私が少しずつ料理が出来るようになっていって、早起きして簡単なものでもお弁当を作ってあげればお父さんはお昼ご飯を食べてきてくれる。
朝や夜は私に合わせて食べてくれていたけどお昼ご飯を抜いていたのはなんとなく分かっていたから。
夕飯の残り物とか、安売りのものとかを使えばお昼ご飯もなるべく安く食べられる、お弁当を作るようになってからは帰ってきた時のお父さんは前よりも元気なように見えて、それがとても嬉しかった。

成長していく程に出来る事、慣れた事も沢山あって…父のサポートをできる所が増えた反面、体も同じように成長をしていく。
成長していく程に新しい服や下着が必要になって、でもみんなに変だと思われるのが怖くて…お父さんにお小遣いをねだる事が苦しかった。
だから段々と体に合わない下着を着けて、それでも自分が少し窮屈なだけだから問題には思わなかった。

でも、小学6年生になると段々と性的な事への興味を持つ子は増えていって

「莉々夢ちゃん、お胸大きい〜!」

クラスメイトの何気ない言葉で、色んな視線が私の胸元に向く。

「お、おっきくないよ…?」
「えー、大きいよ!」
「ほんとだ、おっき!!」

女の子達が集まって私の胸に興味津々に見てくる、恥ずかしくて両手で胸を隠した。
そこから、胸が大きい子、という扱いは増えて…

体育の授業で走っている私を見て

「見て見て、降魔!」

と胸元にボールを入れて真似をされたり、悪意のない興味と視線が向けられる事が増えていって
中学校に入るとそれはもっと顕著になった。

一般的な中学生どころか、大人の中でも大きい方まで成長してしまった胸を収める為の下着はどれも高価で、最初は無理やり小学生の頃の何カップも小さな下着をつけていた。

でも成長しすぎた胸はどうしても溢れてしまう。

「デカ乳がちゃんと隠せてねーぞっ」
「…きゃうっ」

揶揄い方は興味以上に、欲を満たす方向へ向かっていって、関わった事のない男子生徒から突然胸を揉まれたりする事も何度もあった。

「や、やめて…!嫌っ」
「嫌ならちゃんと隠せよ、お前が誘ってんだろ!」
「やだっ」

廊下で他の子よりもしつこくて乱暴にしてきた子を拒む為に思わずビンタをしてしまった。
勿論誰かを叩くなんて慣れていないので、ペチンッ、と弱い音が鳴った。だから多分その子は痛くなかった。
でも私がビンタをした、それが気に入らなかったんだと思う

「何叩いてんだよ!お前がこんなデカ乳見せびらかして誘ってんのが悪いんだろ!」

激昂した彼は私の顔を掴んで、壁へと押し込むようにぶつける、ぐぐぐっと強く背中が壁に押される

「ぅぅう…っ…」
「キャーーッ!!先生ー!!」

流石に大事になりそうだと察した他の子が悲鳴を上げて先生を呼んでくれた事でこの場所は収まった。
でも引き剥がされた後も私を強く睨みつけていた。

怖い、怖い…
でも、お父さんに知られる訳にはいかない、学校に行きたくないなんて言ったら、心配してくれる…なんとかしようと学校にも相談してくれるかもしれない。そんな手間をかけさせられない。

教室に戻れば、数人の女子生徒がそばに来てくれる

「降魔さん大丈夫?」
「あいつキッモいね、気をつけてね?」
「ありがとう…、突然だったからびっくりした」

放課後に遊んだりはしないし、あまり話す事もないけれど…そんな私を心配してくれる事が嬉しくて、もう少し頑張れそうな気がした。
小さい下着を着けているとどうしても溢れて段差が出来て目立ってしまうから、次の日からは下着を着けるのを止めることにした。

それがバレないように少し前かがみになったり、腕でさりげなく隠してみたり、そうやって胸から視線を逸らそうとした。

でも…突然、本当に突然…刃が向けられ始めた。

「巨乳アピしてんじゃねぇよ」
「乳しかないもん、ブスで喪女だから」

いつも通り移動教室の最中、前屈みになって歩いていた。別の話をしていた筈の女子生徒の言葉は突然、隣を通る瞬間に鋭く尖ったものになって私に刺さった。
通り過ぎても、聞こえよがしにこちらを横目で見ながら酷い言葉を発してクスクスと笑いながら声が離れていく。
良くも悪くも誰ともいつもと違う関わり方はしていない、ついこの前まで味方をしてくれていた女の子達に何故悪意を向けられるのか、分からなかった。

