創作小説 *生活

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 読了したコミックを机に積みあげながら、茉希まきの背に目をやった。そのままの流れでキャンバスのほうへ視線をやると、下絵部分は縁取りでおおかた隠れていて着色はだいぶ進んでいるみたいだった。今回友人から貸してもらった少女漫画は、いまいち趣味に合わなかったなと君子は思った。なのに、紙袋にはコミックの続きがまだ四冊も入っていて、これらを全て読み切るのは大変だろうなと感じていた。
「あんたもがんばるね、尊敬するわ」
 鈍い痛みがはしる骨盤の底をもぞもぞと動かし、茉希に声を投げた。
 だだっ広い絵画用に開放した教室には、夏休みというのに茉希の他にざっとみて七、八人くらいの生徒がイーゼルを立ててコンクール用の絵を描いていた。茉希はそっけなく、みんながんばってるから、と答え平筆でキャンバスにレモンイエローをのばす。君子の「そうかもやけど」に不服げなものが混じった。
「なあ。自販機でもいこうか思うんやけどさ。茉希のもついでに買ってこよか?」
 茉希は短く呻ったのち、筆を手にしたまま上半身だけ振り返る。
「うち、いちごミルク好きっ。でも自分で買うから大丈夫やからね。一緒に行こうよ。もう、目しぱしぱしてさ……」
 間延びした気だるい声に、はいはいと返事をし携帯を手に取る。画面は十六時手前を表示していた。
 財布をポケットに入れ、他の生徒の邪魔にならないように教室を抜け出る。自販機は校舎の外で、東門近くの購買のほうまで足を運ばないといけない。君子たちは校舎の階段をひたすらくだっていった。
「暑いなぁ……、こんな暑かったら絵具とか分離せんの」
 ひたいに汗がにじむのを感じながら、君子はなんとなしに疑問を投げる。
「今使ってるアクリルって案外暑くてももつから、大丈夫かなぁ。ほとんどお姉ちゃんの絵具のおさがりやけど大丈夫なくらいやし」
「何歳離れてたっけ」
「十一歳」
「え、まじ。それいまだに使えるって化石化レベルやんか」
「絵具ってそもそも使用期限特にないみたいやから、保管がちゃんとしてれば長くもつんちゃうかな。アクリルで二十年経ってももったっていう話聞いたことあるし」
「へえ、よう知っとんやね」
「どうでもいい雑学やけどね」
 茉希は涼しい顔をしていて、本当にどうでもいいという風だった。

