それぞれの誓い
「私は精霊治安協会の長官、イリーナ。貴女の名前は?」
「チハル・サカキです。家名は自分でつけたものですので、気にしないでください」
「それは市役所の長官から聞いたわ。ご家族と絶縁されて、アルビオンの森で過ごしていたと」
私とイリーナの間に仕切るローテーブルに、二枚の紙が置かれた。
一枚は、私の経歴書。空白が多く、名前と生年月日と性別は当然だが、備考の
もう一枚の紙には、私のMICに記載された内容を写した情報が記されている。
滅多なことでは情報を
「そんな顔をしないで。今回みたいに事件に関わった方の情報は知らされないと、私達も適切な処置ができないから」
無意識に顔をしかめてしまったみたい。
イリーナが困り顔で苦笑したのを見て、自覚した私は
「
トン、とMICの書類にある『契約』の欄に指先を当てる。
真剣な顔で私を見据えるイリーナから僅かながら威圧を感じる。
そっと目を閉じて、深呼吸を一つ。
こればかりは隠せない。けど、話すには
だから……覚悟を決めよう。
静かに
「条件があります。ここで聞く私の情報を一切漏らさないでください。他言することも、記述に残すことも。でなければ話しません」
真剣な顔で見詰め返す私の表情に、イリーナは
私が子供らしくないから、そして異質な存在感を持っているからだと、これでも自覚している。
「それは……」
「そもそも貴女は赤の他人です。信頼のおける人物なのか、会ったばかりでは判断できません。そんな人に、身の安全を保障してもらうなんて都合のいいことはできません」
信頼できる相手でない限り、個人情報を教えることはできない。
私の秘匿すべき情報を露呈しなければならないのだから、信用さえできない人に教えると身を
「これは私の秘密の中核。知られたら狙われる可能性が高くなる。貴女は、私の秘密を墓場まで持っていく覚悟はありますか?」
私の言葉は
言葉の端々から本気を感じたのか、イリーナは息を呑んで、ぎこちなく頷く。
軽い覚悟ではないか、
「創造神マカリオス、女神タイタニア、全ての精霊に誓えますか」
目を細めてスキル【威圧】をかける。
イリーナは拳を握り締め、絡まる喉から声を絞り出した。
「……ええ。誓うわ」
最後の硬く強い声を聞いて【威圧】を解く。
脱力したイリーナが椅子の
インドのヒンドゥー教に登場する最高神シヴァの数ある姿の一つで知られている、有翼の獅子みたいな姿。
肌で感じられる魔力も神力もヒイラギに近い……ということは。
「神位?」
私以外にも神位の精霊と契約している妖精族がいるなんて思わなかった。妖精族は、基本的に精霊を尊ぶ意識で契約しないと聞いたから。
「貴様……イリーナを害する気か」
喉を鳴らして
普段は力の
それだけイリーナは魅力的な人なのだと知って、ふっと笑みが浮かんだ。
「貴方が
私の言葉に、有翼の獅子は目を瞠る。心なしか警戒心が
「当然だ。イリーナは、我が認めた唯一の契約者だ」
「……そっか」
なら、信用できるだろう。最上位精霊がここまで信頼するのだから。
穏やかな笑みが深くなると、有翼の獅子は警戒を解く。
人々から驚きの視線を向けられるが、私は姿勢を
その時、猫仙人が体を震わせた。
先程から不穏な空気を浴びていれば、目を覚ますのは当然だ。
頭から背中にかけて優しく
露になった瞳の
「おはよう。気分はどう?」
安心させるために
――幻覚だ。
暗闇に閉じ込められ、奈落に堕ちるような重みが体中に
まるで、前世の最期のような――
「チハル」
耳元で温かな声が聞こえ、脳に響く。
目を覆い隠す手のひらの温もりを、
「ひぃ……らぎ……?」
「お前は『チハル』だ。もう『榊奈桜』ではない。昔≠ナはなく今≠思い出せ」
「……うん」
最期の記憶に意識が引っ張られそうになる。それを振り払って、今生でヒイラギとアズサと再会した、エンジュと出会い家族になった記憶を呼び起こす。
鮮明に
深く息を吸って吐き出すと、ヒイラギの手が離れる。瞼を開けば、膝の上にいた猫仙人の姿は無かった。
トラウマを刺激されるとは予想外だったが、ヒイラギのおかげで抜け出せた。
彼の温もりを思い出すと、激しく脈打っていた心臓も、穏やかに戻っていく。
「ありがとう」
振り向くことなく礼を言えば、ヒイラギが私の頭に手を乗せた。
「いったい何が……」
「妖術による幻覚だ」
ソファーの後ろに控えていたドワイトが困惑気味に尋ね、ヒイラギが答える。
精霊なのに妖術っておかしいけど、妖怪と似たような力に安心した。何故なら妖術は前世で嫌と言うほど体験しているから。
私は静かに立ち上がり、部屋の隅に縮こまっている猫仙人に歩み寄る。
「来るな……来るなッ……! 人間がッ……!」
ゆっくりとした足取りで近づくと、猫仙人は威嚇から全身の毛を逆立たせた。
神通力を使ったのか、近くにある観葉植物が飛んできて、私の横を通り過ぎて壁に激突する。
それでも私は、歩みを止めない。
猫仙人は瞳に恐怖を宿し、次は魔法で氷の
殺意はない。だから今回は
この判断は正しかったようで、氷の礫は私の頬を掠めるだけで終わった。
氷の礫が壁にぶつかる音も気にすることなく、とうとう猫仙人の目の前に立つ。
猫仙人は可哀想なくらい震えてしまっている。私はその痛々しい姿に目を細め、静かに両膝を床について左手を差し出す。
すると、案の定、最後の抵抗で噛みついてきた。
本気の噛みつきに手を引っ込めそうになるが、なんとか耐える。
悲鳴を上げないよう奥歯を噛みしめ、喉の奥へ押し込む。
「……ごめんね」
できる限り平素の声を出そうとしたが、少し掠れて、
「私達人間が、貴方を追い詰めて堕天精霊に
真っ直ぐ猫仙人を見詰めて言えば、猫仙人の噛む力が少し弱くなる。
「それと、全ての精霊を憎まないで。貴方を助けたいと思っている子もいたのは事実だから。助けられなかったのは、敵が精霊狩り≠ナ、彼らが
頼むような言葉に、
それでもまだ口を離さないけど、あともう少し。
「信じられないなら、私が証明してあげる。私は貴方を傷つけないし、見捨てない。……私が怖いなら逃げなさい。私は貴方を
呆然と私を見上げる猫仙人。敵意と警戒心が薄れたのを確認して、右手で彼の頬に触れて、そっと目元を指の背で撫でる。
「もう大丈夫。もう苦しまなくていい。貴方はもう堕天精霊じゃないなのだから」
まるで信じられないものを見る眼差しで、猫仙人は私を凝視する。
優しく言い聞かせながら頬を撫で続けると、私の左手から力無く口を放した。