移動教室の授業が終わっても当たり前に状況は変わらない。
学校には行き続けないといけない、私が何かしてしまったなら謝って…誤解を解かないと。
でも、聞く勇気がないまま…何日も耐える生活が続いた。

そして数日経った放課後、隣の席の男の子に話があると呼び出されて誰もいない教室に呼び出された。

「…お、お話…なに?」
「降魔、最近女子達に虐められてるじゃん?」
「そ、そうなのかな…わからない、けど」
「俺が守るから降魔の事。」
「…!」

虐められているかも、なんて認めたくなくて強がったものの、守る、と言われてはついドキリと期待するように胸が跳ねる

「守るからさ付き合ってよ、俺と」
「付き合う…?」
「好きだよ、莉々夢」

隣の席なのでペアを組んだ時に話す、それ以上に何も思っていなかった為に戸惑っている間に、ぎゅっと抱きしめられて耳元で甘く囁かれる。確かにかっこいい人だけれど、恋人なんて…。
困惑で何も答えられない事を肯定だと捉えたのか、抱きしめる手がゆっくり下がって、腰を撫でてそしてもう一層下がりながら唇が目の前に迫ってそして、見えなく…

「っ…ぃやぁ!ご、ごめんね…お付き合い出来ない…こういうの、怖いから…」
「なんで?このまま女子に虐められていいの?」
「…じ、自分で頑張ってみるから…ありがとう…」

彼の手が下に伸びて、まるで撫でるように動くと寒気が走って体が凍るような不安と恐怖、凄く嫌な感覚に思わず腕の中から逃げ出す。
少し苛立ったような声色に慌てて謝ってから、逃げるように教室を出た。

そして次の日から明確に、クラスの殆どの人の態度が変わってしまった。
今までは1人が私の胸を触っては友達の元に戻って何か話していたり、触られても数秒程だった。
でも今日は突然後ろから羽交い締めにされて、何人もの人に胸を揉みくちゃにされてスカートを捲られたりエスカレートしているのを痛感する。
女の子達もそれを見てはヒソヒソと何か話すばかりで、以前のように助けてくれるそぶりはない。

私は学校に通い続けないといけない、その為には怖くても私が何をしてもらったのか聞いて誤解を解かなくちゃ…ゆっくりと深呼吸をする。

吸って、吐いて…吸って、吐いて…

………聞きに行こう。

決めた覚悟が縮こまらないうちに、耳の中まで心臓の音が聞こえてくるような錯覚を覚えながらも、教室の中で数人でまとまっている女の子達の中へ向かっていく。

「ぁ、あのっ…わ、わた…私、何かしちゃいました、か?私、悪い事したなら謝らせて下さい」

上擦って掠れて、震えて、そんな喉を必死に振り絞った。
私の言葉一つ一つが紡がれるたびに彼女達の軽蔑したような眼差しは強まる。

「…は?そんなのこんな所で言える訳ないじゃん」
「人の男取っといて、悪い事したなら謝らせて〜だって」
「と、…取ったって…私、そんな…誰とも」
「降魔さん、私の彼氏って知ってるくせに…胸使ってアイツを誘惑したんでしょ!だからアイツ、降魔さんが好きになったって言ってた!告白されたのも知ってるんだよ!?」
「その、でも…私、ちゃんとお断り、して…」

確かに隣の席の男の子はペアになる事も多くて少しだけ打ち解けた、告白も確かにされてしまったがそれもちゃんと断った。
恋人関係だなんて知らなかったし、授業以外で話す事も殆どなかった。
どうしたら、どうしたら嫌われなくなるのか、わからない。
4人が私を睨みつける、萎縮して上手く言葉が出てこなくて、腕に力がこもると自然と胸も中央へと寄せられていく。

「ねえぇぇ、そうやってさぁ!酷いよぉ!」

突然大声で泣き始めた1人の大きな声に他の生徒達も『どうした?』『大丈夫か?』と気にし始める。

「降魔さんが、この子の彼氏寝取ったの!」
「え、まじ?」
「この前助けてあげたのにさぁ!酷くない!?」
「マジで!?降魔とヤれた奴誰!?どうだった?」
「ねぇ!!こっちは本気で怒って泣いてんだけど!!」

