芽生えた感情



 ――「またね」


 柔らかな声が、反響するように頭の中で繰り返される。
 今まで見てきた花咲有珠からでは想像できない、温かな音色だった。

 俺を含む他人の前では、警戒心で塗り固めた硬い$コ音。
 家族や幼馴染の前ではありのままなのか、明るくて力を抜いたものに変わる。

 たとえるなら、春の木漏れ日のような澄んだ温もりを感じさせる柔らかい$コ音。

 それを今し方、俺に向けた。

「……あんな顔もするのか」

 最初に素顔を見た時は反抗的で気が強く、俺を真っ直ぐ睨んでいた。
 あの時、何故だか妙な気分に駆られた。

 一瞬だけだったが、素顔は俺達に引けを取らないくらい整っていた。瞳はアメジストより美しい紫色で、一つに纏めた黒髪も天使の輪が浮かぶほどつややか。
 ガラにもなく見惚みほれてしまった。そんな自分を否定しようとした時に、奪った眼鏡を奪い返して去っていった。
 ついファーストネームで呼び止めてしまったが、彼女は意外なことに驚いていた。
 俺が彼女の名前を初めて呼んだこと。いま思えば『君』と呼ぶばかりだった。

 そして去り際、彼女は言った。


 ――「……あまり、私に干渉しないで」


 いつも気丈な彼女とは思えない、つらそうな声で。
 あの時からだろうか。『花咲有珠』に興味きょうみを持ったのは。



 後日、食堂で有珠と同じ席に座った。
 本当に偶然だったが、何故だか心が温かくなった。……名前呼びを否定されたときは、胸に何かが突き刺さったのはここだけの話。

 観察していくと、花咲有珠は一言で表すなら『普通』だった。
 警戒しているが自然体で、男所帯の生徒会役員に囲まれても態度を崩さない。
 いつもなら近くにいる女性に好奇の視線を送られるが、有珠にそれは無かった。

 態度もそうだが、反応も見ていて飽きない。彼女の友人の香崎との会話も興味深いものだった。

 ただ、途中で現れた東雲にお礼を言ったとき、違和感を覚えた。
 東雲は有珠を守ると宣言した。しかし、お礼を言った有珠の声は苦しそうだったのだ。

 まるで罪悪感を押し殺しているような……そんな声だった。



 そしてその週の金曜日である今日の放課後、初めて有珠の涙を見た。
 死人のような虚ろ目を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。

 同時によみがえる、彼女が歌った名も知れぬ歌のことば
 あの歌は彼女の心を表していた。きっと、あれが今の彼女の心なのだろう。

 理解したら無性に苛立いらだたしくなり、有珠を押し倒して言葉を投げかけた。
 はじめは怒りを向けられたが、次に言った俺の言葉に動揺どうようしながらも睨んできた。


 ――「君は……救われたいと思わないのか?」


 この言葉に何故動揺したのか判らない。だが、次の問いかけで彼女の地雷を踏んでしまった。


 絶望で染め上げられた、くらい瞳。

 希望を失った者が見せる、虚脱きょだつな色。


 花咲有珠は、高等部で唯一魔法を使わずに優秀な成績を収めている優等生。同時に魔法を使わない問題児でもある。ただそれだけだと思っていた。
 だが、全てに価値を見出せなくなったあの表情は、深い闇を抱えているように思えた。

 東雲と香崎の登場の時も……。


 ――「誰にも頼らない時点で、私に救われる権利なんて無いんだって」

 ――「人の優しさが苦痛だと感じるなら、救われるなんて夢物語なんだ」

 救われたいと願っていた。だが、救済さえも諦めた言葉に、心がきしんだ。
 俺は傷つけるために言ったんじゃない。それを伝えると、彼女は自分のことより俺を気遣った。
 傷つかなくていい。そう言って俺をなぐさめて。

