魔王アズサ、降臨



「アズサ!」

【幻想郷】にいるアズサを呼べば、太極図と八卦、太陽と月を描いた魔法陣が生じ、そこから翼を背負う人型の精霊獣――アズサが現れた。

「! チハル、これは……!?」
「ごめん。先にこの子の治療をお願い」

 息切れを抑えて頼むと、アズサは息を呑んで頷き、鬼神の傍に膝をつくと、まずは顔に【治癒】をかける。
 完全に気絶している鬼神をいやすアズサを見て安堵する。

「ぅあっ……!?」

 直後、膝から力が抜けた。
 ガクッと地面に倒れ込んで、顔をぶつけないように腕で受身を取る。

 ただの疲れかと思った。……でも、違った。
 先程の落下で脳裏にフラッシュバックした光景のせいだ。

「はっ、はぁっ……! はっ……ぅぐっ、うぅぅっ……ッ!」

 動悸どうきと冷汗が尋常じんじょうじゃない。呼吸もままならなくて目の前がぼやける。
 遠くでアズサの声が聞こえた気がしたけれど、反応できない。
 今生で体験したことがないはずの体中への激痛と、肉が潰れる幻聴。
 頭の中で繰り返される悪夢のせいで体の震えがおさえられず、意識が朦朧もうろうとする。

「無茶をしすぎだ」

 すると、優しい体温と木犀もくせいの仄かな香りに包まれ、暖かな声が聞こえた。

 ――ヒイラギだ。
 彼の温もりと匂い、その声が心にみ渡り、激しく脈打つ心臓の痛みが徐々にやわらぐ。

「深呼吸をしろ。ゆっくりとだ」

 頭から背中にかけて撫で、頬を包み込んで目元に触れる手のひらに安心感を覚える。
 壊れ物を扱うようなヒイラギの手つきの心地良さに目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
 少しずつ動悸が穏やかになり、全体の強張こわばりが緩む。

「高所恐怖症……ではないか。高所からの落下恐怖症だな」

 吐き気が治まる頃、ヒイラギが分析した私の弱点を口にする。
 言い当てられた瞬間、溢れた涙が頬に流れた。

「夜中に時々うなされていたのも、それが原因か」

 今でも悪夢を見ていることにも気付かれていた。
 知られた途端に自分が情けなく感じて、無性に泣きたくなった。

「耐えるなと、遠慮するなと言っているだろう」

 耐えるのは、前世からの悪癖あくへき
 遠慮してしまうのは、前世の愚行ぐこうからの罪悪感。
 これ以上、心配かけたくないという強迫きょうはく観念に近い自制心が原因だった。

 言葉を出せずにいると、ヒイラギが苦しげに悪態あくたいを吐いた。

「大馬鹿者だな。お前はもう『さかき奈桜なお』ではないというのに」

 痛みを感じさせるヒイラギの声が、心に突き刺さる。

「お前は『チハル』だ。罪やとがを背負っていない無垢むくな子供だ。いつまでも過ぎたことを引き摺るな」

 厳しい言葉なのに、ヒイラギの顔は苦しげで、今にも泣きそう。
 苦しめるつもりで耐えていたのではないのに、私は……ヒイラギを傷つけてしまった。

「忘れるなとは言わない。……ただ、これ以上……自分で自分を苦しめないでくれ」

 願いを込めて、私の頭に額を擦りつけるヒイラギ。
 彼のつらそうな声を聞いて、胸の痛みが酷くなる。

 私は自分自身を苦しめているわけではない。けど、客観的に見ると、そうなるのか。
 自分をいましめ、苦痛に耐えて、罪悪感を飲み込む。心が救われることを拒むように、大切な人達の心から遠ざかって意地を張る。

 ……確かに、私はおろかだ。大馬鹿者だ。
 転生して学習したはずなのに、結局のところ何も変わってない。
 今度こそ幸せになるって意気込んでいたのに、自分から手放そうとして。
 再会できた大切な家族ヒイラギ達の想いを無視して、自分を追い詰めて。

 どうして私は変わらないのだろう。
 どうしてみんなの心をないがしろにしてしまうのだろう。
 私は、ヒイラギとアズサを苦しめたくないのに。悲しませるなんて、嫌なのに。

「ごめ、ん……なさい……。ごめんなさいっ……!」

 どうして上手くいかないのだろう。
 くやしくてなく涙が流れて、ヒイラギの胸に顔を寄せる。皴を作ってしまうことも考慮できないくらい、彼の狩衣かりぎぬを握ってすがりつく。

 無様で、滑稽こっけいで、みにくい――こんな私なのに、二人は救われて欲しいと願ってくれる。
 なら、今は難しくても、少しずつ重荷を下ろそう。私だって、いつまでも苦しみたくない。

 二人のために頑張りたい。二人と一緒に幸せになりたい。
 家族と一緒に、この世界で生き抜きたい。
 精霊となった二人にとって、人間である私の一生は短いものだけど。
 限りある命だからこそ、精一杯足掻あがいて進みたい。