女の子も男の子もそれぞれが好きに解釈して話がどんどん乱れていく。男の子達も私が告白を断った事を知ってるだろうにニヤニヤと揶揄うようにとぼけて笑う。
どうしよう、どう言えば証明できるのか、焦って焦って思わず声の調整が効かなくて

「ち、違う…私…、私……ぇ、

えっちした事ないから…!」

大きな声でした私の恥ずかしい弁明に一瞬シン…と静まる、伝わったかな、私…やましい事も何もしてないの。だから、許して…。

「あんたみたいな牛みたいな胸してて処女な訳ないじゃん、ヤリマンクズ女」
「降魔処女なのマジ〜?大学生に抱かれてても違和感ねー」
「俺確かめたげよっか!?♡」
「ねぇ!最低!!キモい!!」

…すぐに後悔した。
倒れそうな程熱い顔、目の奥が痛い、耐える事も出来ずに涙が溢れてしまう。

「おいー、泣かせるなよカワイソー」
「泣いたら被害者になれると思ってんの!?お前が悪いんだろうが!」

もうここに居たくない、おかしくなってしまいそう。
震える足で教室から出ようと足を進める。

「色んな奴に犯されて死んじゃえば良いのに…!!生きてるだけで迷惑!!」

最後に、彼女にとっては正しく裏切り者の私に、しっかりと聞こえる大きな声で首を掴まれた。
教室から出てもその言葉が反復して、首が絞まって絞まって、私をじわじわと殺めていく縄のようだった。
この縄が私の首を絞めきってしまう前に家に帰りたくて、何もかもを持たずに学校を出て家へと向かう。

ふらふらと家にたどり着いて、自室に入ってお布団に体を埋める。
もう何もしたくない、何も考えたくない。

怖い。
手が、視線が、声が、言葉が…人が、怖い。
怖い、行きたくない、もう辛い。


グルグルと回っていた恐怖と強いショックから気がついたら気を失うように眠っていて、夜になっていた。

「ただいまー」

静かな暗い部屋の中、帰宅したら父の声で目が覚めると共に涙が溢れてきて、お父さんに負担をかけたくない、心配も迷惑もかけたくない、そんな事も考えられなくなって、自室から泣きじゃりながらお父さんに抱きつく

「お父さんっ、おとぉさん…ごめんなさい、ごめんなさぁい…!」
「莉々夢、どうした?お皿割っちゃったのか?お服破れちゃったのか?よしよし」
「もぉ、学校行きたくない!もういやぁ!」

取り乱した私を父は優しく背中をさすって宥めてくれて、暫く泣きじゃくって落ち着いてから学校で何があったのかを全て伝えた。

「ごめんね、莉々夢…莉々夢の苦しい事に気付いてあげられなくて。学校に行かなくても大丈夫なんだよ、大丈夫。」
「私、お父さんに心配かけたくなかったの、迷惑かけたくなかったの…だから、頑張りたかったの」
「そうか、そうか…でもね、お父さんは頑張りすぎて莉々夢がたくさん泣いちゃう方が心配だよ。お仕事してても、莉々夢はまた泣いてないかなぁって考えちゃう」
「……うん…」
「お父さんが学校にも連絡入れるから、莉々夢は安心してゆっくり生活しよう、たくさん頑張ったね」

お父さんは忙しいのに、迷惑かけてしまった。そんな罪悪感もあったけど…もう怯えなくて良い、お父さんは私の苦しい事を知ってくれて私を助けてくれた事がとても嬉しくて、安心出来た。

学校に行かない生活が始まって、朝はお父さんのお弁当を作って日中はお掃除をしたり、夕飯の準備をしたり。いつもよりも余裕を持って色んな事が出来ていく気がする。
ただ、趣味というものが無かった私には、余った時間をどう過ごせば良いのか分からなくて、ベランダから外を見つめて…外を歩く人を見つめていると、自分は何も出来ていないダメな人間な気がして。
少し自己嫌悪する、そんな日々だった。

