玉折・名残の底で息づくように


──あぁ、そうか。ここは…。

悟の部屋だ。
紅花が目を覚まして最初に見たのは、横向きになった世界と、剥ぎ取られそのまま捨て置かれた自分の服だった。
適当なところで意識を飛ばしたが、経緯からどのタイミングで気を失ったのかまで、紅花はちゃんと覚えている。床でそのまま致していたし、固いフローリングからベッドに移してくれたのも間違いなく五条。そんな優しさを見せるくらいなら、いっそ捨て置いてくれた方が嫌いにもなれるというのに──五条はどういうつもりで紅花を抱いたのだろう。
時計が示す時刻は夜中の2時半、一般的に丑三つ時とも言われる時間。そんなに長いこと気を失っていた訳では無いらしい。紅花はそっと上体を起こした。

「ぅ、」

数時間前の破瓜の痛みが、下腹部に響いている。一糸纏わぬ身体と、じくじくと痛むそこが、あれが現実だと彼女に教えていた。
背中から紅花を抱き込んでいた五条は、未だ深い眠りの中にいる。そのさらさらな白髪に触れても目を覚ます気配は無い。
やめてと泣く紅花を抑えつけて行われた最低な行為だというのに、紅花の心は怒ってはいなかった。それもこれも、五条の表情が彼女よりもよっぽど傷付いていたからだろう。

紅花はそっとベッドから抜け出そうと立ち上がった。
正直かなり辛いが、歩けないほどではない。足腰の痛みに耐えながらよたよたと歩く、紅花の太腿を、白濁が伝った。それに驚いた紅花が反射的に秘部を手のひらで抑えた。自分の中から流れ出るそれが、五条に注ぎ込まれたものだと瞬時に思い至り、さぁっと血の気が引いた。

──そういえば避妊、してない…!

恐らく、五条に悪意はない。既成事実を作ってやろうという思惑もない。彼は紅花を引き留めようと必死で、避妊にまで気がいかなかっただけだ。
これは、アフターピルを飲まないと。家入、はダメだ。持ってるかもしれないが、流石に理由も聞かずにはくれないだろう、紅花に話す自信はない。どこか産婦人科に行くしかない。
産婦人科を検索しようと、転がった携帯を拾い上げる。ディスプレイで点滅する<受信メール 1件>の文字に紅花は、受信ボックスを開く。大方、部屋にいない紅花に気付いた家入のお叱りメールだろう、と。

「っ……!」
<●●県●●市、●●中学校で待ってる>

差出人の名前はない。よくあるフリーのアドレスから送られてきたいたそれが、誰からのメールなのか紅花にはすぐ分かった。
紅花の事を知っていて、足を残さぬようにフリーのアドレスを使う人物。そんなの一人しかいないではないか──否、そんな根拠がなくとも、メールの送り主が間違いなく夏油だと言いきれるだけの材料が短い文章の中にある。紅花にだけ分かる、材料が。メールに記された中学校、そこは夏油と行った任務先のひとつ、呪物化した少女の亡骸を砕いたあの中学校だ。

呪術師としての紅花が生まれた、場所だ。


/


ようやく空も白み始めた明け方、五条の意識が浮上した。腕の中に抱き込んだ存在を、離さぬように力を込めようとして、そこに誰もいない事に気付くと、頭で理解するよりも早く五条は跳ね起きた。目覚めた五条の隣に、紅花の姿はなかった。
五条はそれが彼女の答えなのだろう、と項垂れた。自分では、紅花を引き止めるには足りなかった、と。

──もう戦えないなら、術師なんてやめれば良かっただろ。術師だろうが、呪いだろうが、傍に居てくれればそれで良かったのに。
「なんで、居なくなんだよ…」

孤独な呟きが静寂に落ちた。

天内がいなくなった時も灰原がいなくなった時もそうだったように、誰がいなくなろうと、どんな喪失を抱えようと、時間は止まらない。紅花を失った朝も、それは変わらなかった。そんな日にも、五条は立たねばならないのだ。
夜蛾には紅花までもが高専を去ったかもしれないとは言えていない。例え可能性の話でも、確定では無いことを軽率に口走れば彼女がどうなるか分からない──と、そんな真っ当な理由を自分に言い聞かせてはみたが、結局彼女の裏切りを信じたくないが故の行動だということは、五条本人が一番よく分かっていた。

夏油と紅花の不在により手の回らなくなった任務を、現着してすぐに終わらせた五条は、廃ビルを後にしながらかかってきた家入からの電話を取った。

「あ、もしもし五条?夏油いたよ。新宿」
「は?新宿のどこ!すぐ行くから引き止めとけ!」
「ヤダよ、殺されたくないもん」

それだけ言って切られる電話に五条は舌打ちした。幸い新宿ならさほど遠くない。走れば間に合う。
走って走って、人混みの向こう。前から歩いてくる頭一つ飛び出た長身に五条はその足を止めた。

「説明しろ、傑」

互いの物理的距離がそのまま心の距離であるように、交わす互いの問答は噛み合わない。夏油の思想を無駄だと一蹴する五条に、夏油は「傲慢だな」と返した。

「君にならできるだろ、悟」

五条はこれを否定できなかった。それは紛れもない真実だったからだ。もう何を言おうと夏油の心は変わらないのだと、五条は思い知る。その場を去ろうと、五条に背を向けた夏油が「あぁ、そうだ、」と軽い調子で再び五条と向き合った。

「紅花を一緒に来ないか誘ったよ──彼女、なんて答えたと思う?」
「お前らの考えてる事なんて、知るかよ」

紅花の名が出た途端、今までよりも数段分かりやすく肩をビクつかせた五条が少し面白くて、夏油は勿体つける。それに嫌味で返した五条に、苦笑して語りだした。まるで最後のお節介だとでも言うように。
そうして全てを聞き終わったあと、五条の蒼穹の瞳が驚きに見開かれているのに満足した夏油は、今度こそ、その足を踏み出した。

「彼女らしいよ、全く」

最後にそう呟いた声は、どこか嬉しそうだった。歩き去って行く夏油を、五条は殺すことも追うことも出来ず、ただ見送った。

[title by 失青]

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