玉折・交喙の嘴


傑が変わったとそう言った人は、彼の事を何も理解していない。
傑は変わったのではない、選んだだけだ。答えの出なかった問題で、答えを見つけただけだ。

「傑」
「や、悪いねこんな所に呼び出して…単刀直入に言うよ──紅花、私と一緒に来ないか?」

私に笑いかける傑の笑顔は以前と何も変わらない。私達が青春を共にした彼のままだ。
それが悲しくて、同時に嬉しくもある。でもその裏で弱い私はこうも思う。変わらないのなら、全てが変わらないままでいて欲しかった。それが無理ならいっその事、丸ごと変わってしまえば良かったのに、と。


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2007年 9月
■■県■■市(旧■■村)

任務概要
村落内での神隠し・変死。
その原因と思われる呪霊の祓除の為に、
高専3年、夏油傑を派遣。

・夏油傑派遣から5日後、
旧■■村の住人112名の死亡を確認。
・全て呪霊による被害かと思われたが、
残穢から夏油傑の呪霊操術と断定。
・夏油傑は逃走、未だ行方不明。
<呪術規定9条>に基づき、呪詛師として処刑対象とする。
(以上、報告書一部抜粋)


「は?」
「夜蛾先生…今、なんて、」

灰原の荼毘も滞りなく終わり、喪失を抱えながらもやはり日々は巡る。
あれ以来、五条に謝りたいと思いつつも中々直接会う機会に恵まれず、性懲りもなく自分を虐め抜く日々を送る中で、その事件はあの星漿体のそれよりも大きな衝撃を彼らに与えた。
喧嘩してから約ひと月の間、一度も見ることのなかった五条の姿に緊張する暇すらなく、与えられた情報を理解しようと脳に血を巡らす。

「何度も言わせるな。傑が集落の人間を皆殺しにし、姿を眩ませた」
「聞こえてますよ。だから"は?"つったんだ」
「傑が、100人以上を皆殺しって…!」

「傑の実家はもぬけの殻だった。ただ、血痕と残穢からおそらく両親も手にかけている」
「そんなわけねぇだろ!!」
「悟、…俺も、何が何だか分からんのだ」

そこまで努めて冷静に淡々と、事実だけを述べていた夜蛾が初めて頭を抱えた。五条と夜蛾が動揺する中、この場で一番取り乱してもおかしくない筈の紅花だけが沈黙を貫いている。

──嘘だ。傑が罪もない人間を皆殺しだなんて。あの傑が…<呪術と呪術師は非術師の為にある>。だって、それを私に教えてくれたのは傑だ。大体、そんな素振りはどこにも…。

──紅花は?非術師をまだ護りたい?

「っぁ…!」

否、兆しはあった。あの時、夏油は紅花にSOSを出していた。自分の事で精一杯で、それを見て見ぬふりしたのは、紅花だ。あの時、夏油がいつもそうしてくれるように、今度は紅花が何か言葉をあげられていたなら、こんな事にはならなかったかもしれないのに。

「ッ紅花!何処に行く!」

紅花は引き止める夜蛾の声を無視してその場から逃げ出した。五条は──追いかけては来なかった。

日本人口の11%がひしめく大都会東京でたった一人を探すなど不可能だ。そもそも彼が都内にいるとも限らない。それでも紅花は逃げた先で夏油を探し、走った。彼と一緒に遊んだ場所、彼が居そうな所を手当たり次第に探す。
既に夏油は呪詛師と認定された。今更彼を探して言葉をかけたとして、それが覆ることはないというのに。愚かにも紅花は走る。
紅花は夏油と同じものを目指し、同じ苦悩を抱えていた。夏油に何か言ってあげられるとしたら、それは紅花だ。それが自分で分かるからこそ、紅花は彼に会わねばならない。何故なら、彼女もまた答えの見つからない問題の中に居るから。彼女自身がそれを見つけるためにも、紅花は夏油と会わねばならないのだ。

当然夏油が見つかるはずもなく、陽の光から人口の明かりに切り替わり、そこから更に夜も更けた22時。紅花の携帯が鳴った。

「もしもし。紅花今どこ?」
「……新宿、」
「はぁ〜、待ってな迎えに行くから」

電話の相手は家入だった。出ていったきり、今の今まで夏油を探し回っていた級友に呆れつつも、彼女は紅花を迎えに来てくれた。
「しょうこ、」──傑、何処にもいないよ、口に出そうとして、きゅっと口を噤んだ。紅花が何を言いかけたのか、鋭く察した家入が火のついていない煙草を咥えたまま、わしわしと紅花の頭を撫でた。

「帰ろう」

紅花を迎えに来たときのタクシーを待たせてあったらしく、それに乗り高専へと戻る。帰り道の車内で、家入は一言も口をきかなかった。かわりに、紅花の冷えた手を握った。その手の温かさに紅花は泣きたくなったと同時に、離反する前に夏油と交わした言葉を、益々言えなくなった。
高専に着いてからも寮まで手を引かれ、そこで漸く離される。「ひっどい顔。ほら寝た寝た」そこで初めて家入がケラケラと笑い、紅花の背を押した。
夏油があんな事になったというのに、至って普通通りの家入が、紅花は不思議で仕方ない。もちろんそれを責めるつもりではないし、表に出ないだけで家入も何かしら思っているだろう。だが生憎、今の紅花にそれを確かめる元気はない。「ちゃんと寝ろよ」、釘を刺して先に戻っていく家入を、その姿が完全に闇に溶け込むまでその場で見送った。そうして、一人になったあと、紅花はつま先を自室とは違う方に向ける。

──ごめん硝子。これで最後だから。

聞かせるでもない謝罪を、心中で零し、紅花は男子寮、夏油の自室へと歩いた。

[title by 溺れる覚悟]
<補足>交喙の嘴=いすかのはし

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