玉折・分からないだらけ


五条と初めて言っていい喧嘩をしたその翌日、夜蛾から告げられたその知らせに、紅花はどうか悪い冗談であれ、と真っ先に彼等がいるであろう場所に向かった。灰原が殉職した。七海は命こそあったものの重傷を負った。
転がり込むように霊安室に飛び込む。霊安室には既に夏油がおり、後ろの丸椅子では七海が力なく天井を仰いでいた。七海の表情は目元にかけられた布で見えないが、きっと泣いているか、泣くのを堪えているのだと紅花は感じた。

「傑…!」
「紅花も聞いたのか」
「うん、さっき…雄、君は…?」

震える声で紅花が訊ねた。
目の前の布のかかった寝台に誰が寝ているかなんて、聞かずとも分かる事をそれでも聞かずにはいられなかった。夏油がゆっくりと布を捲る。血と土がこびり付いた傷だらけの青白い顔、それは間違いなく灰原だった。決して疑っていた訳ではないのに、直接見るまではどうしても信じられなかったのだ。
最初の調査で設定された等級より難易度が上がることは珍しい話ではない。だが、二級から一級となるとその難易度は段違いだ。それを一人で相手取れる五条、夏油、紅花が特別なのであって、普通ならとても学生二人の手に負える代物ではない。
紅花は足元から崩れ落ちた。夏油は捲った布を戻し、紅花が立ち上がるために手を貸す。

「今はとにかく休め、七海。任務は悟が引き継いだ」

五条の名前に一瞬肩を震わせた紅花を夏油は見逃さなかった。

「もうあの人一人で良くないですか?」

この時の七海の発言を責めることは誰にも出来ない。それはきっと誰もが心のどこかで思っていたことだ。
「そんなことない、」と言いたいのにそれは音にはならない。今更どの口が言うのだろうか。昨日自分が言ったんだろう、「守れないものなんて無いんでしょう」と。紅花は、静かに涙を零しながら自嘲めいた笑みを浮かべた。
夏油は七海の問いかけに答えなかった。

霊安室を出て、夏油と紅花はベンチへと座る。道中の自販機で購入したジュースを夏油が差し出した。

「はい」
「ありがと、」

紅花はそれを受け取り、泣いた事で熱を持った目元に押し当てた。喋らない紅花に夏油が問いかける。

「紅花はまだ非術師を護りたいと思うかい?」

心臓が嫌な音を立てた。「ぇ…?」掠れた声で聞き返す。「昨日、九十九由基に会ったよ」──紅花が何故と訊ねる前に、夏油は淡々とその内容を語った。

星漿体の一件から、夏油の中でも非術師の存在が揺らいでいること。九十九の言う"原因療法"。非術師が呪術に適応することで、理論上は実現可能な<呪霊のいない世界>。
それらを聞いて、夏油の口をついて出た"非術師を皆殺しにすればいい"という言葉。一見、荒唐無稽に思えるその方法は、九十九に言わせれば"有り"。寧ろ彼女が思う、<全ての非術師に負の感情をコントロールしてもらう>という方法よりも、余程現実的で簡単だと言える、とも。

「傑は、非術師を皆殺しにしたいの?」

九十九は紅花を上へと引き上げてくれた恩人だ。付き合いは少ないながらも、紅花は彼女の事が人として好きであるし、尊敬もしている。だが、夏油の口からそんな言葉を出させた彼女を、今回ばかりは恨めしく思う他なかった。
湧いた疑問をそのまま彼にぶつけて、すぐに聞かなければよかったと後悔した。もし是と返ってきたら、自分はどうすればいいのだろう、彼を危険人物として差し出さなければいけなくなるのか。そんなもしもを想像して、ゾッとした。
結果、「分からない」と答えた夏油に、紅花はバクバクといつもより早い心臓をようやく落ち着かせた。今度は夏油が問う。

「紅花は?非術師をまだ護りたい?」
「…それが術師としての"在るべき姿"でしょ、」

紅花は膝の上で汗をかくペットボトルをぎゅ、と握る。
非術師のために、呪術師である事。それは、人になりきれない紅花の存在理由にも等しかった。そこが揺らげば自分には何も無いことを、紅花は理解していた。だからこそ、"そう在るべき"と言い聞かせていたのだ。揺らいだ時点で、もうそんなものに意味はないというのに、紅花は今も無様にそれに縋っている。

「それは正論だよ。紅花はどう思うんだ?」

その正論を紅花に説いた張本人だというのに、まさかそんな言葉を彼から聞くことになるとは。たった一年で何もかも変わってしまったことを、こんな所でも思い知らされた気がした。

「…強くなって護らなきゃとは、思うよ」

バツが悪そうな紅花の返答。彼女自身、この答えにしっくりきていないのが見て取れた。「誰を?何を?」夏油が重ねて問う。

「………」

紅花はだんまりを決め込んだ。それでも夏油には十分だった。夏油の「非術師を護りたい?」という問いに対して、紅花は「護らなきゃ」とは言ったが「護りたい」とは言わなかった。それが、答えだ。
ペットボトルの中身を飲み干した夏油が立ち上がる。

「この話はここまでにしよう。ところで、一人で思い詰めるのは紅花の悪い癖だよ。悟とケンカしただろ?」
「あは、は…ほんと傑は何でも分かっちゃうね…」

ぽすりと夏油の手のひらが紅花の頭に乗った。頭頂部を撫でる五条とはまた違う感触の大きな手に、紅花は彼に見られないように顔を伏せる。夏油の手のひらが温かいせいだろうか、紅血の瞳に涙の膜が張った。

「すごく酷いこと言ったの…本当にすごく、」

他より何倍も疲れているはずなのに、五条は一番に紅花を気遣ってくれていた。それを心ない言葉で跳ね除けたのは紅花だ。五条はきっと呆れただろう。面倒くさい女だと思っただろう。きっと、嫌いになっただろう。
重力に従って落ちる涙を拭いもせず、紅花はひたすらにしゃくり上げた。

「嫌われちゃったかも…」
「そのくらいじゃ悟は紅花の事嫌いになったりしないさ。案外、向こうも後悔してるかもよ」
「ほんとかなぁ、」

少しでも紅花の心を軽くしようとしてくれているのだろう、軽い調子でフォローを入れてくれる夏油に、紅花は無理やり笑った。夏油が、また紅花の頭を一撫でする。

「大丈夫だよ。悟は紅花のことが大好きだから──紅花だってそうだろ?」

夏油の言葉は水のようだ。いつでも、どんな言葉でも、紅花の中にするりと入ってくる──今だって。夏油はいつも、紅花が一番欲しい言葉をくれるのだ。

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