「今日学校から連絡があったよ、莉々夢」

学校に行かなくなって、初めての週末。父からの報告に不安で眉が下がる、学校に来いと言われるんじゃないか…怖い…。

「先生がみんなからお話を聞いたんだって、お付き合いしてた2人は感情的になって大きく話しちゃったりしちゃって、莉々夢にごめんなさいって思ってるんだって。もう意地悪しないって言ってるから、また学校に来ませんか?って先生が言ってたよ」
「………う、ん」

学校に行ったら、私は何も出来てない人じゃなくなるのかな。でもみんなと会うの怖いな、教室に入ったらみんなが私を見る、きっとまた何かコソコソ話す、怖い、行きたくない…でもお父さんは私が学校に行った方が嬉しいかな…

「お父さんは、莉々夢が行きたいと思ってから行ったら良いと思ってるんだ。まだ1週間しか休んでないんだよ?まだまだお休みしても大丈夫だよ」
「…でも私、何も出来てない…お外で私より小さい子も、大人も…頑張ってる…なのに私、見てるだけ…」
「何も出来てないなんて、あはは…!莉々夢はせっかちさんだなぁ、莉々夢はこれから色んな事が出来るよ。頑張れる事を出来るようになるように、お休みするのが今出来る事じゃないかなぁ」

お父さんはいつも私の前では笑顔だけど、おかしそうに声を出して笑う姿は珍しくて目を見開いて驚いてしまう。
私、甘やかされすぎじゃないかな?大丈夫なのかな?不安…でも…でも、もう暫く…甘えても良いかな…。

そのまま結局私は学校に行こうとは思えなかった、中学2年生になっても学校には1日も行かなかった。
でも中学3年生になる少し前に、このままじゃダメ、やり直したい、と思った。
次はお父さんにちゃんとした下着を買ってもらって、高校生になってちゃんと3年間学校に通いたい。
少し大変になるけど、知り合いが少なそうな少し遠くの雪戸高校。最初はお父さんにいつも以上に迷惑をかけちゃうだろうけど、慣れてきたらアルバイトをして自分で定期も買って…。

その為には勉強をしないと、でもどうやったら良いのか…分からない。教科書を開いて自己流でやろうとしてみたけど、やっぱり難しかった。

「お父さん、あのね…私…少し遠いけど雪戸高校に、行きたいの…それで、なるべくお勉強も追いつきたかったんだけど…1人じゃ難しくて」
「…確かに雪戸高校なら、この地域の子は殆ど行かないかもしれないね。…そうかぁ、じゃあ家庭教師の人を見つけて頼んでみようか!」

何をするにも、お父さんに迷惑をかけてしまう事がとても悔しかった。
でも、いつかお父さんにお礼をするから、私がお父さんを楽にさせてあげるから、今だけ、許して下さい。

少ししてから大学院に通う男の人が家庭教師をしてくれる事に決まった、正直まだ男の人は怖かったから…お父さんがいる休日と、夜に来てもらう事が殆どになった。

「娘の莉々夢です。莉々夢、この人が家庭教師をしてくれるお兄さんだよ」
「は、初めまして…っ…」
「初めまして、莉々夢さん。民(たみ)です、よろしくお願いします」

初対面の時は怖くてガチガチだったけど、物腰が柔らかくて優しくて、日に日に心を開いていった。

「んっ、莉々夢さん…この公式がどうしても理解が甘いみたいだね」
「えっ、あ…うぅ…ごめんなさい」
「大丈夫。莉々夢さんは頑張り屋さんだからね、すぐに出来るようになるよ。やれば出来る子だって、僕もお父様もわかってるから」

ミスはちゃんと指摘されるけど、でもやれば出来る子だって、私なら出来るっていつも励ましてくれるのが嬉しくて…頑張ろうと思えた。
素敵な家庭教師のお兄さんを見つけてくれたお父さんにも感謝でいっぱい。
頑張って高校に行って、私がお父さんを支えるから…!

