狐と鬼


「君、噂の鳥居紅花ちゃんやろ?」

うだるような暑さの夏の事だ。
冷たい飲み物を、と自販機までやってきた紅花は見慣れぬ和装の男に声をかけられた。
耳にいくつも空いたピアスに金髪、五条とはまた違うタイプの美形である。間違いなく東京校の人ではない。外部の客人だとしても自分に一体何の用なのか──紅花は内心首を傾げる。

「えっと、何かご用ですか…?」
「んー?用なんかあらへんよ。一度見てやろ思うただけや」

「呪霊の分際で呪術師を名乗る身の程知らずがどんな奴か気になってん」
「──はぁ?」

ワントーン低くなった紅花の声に、直哉は口角を意地悪く吊り上げた。敵意を剥き出しにして睨み上げてくる、紅花を更に煽る。

「だってそうやろ?君、要するに人の形しとるだけの呪霊やん。祓われる側の存在が分不相応にも呪術師名乗るなんて虫唾が走るわ」

初対面のくせに失礼すぎやしないだろうかこの男。いっそ清々しいまでの嘲りに、立腹を通り越して呆れを感じた。

「というか、誰ですか…?」
「禪院直哉。禪院家の次期当主や」

御三家がひとつ、禪院家。あの呪術師殺し・伏黒甚爾の実家だ。甚爾も相当に嫌いだが、それとはまた別種の嫌悪感を抱かせる直哉に、紅花は自分は禪院の人と相性が悪いな、と内心ごちた。

「そもそも、私が呪術師かどうかはあなたが決めることじゃないですよね」

物怖じせずまっすぐと目を見てド正論で言い返してくる女の態度が、直哉の勘に触った。
禪院家は男尊女卑のきらいがある。そこで産まれ育った直哉もまたその考えに染まっており、<女は男の3歩後ろを歩くもの>というのが彼の口癖であった。男の後ろを歩き、男のやる事に口を出さない、口答えなど以ての外だ。
しかし、そんな事は一般家庭で育った紅花には関係ない。同じ御三家である五条からはそんな話は聞いたこともないし、ましてや強要されたこともない。御三家だからという理由で下手に出てやるつもりも紅花にはないのだ。もう一度言う、紅花は一般家庭の出だ。

「どんな奴かと思うたけど、想像以上にウザいなぁ、お前。女が一丁前に意見してんなや」
「一昔前の考えですよ。今は男女平等の時代です。ていうか、先に嫌なこと言ったのそっちでしょう?」

紅花は案外気が強い。自分が人に噛みつくことはないが、噛みつかれたら応戦する、というのが彼女のスタイルである。

「ウザいなら話しかけないでください。私もできればもう二度と話したくないです」

この人嫌いだ。さっさと退散しようと紅花が踵を返す。その背後で、直哉の口角が吊り上がった。まるで、いい事思いついたと言わんばかりに。

「夏油傑君、やったっけ?」

ぴたり。紅花の足が止まる。

「何が言いたいんですか」

低い、低い、声だった。
ようやく冷静さを欠いた声が聞けた。狐目をいやらしく細め、直哉は更に紅花を煽る。

「"呪術は非術師のためにある"なんてもっともらしいこと語っといて、結局非術師皆殺しにして逃げた夏油君や。憧れなんやろ?」
「だったら何だって言うんですか」
「憧れの人が、自分ら裏切って逃げたその気持ち──俺にも聞かせてや」

ドゴォン──!
校舎全体が揺れるほどの爆発と鳴り響くアラートに五条と家入は驚き、音の方へと走った。
もくもくと上る土煙から二つの影が飛び出す。紅花と直哉である。
傍目からは、紅花が一方的に直哉を攻撃しているように見えるが、紅花が理由なくそんな事をする人間でないことを彼らはよく知っている。逆に直哉はあまり多く関わったことは無いが、五条から見てもいけ好かない性格をしていた──もっと直接的な言い方をするなら性格が悪い。自分の事を棚上げなのはご愛嬌だ。
大方、直哉が何らかの方法で紅花をキレさせ、彼女が手を出したのだろうと五条は推測した。
それはさておき、この事態を止めなくては敷地内が穴だらけになってしまう。何より、直哉が本気になれば紅花がただでは済まない。
五条は間に割って入る。

「お前ら、何してんの」

紅花と直哉、互いが互いを狙った攻撃は間に入った五条の無限に阻まれた。呆れ半分の五条は、直哉を見ない。五条の登場で、少し冷静になった紅花は訓練用の薙刀を下ろした。

「さとる、」
──傑が馬鹿にされた。悔しい、悔しい!

「何も知らないくせに!」直哉に襲いかかった時、紅花はそう叫んでいた。夏油がどれほど悩みあの答えを出したのか、それを知らない人間が易々と裏切ったと彼を語る事が許せない。何より、自分を嘲るために傑まで馬鹿にされたことが、悔しかった。
うる、と膜の張る紅花の瞳に五条はその海より空より蒼い双眸を見開かせた。ギロリと、そこで初めて背後の直哉を振り返る。

「お前、こいつに何した」
「なぁーんも。寧ろ俺が襲われてた側やて。悟くん何見てたん?」
「ふざけんな、紅花が理由もなくこんな事する奴じゃねえってのは俺ら全員が知ってる。下手な嘘こいてないでさっさと言えよ」

返答次第ではただではおかない。額に青筋を浮かべ、指をバキバキと鳴らす五条の頭には完全に血が上っていた。
想像以上の怒り具合を見せる五条の様子に流石に危機感を感じたのか、どうかは分からないが直哉は両手を上げて降参のポーズを取る。

「はぁ、やめやめ。にしても、悟くんが紅花ちゃんにご執心、てのは本当やったんやなぁ」
「だったらなんだよ」
「その呪霊女のどこがええんかと思うただけや?」

向けられる怒りをものともせず、いけしゃあしゃあと訊ねてくる直哉に、五条は嘲笑を含んで言い切る。

「紅花の良さがお前に分かるわけ無いだろ」
「あ"?」

そこまで一度も胡散臭い笑みを崩さなかった直哉の顔から、笑顔が消えた。五条はしてやったり顔で、顎を突き出して直哉を見下ろす。その背には紅花が庇われており、五条の腕の脇から直哉を恨めしそうに睨みつけていた。

「もうええ──時間の無駄や」

何やただのバカップルか。呪霊女の良さなぞ知りたくもない。興ざめだ。
盛大な舌打ちを一度して、直哉は踵を返した。突然来て引っ掻き回すだけ引っ掻き回して去っていた来訪者の背中に、紅花は五条と共に中指を立てたのだった。

この後、校舎を壊した事を夜蛾にこっぴどく叱られ、罰として境内の掃除一週間を命じられたのは余談とさせていただく。

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