 苦しかった。彼女を救えない俺は、なんて無力なのだろうかと。

 結局、東雲と香崎が有珠の心を救った。
 それに対して、何故か無性に悔しくなる。
 そんな俺に、有珠は礼を言った。


 ――「レオネッティ君のせいじゃない。むしろ、貴方のおかげで本音を言えたんだよ」


 柔らかな笑顔を添えて。


 ――「だから、ありがとう」


 強いと、思った。
 心が、在り方が、まぶしく感じるほど。

 別れ際に見せた笑顔は綺麗で、胸の奥が締め付けられて熱くなった。

 不思議な熱に、込み上げる感情。
 俺はまだ、その名前を知らない。



「お帰り、ジョット」

 気がつけば、俺は生徒会寮のロビーにいた。
 すぐそこにある食堂への入口から出てきた紀の挨拶あいさつによって我に返った俺は、それに応じた。

「ああ」

 いつものように軽く返すと、紀は軽く目を瞠った。

「……驚いた。お前がそんな顔をするなんて」

 興味深そうに訊ねる紀の言葉に、俺は自分の表情が緩んでいることに気付く。
 こんなに穏やかな表情が続くのはいつぶりだろうか。

「何かいいことでもあったのか?」
「……いいこと、か。確かにそうだな」

 有珠の新たな一面を知った。負の感情もそうだが、一番はやはり温かな心だ。

 傷ついてもなお他人を思い遣る心。
 最後に見せた笑顔も、胸の奥が締め付けられるほど切なくなった。
 興味が尽きないとは、まさにこのことを言うのだろう。

「興味深い子に会ったんだ」

 曖昧に答えて、食堂の奥にある窓口へ行く。
 部屋に置いている好みの珈琲豆コーヒーまめが無くなる。ついでに紅茶の茶葉も補充ほじゅうしようと、寮内の購買に寄る。

 その時、玄関口から足音が聞こえた。
 通常より速い歩調に違和感を覚えて顔を向けると、花咲魁先輩が生徒会寮に入った。
 よく見ると、同じく大学部に在学する聖ヶ丘杏奈先輩を抱きかかえていた。

「魁先輩? 杏奈先輩、どうしたんですか?」

 目を丸くした紀が声をかけると、魁先輩は硬い表情で答えた。

「理事長と少し口論になっただけだ」

 杏奈先輩は理事長の娘だ。理事長は愛娘である杏奈先輩に甘いところがあるのは周知しゅうちの事実。
 それがまさか、杏奈先輩を泣かせるほどだとは想像できない。

 ……いや、一つ思い当たることがある。

「有珠のことですか」

 確信を持った口調で言えば、魁先輩は足を止めて俺に向いた。

「……有珠と会ったのか」

 当たっているなら確実に聞き返されると思っていた。
 質問を質問で返された俺は、自身の予想が確定して納得した。
 有珠が東雲と香崎を連れて職員棟から出てきた疑問。それは理事長と面会したからだ。

 理事長と何の話をしたのかは知らない。けど、魁先輩の真剣な質問に答えた。

「東雲と香崎のおかげで立ち直っていました」
「……泣いて、いたか」

 ここで有珠の安否あんぴを詳しく知ろうとするあたり、魁先輩は妹想いであることがうかがえる。
 少し返しづらいが、俺は首肯しゅこうをもって応えた。

 魁先輩は硬くまぶたを閉じて、痛みに耐える面持ちになる。

「いったい何が?」
「悪いが、これ以上は説明できない」

 短く会話を終わらせようとした魁先輩。

 ここで不意に、有珠と花咲健斗の会話を思い出す。


 ――「いつになったら魔法、解禁できるんだろう」


 あの時の健斗は、有珠は魔法が使えると言った。
 ということは……。

「もしかして、魔法の……?」

 すぐに浮かんだ考えが口に出ると、魁先輩は鋭い眼差しで俺を見据えた。

「今日はやけに食い下がるが、好奇心は身をほろぼすぞ」

 少し、首筋がしびれた。
 流石、歴代最強の生徒会長だ。ひと呼吸で威圧を飛ばす芸当は真似まねできない。

 だが……。

「好奇心だけでは、ここまで考えません」

 好奇心もあるが、俺は有珠個人に興味がある。

 何故、あんなに心を殺して死んだ目をするのか。
 何故、あんなにすさんでなお、他人に優しく在れるのか。
 気になって仕方ない。心が散り散りに掻き乱される。こんな感情は生まれて初めてだ。

 真剣に言えば、魁先輩は軽く目を見開いた。そして、ぐっと眉を寄せる。

「ジョットは有珠をどう思っているんだ」

 唐突な質問に、俺は怪訝な顔になる。
 どういう意味なのか推し量れない。だが、これだけは言える。

「興味深い子です」
「……そうか」

 答えると魁先輩は苦虫を噛み潰したような顔で素っ気なく返し、エレベーターに乗り込んだ。
 最後の表情は、どういう意味を持つのか。
 不思議に思っていると、紀が声をかけてきた。

「ジョット。会った人って花咲なんだな」
「そうだが、どうした?」

 紀を見れば、奴は目を丸くしていた。

「お前、もしかして……花咲に惚れているのか?」
「……は?」

 思わず胡乱うろんな声が出る。

 俺が……有珠に惚れている?

「……まさか」

 否定の声は、絞り出したもののようだった。
 喉の奥で言葉が絡まったような、そんな違和感を覚えた。

 購買で珈琲豆と紅茶の茶葉を買った俺はエレベーターに乗り込むと、高等部と大学部の部屋がある四階のボタンを押す。
 深く息を吐き出して壁にもたれて、ギョッと目を瞠る。

 エレベーターに取り付けられた鏡に写る俺の頬が、赤かったのだ。

 何故、こんなに赤いのか。……まさか。

「……ありえない」

 この俺が、あの子に惚れているなんて。



 この時の俺は、自分に芽生えた感情を否定した。
 そのせいで深みに嵌り、悪化することになるとは思いもせずに――。



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