そして約1年間、勉強を教えてもらって受験の日を迎えた。
雪戸は何かと援助が整っていて、街の公認の学校は学力が低くても入学は出来る。だから入学出来ない事は無いに等しい、でも…ちゃんと合格したい。
これは、私がこの学校からやり直す覚悟の為の証明。

お父さんもお仕事だし、民さんも大学院の事があるから心細くて子供っぽいかも知れないけど幼い頃父に買ってもらったリボンで髪を結んだ。
1人で雪戸高校に行って、見知らぬ人達の中で夢中でペンを動かした。
知らない人達の中、友達や知り合いがいる人も多いみたい。合間の時間はとにかく深呼吸して、リボンの髪飾りをそっと触って自分を落ち着けた。

そして……

受験結果が届いた、お父さんと一緒に見たい気持ちもあったけど我慢出来なくて玄関に入るや否や開いて見る。
学力的に合格の場合は、合格。
学力的に不合格だけど入学が出来る場合は、入学許可。


「お父さん!結果届いた!…私、合格したの!」
「!、そうか、そうかぁ…!民お兄さんにも言わなきゃなぁ…!お父さんも、もうすぐ終わらせられるから…全部全部終わってやり直そうな、莉々夢」
「…うん!民さんに次来てくれた時に言わなきゃ…!」

父が帰宅するや否や、合格と書かれた紙を持って抱きつく。
中学1年生になって間もなく学校に行けなくなって、勉強も遅れていくばかりだった。
まだ少し遅れてるかもしれないけど…でも追いついてきてるって事だよね。
この1年、父もいつも以上に仕事を熱心にしているのは目に見えていた。
家庭教師を雇っていたからかと思っていたけど、母の元旦那さんの慰謝料を払い終える為だったんだ。

これからやり直すの、全部…全部!


そして合格通知から次の週…お給料の日、父は最後の慰謝料を返し終えたと連絡があった。
今晩は少しだけ高級なものでも食べようか、と2人で笑いながら話した。
そしていつも父が帰る時間より少し早く、

ブーーッブーーーッ

連絡用に持っていた少し古い機種の携帯が見知らぬ番号を映して震えている、変な電話だったらすぐに切ろう、と通話ボタンを押した。

「……はい」
「降魔莉々夢さん、ですね?お父様がお倒れになりました。今すぐ病院まで来られますか?」
「………す…すぐ…行きます…!」

突然の事で戸惑うばかりで、何が起こったのか分かってるけど分からなくて。
慌てて運ばれたと聞いた病院へと向かう。
病院の中は夜だからか人は少なく入院中の人達が食事を取ったり、リハビリに歩いたりしているようだった。

「お、お父さんは…!あ、あの、降魔莉々夢です!…父は大丈夫なんですか!」
「まだこんなにお若い娘さんが……」

泣き出しそうな私を見つめて、看護師さんは切なそうに呟いて眉を下げた。

まだ子供の私にはわからない事が多かったけど、長期間の過労とプレッシャーで脳出血が起こって命こそ助かってはいるものの、意識不明でいつ目が覚めるか分からない、そんな状態らしい。

どうしよう、私これからどうしたら良いの?
家庭の事を考慮してお父さんの処置を続ける医療費の多額を援助はしてもらえるみたいだけど、それでも働いた事もない子供の私が自分の生活費と、学校に通う為に必要な費用も賄って、どうやって払えるのかな…。

学校に行くのやめて、頑張って働いたら払えるのかな……民さん、明日には民さんが来る…教えて、民さん…助けて…。
お父さんが起きなかったらどうしよう…このまま1人になったら、どうしよう…。

次の日、いつものようにやってきた民さんに泣きながらしがみついて、昨日あった突然の出来事を話した。

「お父様、が…?…そうか…1人で一晩よく持ち堪えたね」
「私、合格出来たの…民さんのおかげっ、でも…学校には行けないかも…お父さんの治療、出来ないなんて絶対に嫌…。でも、働くってどこで…どうしたら良いかも私…分からないの…」
「……莉々夢ちゃん…大丈夫、僕が助けてあげるから」

せっかくお父さんが頑張ってくれたのに、せっかく民さんが教えてくれたのに…全部無駄になっちゃう、私が子供だから。私には何も出来ない…!そんな絶望の中、私を優しく抱きしめて頭を撫でてくれる。

「学校に通いながら、お金を稼ぐ方法知ってるから。莉々夢ちゃんなら絶対出来る事、いっそしないなんて勿体無い。これは才能を知るチャンスだよ。」
「本当…?私、どうしたら良い…?」

ドキ、ドキっと胸が高鳴る、民さんはいつも私を支えてくれる、優しくして導いてくれる、私…民さんの事……

「えっちな動画、配信したら良いんだよ」
「……え、っち…な?」
「自分でも自覚、あるでしょ?これから女子高生になる中学生?脱ぐだけで価値があるよ。しかも、体つきだけは中学生とは大きくかけ離れている…女子高生でも十分は価値はあるけど、中学生なら…もっとだ。」
「私、出来ない…そんな…そんなこと出来ません…!」