 ヒイラギとアズサと、私で。今度こそ幸せになろう。
 ヒイラギに気付かされた私は、人生の全てをけた決意を改めて心に刻み込んだ。



◇  ◆  ◇  ◆



 涙が止まって完全に落ち着くまでかなり時間がかかった。
 なのに既に完治したはずの鬼神は、まだ起きない。

「チハル、起こしてもよろしいでしょうか?」
「いいよ。むしろお願い」

 アズサのおかげで泣きらした目と怪我がえて、生活魔法で顔を綺麗にした。所々が破れた服も、ヒイラギの【時手繰ときたぐり】で直してもらった。

 ついでに、鬼神の武器も。
 最初は拒否されたが、仕方ないから私が直すと言えば直してくれた。
 私がまだ立ち直れていないから過保護になってしまったようだ。
 ちょっと恥ずかしくて申し訳ないけど、ここは気遣いに甘えることにした。

 準備が整って立ち上がろうと足に力を込める。……しかし、ヒイラギが背中から私を抱きしめて放さない。

「……ヒイラギ、格好がつかない」
「既に無いだろう。それとも、俺の膝は居心地悪いか?」

 うわぁ、バッサリ言われた。しかもなんだかおどすような目付きだし……。
 両手で顔を覆ってうめき声が漏れ出る。

「つっ……!」

 バシッと痛い音が聞こえた。
 顔を上げると、ヒイラギを叩いたらしいアズサが彼を睨み下ろしている。
 ヒイラギはというと、頭を片手で押さえてアズサをうらめしそうに見上げた。

「いい加減になさい。甘やかすのは帰ってから存分にすればいいでしょう」
「……叩く必要は無いだろうが」

 ボソッと悪態を吐くヒイラギだが……。

「何か?」
「いえ、何も」

 冷え冷えとした眼差しで微笑むアズサの前に、瞬時にくっした。

 流石はアズサ。私達のお母さん≠セ。いや、お姉さん≠ゥな?
 ――そんな感動を覚える同時に、私まで背筋が震えた。

 やっぱりアズサの魔王の笑みは怖い。私にまで余波よはが来る。
 アズサのブラックスマイルに引きりながら苦笑し、ヒイラギの腕の中から抜け出す。

「じゃあ、アズサ。よろしく」
「ええ。――目覚めなさい=v

 アズサの能力の中に【言霊】がある。これは人のあらゆる行動や感情だけではなく、万物の事象まで操ることができる。
 相手の意識に介入し、行動を制限し、感情を掻き乱す。いわば体の支配だ。
 万物の事象は、川の流れの時間を停めることや、風向きを操ることなど。中でも凄いのは、雨雲から強制的に雨を降らせることや、雷雲から雷を落とすこと。晴れ間にすると、通常の何倍も神力を使って倒れてしまうけれど。
 今回は軽く触れる程度の力しか使わないので、疲れることはない。

 アズサが命じた途端に、鬼神は眉間に皴を寄せて呻く。強制的に覚醒するのだ。ゆっくりと浮上するのではなく、一気に水底から引き揚げられた感覚におちいっているはず。
 頭痛を覚えたのか、鬼神は額を右手で押さえて薄目を開く。

「……我は、いったい……――!」

 一瞬で全てを思い出したのか、鬼神は跳ね上がるように上半身を起こした。
 斬られたはずの顔や胸部、脇腹に触れて確認している。

「意外と元気そうね」

 彼の勢いの良さに軽く驚いてしまったが、なんとか声をかけた。
 ハッと我に返った鬼神は、けわしい表情で私を見遣る。

「……何故、我を治した」
「何故って……殺す気は無いから。あくまで勝負なんだし」
「我は貴様をしたがえようとしたのだぞ」
「それはヒイラギに勝ってからって言ったでしょう。負ける気は毛頭ないけど」

 にこりと笑えば、鬼神は顔をしかめる。

「……待ってください、チハル。この男……チハルを従えると?」

 あ、やばい。一番怖いヒトに聞かれてしまった。
 顔を上げると、アズサの冷え切った笑顔から威圧を感じる。目が完全に据わっている。

 あぁ……魔王様のご降臨こうりんだ……。

「誰だ、貴様は……」
「黙りなさい=A愚物ぐぶつが。私のチハルを、貴方のような野蛮やばんな方に降す? うふふ……寝言は寝て言いなさい、この×××ピー≠ェ」

 あぁ……美人からとんでもない言葉が飛び出てしまった。事案ものだ。

「そもそも何様? 聞けば、チハルから貴重な石を奪い取ろうとしたそうですね。チハルなら事情を話せば考慮してくださる方だというのに、暴挙に出るなんて。貴方は盗賊にもおよばぬ下等生物か何か? なんでも暴力で訴えようとする蛮族ばんぞくなのかしら」

 言い返したくても【言霊】で言葉をふうじられている鬼神。頬が引き攣るほど、反抗する気力が湧かないくらい気圧されている。


「次、チハルを降すと申されるなら……私、貴方の××ピー×××ピー≠チて××ピー≠ノしてしまいそうです」


「アズサ……そこまでにしておけ。チハルになんてものを聞かせる気だ」
「あら、ごめんあそばせ」

 まるで道端の吐瀉物としゃぶつを見るような眼で鬼神を見下し、わらうアズサ。私の背後にいるヒイラギが震えた気がした。
 ヒイラギに耳を塞がれて、最後に何を言ったのか聞き取れなかったけど、おそらくとんでもなく恐ろしいことだと思う。鬼神が完全におびえてしまうほどだから。

 血の気が引いて真っ青になった鬼神は哀れだけれど、アズサを怒らせたら最後、死すら生温い制裁を下されるだろう。
 とばっちりを受けたくないから、私は絶対に助けない。そもそも助けるなんて無理。魔王が降臨したアズサは、たとえ契約主である私でも手に負えないのだから。