 ぐらぐらと熱せられたコンクリートに佇む自販機に着く。暗黙の了解で二人は複数ある自販機のうち、一番左の自販機の前で足を止めた。
「あとどんくらいで完成しそうなん?」
 いちごミルクのボタンを宣言どおり押す茉希に問う。カップ式の自販機が、唸りはじめていた。
「さあどうやろね。一応締め切りまで十日くらいあるけど。多分それまで、ほぼ毎日学校通うことになるんちゃうかな」
「こんな暑いのに?」
「家おったら集中力途切れそうやしなぁ。仕方ないかな」
 茉希は注がれるいちごミルクを注視して、今か今かと待ちかまえている。
「あんたの科ってだいぶブラックなんやね」
 工業系の科である自分と比べてデザイン科の拘束時間が長いことに、不憫さを感じずにはいられなかった。茉希が自販機をゆずったので、準備していた七十円を押しこむ。
「ははっ、確かに。おかげでバイトする余裕もないわ。まあ……美術科よりはましやと思うけど。学校始まったら毎日七限まであるし、あんま部活する人やっておらんもんね」
「あそこは別格やもんな」
「美大目指す人も多いしなぁ、すごいよね。うちの学校、就職する人のほうが多いのに」
 カップにできたアイスココアを受け口から取った。いつものことだが、茉希は何の断りもなく、ちびちびと先に飲み始めている。
「ぶっちゃけね」
 一瞬躊躇ためらってから、こんだけ描いて描いて、結局なんになるんやろうねと茉希が吐いた。目線はふらふらと宙へはずれたのち、いちごミルクのほうに落ちていく。
「コンクール出したって、受賞できるような人なんてクラスでもほんの一握りなんよね。うちなんかさ、クラスで凡人中の凡人レベルよ? それやのに、受賞なんか無理やと思わん? でも上手い人に追いつきたくても、いったいどんだけやったらええんか……わからんし果てしないんやけど」
 弱々しい声だと思っていたら、自分を卑下する所になった途端、声量が上がって乱れる。その不安定さに、やるせなさや迷いが含まれていた。
「上みすぎたらキリないと思うけど。茉希もさ、最近根詰めすぎやから疲れてるんやで、きっと。いっそ、たまにはカラオケでもぱあっと行って思いっきり歌ってみるとか、なんでもいいからせん? あたしも付き合うからさ。気分転換も大事やと思うで」
「カラオケなぁ……、行きたいなぁ。うん、行きたいよ。けど提出期限ギリギリになりそうやもんなぁ」
 困り顔になって言葉をにごす茉希に、「この真面目」と唇を突き出した。
 キッと見つめ返され、「真面目で結構っ」とふんぞり返ったのも束の間、軽やかな笑いがこぼれていた。釣られて君子も吹き出していると、茉希の目や口がぱっくりひらいた。
「いいこと思い付いた」
 形よく妙に持ちあがった唇に、嫌な予感だけがする。
「この絵完成したら、うちを労うためにカラオケおごってよ、ね?」
 光を集め始めた無垢な瞳に、訝し気な目で応じる。
「さっき真面目いうてなかったっけ? 真面目な人が自分からおごってとかいわんと思うんですけど」
 咄嗟に早口で返したせいか声が若干うわずる。君子はすぐ恥ずかしくなった。
「ははっ。まあええやんか。ええからおごってよ、君子バイトやってるんやし」
「いやいやいや。よくない、よくない。なんで恋人でもないのにおごらないかんのよ」
「ちょっと。恋人だったらおごるけど、友人にはおごらんの? ケチ……。ほんまケチやねぇ」
「もう……、あのな、おごってもらうにはさ、それなりの対価を払う必要があるって思わんかい? ものすごい媚びるとか、相手に下心もたせるとかさ」
「何よ。うち、そんな汚い手使いたないし」
「例えばの話やん。あたしらはどっちかっていうと対等な立場やん。上も下もない。だから別に、おごったおごられたってのはなくていいんちゃうって話やんか」
「やっぱケチやぁ」
「やからケチちゃうって」
 長いスカートをひるがえし、茉希は踵を返した。
「さ、もどろっ」
 大股で進み始めた彼女のあとを慌てて追いかけようとしたところで、まだココアを一口も飲んでいなかったことに気が付く。カップの中には薄く溶けた氷が浮いていた。こぼさないように注意をはらう。
「もしもね」顔をあげると、振り返った茉希がこちらをうかがっていた。
「もしもやけどね……。うちがこれから頑張って頑張って、なんか賞でも取れたら。そんときはお祝いしてくれる? カラオケフリータイム、ドリンクバー付きで」
 茉希の顔をじっと捉えながら考えた。クラスで突出しているわけではない彼女が、賞を取る可能性はどれだけのものだろうかと。ゼロではない、でも決して高い確率ではないだろう。でも頑張ろうとする茉希の姿勢は、嫌いじゃない。
「ええやん。じゃあさ、そんときはおまけにサイドのパフェとポテトも付けようやんか」
 にんまりしてみせると、茉希も顔をほころばせる。
「えらい太っ腹やんっ。自分でいうててあれやけど、それはええんや。なんかむっちゃやる気出てきた」
 茉希は声高にいい、カップを持った手を掲げた。
「じゃ、前祝いで乾杯とでもいきましょうか」
「だいぶ、気い早ない?」
「まあええやん、ええやん」
 面倒くさいこといい出したなと思いながらも、君子も控えめにカップを持ちあげた。
「それでは、よき親友が微妙にやさしい気がする、今日という日に……、乾杯っ」
「あ、え?」
 肩透かしをくらい、力が抜けた右手からカップが滑りそうになる。ぶつかり合ったカップ同士がふにゃんと軽く凹み、ココアはこぼれるすんでのところで大きく波打つ。
「パフェとポテト、楽しみにしてるから」
 いじらしい笑みを浮かべる茉希に嘆息し、「照れるからやめて。そもそも前祝いの乾杯と違うやん」とにらむ。喉がやたらに渇くのに気が付いて、薄まったココアをあおった。
「かわいいとこあるんやね」
「もういいから。もどるんやろ」
 君子はもう一度カップを傾けて、一気に飲み干し、食べきらなかった氷ごとゴミ箱に突っ込む。にたりとする茉希の顔がみえたが、君子は無視を決め込んで歩みを速めていった。

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