胸の心地よい高鳴りは、一瞬で騒がしく頭の中を揺らして恐怖へ陥れるものに変わっていった。
この人はそんな事しないって、そんな事求めないって思ってた。
後ずさって、その先には逃げ場がないとは分かりながらもリビングへと絡みそうな足で逃げ出す。
でも逃げ込んだリビングで、どうしたら良いのか分からなくて…立ち尽くす私をいつものように優しく、後ろから抱きしめる。

「莉々夢ちゃんは頑張り屋さんだから、大丈夫。ちゃんと出来るよ、頑張れる子だって僕も"お父さんも"知ってるよ?僕も、手伝うからね」

お父さん、お父さん…お父さん、お父さん…。
頑張らなきゃ、助けなきゃ…。

もう、これしか…ないんだから。

民さんに言われるまま、携帯の中に自分でも見た事のない自分を晒した。
何度も、何度も。
知らない間にりりむが見知らぬ人に見られて、知られていった。
諸々の手数料を込めて売上の2割を民さんに、残りは全て私に渡してくれた。

そして、初めて民さんから渡された金額は…多分お父さんのお給料よりも遥かに…多かった。

「分かったかな、自分の才能。使わないと勿体無いよ?みんな毎日撮影時間の何倍も何倍も働いて、この半分しか稼げてないんだ、でも君の体はこんなに稼げるんだよ」
「…でも、お父さん…私がこんな事してるって、知ったら…悲しむよ…」
「でも、こうしなかったらどうするの?もうお父さん、起きなくなって良いの?」
「……やだ、お父さんにまた会いたい…」
「うん、莉々夢ちゃんはお父さんの為にすごく頑張ってるよ、偉いね。莉々夢ちゃんは出来る事をやってるだけ、頑張り屋さんの莉々夢ちゃん、これからもちゃんと出来ますか?」
「………はい」
「…出来ます、か?」
「出来、ます…」


これしかない、これしかないの。
だから、頑張らなくちゃ…せめてお父さんの目が覚めるまで…

そうやって必死に奮い立てて、お父さんの治療費を払いながら高校へ通い始める事が出来た。
どんなに苦しくても、逃げたくても、辛くても、これは民さんのおかげだから。


________________


頑張って、頑張って、私に向けられた言葉が耳を通っても聞こえないフリして、耐えてた。
もう助けてくれる人なんていない、静かにしていれば…言葉が直接私を殺したりしないから。


「なぁ、このりりむって子ってやっぱり、降魔なの?」
「!…い…いやっ…」
「ちゃんと見ろって!そんな嫌がるって事はやっぱ降魔なんだろ。」
「ちが、違う…やめて…」
「じゃあ見せてみろって!!」


ブチブチブチッ!!!

私の何かがはち切れるようだった。
どうして、ちゃんとしてるのに、頑張ってるのに、静かにして、受け止めていたのに

私に何を求めているの?

もう、嫌…!!



階段を駆け上がって、屋上へと飛び出した。
日差しが強くて眩しくて、痛い。
高い場所から見た地面って、どうしてこんなにも体を吸い寄せるの?その高さが怖い時だって、怖くなくなっている今だって…私を吸い込む感覚がする。

「……お父さん…私…こんな体になったのに…意味、なかった…もう頑張れない…」

全てを終えるにはあまりに低い段差に足を乗せる。
出来ますか?出来ます、か…?莉々夢…

出来……ま…

「あっははぁ…アタシって意外と運が良いんだ、こんな所で良いのを見つけるなんて」

突然後ろから聞こえた女性の声に思わず勢いよく振り返った。
私と同じ桃色の髪、胸も多分同じくらい。
オフショルダーから胸は溢れそうで、タイトなミニスカートはこちらに近付こうと足が持ち上がる度に中が見えてしまいそうだった。

余裕そうな笑顔を浮かべてはいるものの、少し息が上がっていて、一歩進む度に重心が揺れて辛そうな様子も僅かに感じ取れた。

「…っ!だ、誰…ですか…」
「そりゃアンタのママよ、莉々夢♡」
「お、お母さん…?」

物心つく頃にはいなかった母、会った事すらない。でも…そうなんだろうな、と分かる。容姿が似ているのもあるけど、オーラ?って言うのかな…苦手な雰囲気の人なのに、柔らかく包まれているような感覚がする。

「今更何をしに来たんですか?お父さん、倒れちゃったんですよ!お母さんのせいでずっとお金を払って…!もうずっと入院してます!」
「アタシのせい?何の話…?」

余裕いっぱいな笑みから、きょとん、と驚いた表情に変わる、これは演技…?

