創作小説 *生活

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 カビの生えたいちごショートケーキを、うっとりと眺めていた。シンク横の調理台に置かれたままの、皿にちょんと乗せられた、一口も手を付けられていないケーキを真上から観察していた。
 ケーキ自体の、毎日の変化はごくささやかなものだ。まず数日でクリームの艶が失われ、断面のスポンジ部分が乾燥してささくれだしてくる。主役ですよと主張していたいちごは、日を追うごとに色がくすんで黒ずんでくる。黒いなと感じながらも放っておくと、いちごの表面は湿気を帯び白みはじめ、鼻を近づけると、すえた臭いが微かに香ってくるようになる。ここまでくれば、カビが生えるまでもう一息だ。
 いったいどんな色で、どんなふうにカビが広がっていくんだろうと想像を巡らせることは、カビを育てるときの醍醐味ともいえる。このように刻々と繰り広げられる「腐る」という事象に対する神秘が、私を惹き付けてやまない。
 手にしていた一眼レフのカメラを、ケーキに向けてかまえた。
 昨日はいちごの下に広がってきたクリーム上の黒ずみを強調した構図にしてみたけれど、どうしたもんかと考える。いちごの大部分はふわっとした青かびに覆われていたから、そこが今回の主役のようにも思えた。私は逡巡したままに、取りあえずファインダーごしにケーキと向かい合った。
 ――ねえ、今日はどう撮ってほしいの?
 腰を低く落とし、ケーキと目線を同じにして、胸のなかで問うてみる。ケーキは何も答えない。何も訴えてこない。
 ――ああ、この場所じゃないのか。
 ファインダーから顔を離し、私は歩きはじめた。どの角度で、どの距離で撮ってやろうかと思案しながら、視線は被写体のショートケーキを注視したままに。

 カビの生える食材であれば、私の好奇心はおおいに刺激された。食べかけのゼリーに、使いさしのブルーベリージャム、口を開けたホールトマトの缶に、閉じ込めたまんまの炊飯器の黄色いご飯、育ち過ぎた玉ねぎやじゃがいも、ネットにぎゅうぎゅうに密集したみかんなどなど……。冷蔵庫や炊飯器、野菜ストックのかごなどを覗けばこれまでじっくり育て、見守ってきたカビの生えたものたちを眺めることができた。
 私の趣味は特殊だと心得ている。世間からは疎まれ、嫌厭され排除される一方のカビを、愛で、いたる所で飼っているというのは。
 かくいう私も初めからカビを好んでいた訳ではなかった。いちごショートケーキは食べるためにあったし、炊飯器だってこうしてカチコチのご飯をしまい込むような場所ではなかった。でも、あるきっかけを境にして、腐りゆく食べ物たちに心を開きはじめるようになり、いつしか共鳴を覚え執心するようになっていった。

 写真を撮り終えた私は冷蔵庫の野菜室を開き、引き出しトレイにストックしてあったフリーザーバッグを取り出した。フリーザーバッグには野菜を適当に切ってミックスしたものを入れてある。野菜の赤やだいだいのうえにはまだらに黒が浮いていて、丁度いいカビ具合だった。それらを小皿に乗せ、同居者のほうへ向かった。
 ケージ横に鎮座する袋からひまわりの種を出して、ざりざりと小皿のはしに盛った。この種ももちろん正常ではない。殻の周囲がうっすら白くなっており、ちゃんとカビている。
 私は掃除などろくにしていないケージの入り口を開いた。振動で目覚めたジャンガリアンハムスターが、眩しそうにしながら目を開き、鼻をひくつかせ髭をゆらした。こちらに歩み寄ってきた彼を、そっと掬い上げる。手のひらに大事に乗せ、毛並みがすっかり乱れた彼を柔らかい手つきで撫でた。手のうえでちょこまかと彼に動かれるたび、くすぐったくなる。
「あんたの好きな、人参もってきたよ」
 目の前に半月形の薄切りを差し出すと、一瞬彼は静止する。ほんとうに食べていいんだろうか、と迷っているかのようだ。彼は顔を人参に近づけ、においをしきりに確認してみせる。用心深い奴め、いつも食べてる餌なのに……とじれったく感じていると、人参はいつの間にか奪われていた。
「やっぱ、好きやんか……」私は顔をほころばせていた。
 カビていようが腐っていようが食べられるものは何でも食べる彼に、動物にそなわる生命力の凄さを感じずにはいられない。ハムスターも元をたどればネズミだし、か弱そうにみえて案外しぶとい生き物なのかもしれない。
 次にやろうとするひまわりの種を指で摘まんだ。彼は無心で人参を齧っていた。

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