「お母さんの前の旦那さんと離婚する前からお父さんと不倫してんだって!だから慰謝料を寄越せって!」
「…あはぁ、まず言っとくけど、アタシが結婚したのはあの人とだけだから。……にしても、そんなホラ吹きに金なんて渡さず逃げれば良かったのに、本当真面目ね。」
「私達を捨てておいて勝手な事言わないで!もう終わりなの…私、何も出来なかった…頑張れなかった…耐えられなかった…今更何?馬鹿だって愚かだって笑いに来たの?」
「……アタシがアタシじゃなければ離れなかったわよ。…ってゆーか、あの人も死んだ訳じゃないんでしょ?死ぬくらいなら家で待ってれば?もし目が覚めて娘すら居ないなんて……考えてみなさいよ。出来なかった〜耐えられなかった〜、たーたーで終わらせてるのはアンタじゃない。」

なんて勝手なの?欲望のまま生きて、父を裏切って…。お父さんがこのまま起きるかもわからないのに。
どんなに頑張っても踏ん張っても、無理なものは無理なの、自分の事しか考えてないこの人の言葉なんて正しくない!

「私…嫌だった、苦しかった!全部一からやり直したくて…頑張ったの、頑張ったのに…やっぱりダメだった……!」
「…だーかーらー、学校が苦しいんでしょ?なら、こんな所行かずに待ってれば良いじゃない、あの人が起きてから生き返るなんて出来ないんだから。意外と、明日になったら耐えられる何かがあるかも知れないじゃない?
ま、丁度良いわ、私もあの人に会いたいし…アンタの体、貸しなさいよ」

感情的に、衝動的に初対面の母と話した、溜まりに溜まった気持ちをぶつけた。
やっぱり苦手、他人を傷つけてもなんとも思ってなさそうな態度、なのに…軽薄そうな言動の節々には人の気持ちを考える余裕がない私にすら、父への愛が感じとれた。

ふらっと崩れ落ちそうな母が私にぎゅっと抱きつく。

「か、貸すって…何をするつもりなの?」
「心配しなくても、アンタの中で体を休めるだけ。淫魔のアタシの子、すぐ馴染むわ…あんたにこの力が吸収されて…あんたの体からいつか出れたら…アタシはあの人に……」

母は、淫魔だった?私は淫魔の子?お父さんはそんな話をしなかった、お父さんも知らなかった?
私の体の上でゆっくり脱力していく母の体、突然の事に困惑してしまう。

「ま、待ってお母さん…!私、淫魔…なの?みんなが私にえっちな事求めるのは…」
「アンタは今から淫魔の血を引く子、から…アタシの力を吸収してより強い淫魔の子になるのよ…アタシはそんなアンタの中で暫く休むだけ。これから…もっと色んな奴らがアンタに惹かれる…ロクでもない奴と割り切って遊ぶのはサイコー♡でも、惹かれてやってきた奴に本気になっちゃったら…あは、アンタも、大変になるわねぇ…。」

まるで子供が眠るように、眠たそうに小さくなっていく声、そんな声と一緒に消えていくように母の体も静かに消えた。
でも、死んじゃった訳じゃない、お腹に感じる不思議な熱さ……ここにいるんだ…母が。

私は淫魔の子…初めて知る自らの体の事、軽薄で…でも父を悲しませたくないと感じさせる言葉。
母と話す事で一先ず衝動が落ち着く、同時に少し冷静にもなれた。私が死んでしまう事と、学校に行かなくなってしまった事、どちらがお父さんにとって悲しい事になるか、父から愛を注がれ続けた私には考える必要は1秒もない。
学校に行かなくても民さんとの配信は続く、それでも…お父さんを助ける為だと思えば耐えられる、…耐えてみせる。
決めるのは全てが終わってからでも良い、明日の事も夜に考えたら良い、今は今日を乗り切ろう。

すごくいたたまれないけど、教室には戻らなくちゃ。
きっと沢山の視線も言葉も声もこの体に刺さる、でも一先ずは今日を耐え忍ぶのよ、私。

無理やり開けられた制服のファスナーを閉めようとするが、金具が歪んだのだろう全く動かない。買い替えるくらいならもう…退学してしまおうかな…、そんな事を考えながら胸元を腕で隠すようにして階段を降りて教室へ戻る。
視線は刺さる、でも聞こえた言葉は思ったより多くはない。
席について、俯いていた。ここに来るのは今日で終わっていい、耐えなくちゃ…これが最後、頑張るの。


「…これ、食う?」


「金は要らないからさ、服…


直してい?」

話しかけられるのはすごく怖かった、やっぱりもう帰りたい、そう思った矢先に予想外の言葉に目を見開いた。

「う、うん?」

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同意と勘違いした牛巻さんはすぐに自分の席から諸々の道具を持ってきて私の手を引いて、誰も居ない空き教室へと連れて行った。
制服を脱ぐように言われては少しまだ怖さはあったけど、牛巻さんは男の子みたいな女の子だから…きっと大丈夫だよね?そう考えて自分を落ち着ける。

私がセーラー服を脱げば、悩むように表情を歪めた後牛巻さんもセーラー服を脱いでインナーの黒いタンクトップ1枚になって、セーラー服を投げ渡してくれる。
いつも男の子みたいだけど、曝け出された肩やデコルテにやっぱり女の子なんだ、と意識させられる。

「あ、ありがとう…」

牛巻さんの制服を軽く肩にかけて羽織りながら、貰ったメロンパンを食べる。
なんだか、してもらってばかりだなぁ…。

私の制服を持って、牛巻さんは壊れたファスナーを手際よく外して道具の中から新しいファスナーを取り出した。

「ファスナー…持ってるなんて、凄いね、牛巻さん」
「…デザイナー見習いやってるから、あと…服作るの好きでちまちま色々持ってきてる」
「そ、っか…でも、次の授業間に合わないかも…」
「別に1回くらい授業サボって良いだろ」
「…そ、そうなのかな…?でもちゃんと頑張らなきゃ…」
「好きでもない事、頑張りすぎたら潰れね?サボりを正当化じゃねーけど、たまには良いじゃん?降魔が授業好きだったらゴメン」
「……そ、っか。ううん、好きな訳じゃ、ないよ」

程よく力が抜けていて、でも力を入れる時には全力でそんな牛巻さんがカッコ良くて、素敵だなぁ、なんて思った。
その後授業の時間を殆ど使って牛巻さんは制服を直してくれた。基本は縫う事に集中していたけど、時々お話もしてくれた。

「牛巻さん、ありがとう…こんな私の為に」
「ん。…てか……、いや…んー…じゃ、また」

2人で教室に戻って別れ際に何か言おうとして、でもやっぱり何か悩んだような顔をした後小さく手を振ってそれぞれの席に戻っていく。

牛巻さんのおかげで、今日を乗り切ることが出来そう。最後に優しくしてもらえて良かったな…

無事に放課後がやってきて、漸く帰れる。
安堵で涙が出てしまいそう、牛巻さんにお礼をする機会はあるかな…卒業式とかだけでも…

「降魔、…家…どっち?一緒に、帰る?」
「…え?」

気がついたら机の目の前に牛巻さんがいて、突然の誘いに目を見開いた。

「えっと…あっち…でも少し遠いの…」
「あ、あのさぁ…送ってくからさ…俺、一人暮らしで…家、来て欲しい」
「お、お家…!?」
「へ、変な事しない!見たらゴメン!でもしない!ただ、気になる事がありまして…」

お昼休みに一度話しただけのクラスメイト、それだけの関係なのに家に呼ばれてはまた驚かされてしまう。
変な事って、牛巻さんは女の子だから大丈夫なのに。

「うん、なら…お邪魔します」
「っしゃ!」
「ふふっ、じゃ…ご案内お願いします」

嬉しそうに腕を勢いよく振った牛巻さんを見ては思わず笑ってしまう。
男の子みたいだけど、女の子だからかな?なんだか…落ち着いてお話出来る。

牛巻さんがいるなら、もう少しだけ…学校に行っても良いかな、なんて思い始めていた。


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