燻る情の名は



 ――榊奈桜と初めて出会った日のことを、色褪いろあせることなくおぼえている。


 大陰陽師・安倍晴明が存命する時代から生き抜いた俺は、最強の妖狐・天狐てんこへ至った。
 妖怪でさえおそれる存在になったのだが、格を理解しない馬鹿どもに目をつけられた。

 百鬼夜行に加えればはくがつくから、力を誇示こじするために屈服くっぷくさせよう。……妖怪の存在が忘却の彼方へ追い遣られた時代でも、息を潜め存在する妖怪どもの中にも愚かなやからがいた。
 だから俺を従えようとする者は、逆に打ち負かし、屈服させた。

 ある意味で荒んでいた頃だ。奈桜と出会ったのは。

 とあるさびれた神社で花見をしていたのか。
 桜の花弁が雨のように降る中で、当時五つにも満たないの童女は歌っていた。
 不思議な曲調で、穏やかに。優しい微笑みを浮かべて口ずさんで。
 巫女装束もあって現代では浮いて見えたが、一番は童女から感じる霊気。
 山頂の湖のように澄み切った、それでいて春の日溜ひだまりのような柔らかな温もり。
 不思議な霊力を乗せて歌う声を聴いていると、心が洗われる心地におちいった。

「うわぁ、すごーい!」

 子供とは思えない大人びた表情で歌っていたのに、俺を見た途端に瞳を輝かせて子供らしく歓声を上げる。
 妖怪の俺を見て恐れない。むしろ初見で天狐と見破った人間は初めてだった。

「きれいだねぇ」

 恐怖を与えようと本来の姿を見せつけると、童女はうっとりと目を細めて褒めた。

 綺麗? 俺が?

 怪訝な顔をした俺の様子に気付いたのか、明るい笑顔で語った。

「雪みたいに真っ白だし、ツヤツヤな毛並みも絹みたい。それに、その目もほーせきみたいだよ。すごくキレイなんだから、もっとじまんしたらいいのに」

 ありのままの言葉なのだろう。
 俺の純白の毛も、紫紺しこんの瞳も綺麗だと心から言った人間は初めてだ。

「お前の名は?」

 気付けば名を訊ねていた。

「榊奈桜。よろしくね」

 その日から俺は童女――奈桜と逢瀬おうせを重ねた。
 他愛ない会話もあれば、俺が過去の経験談を語ることもあった。
 穏やかなひと時だった。時間を忘れるほど心が癒され、気付けば離れがたくなった。

「奈桜、契約しないか」

 契約すれば、奈桜との縁を色濃くできる。奈桜の言う家≠ノも行けるだろう。
 だが、奈桜はしぶった。

「にんげんのわたしとけーやくしたら、じゆうがなくなるよ? イヤなこともあるかも」

 普通の奴なら箔がつくと喜ぶ。だというのに、奈桜は俺をおもんばかった。
 俺の自由を尊重して、未来を案じた。

 こんな人間を見るのは、やはり奈桜が初めてだ。

「奈桜は……不思議な人間だな」

 この俺に癒しを与えた。それだけで充分な価値がある。
 だからこそ、俺は奈桜と契約を望んだ。

 俺の固い決意を感じ取った奈桜は、切なくも穏やかな笑顔を見せた。

「わたしがしんじゃうさいごまで、ずっといっしょにいようね」

 ずっと一緒にいる。その温かな約束とともに、奈桜と契約を結んだ。
 確かに嫌なこともあった。身を引き裂くような悲しい結末を迎えた。それでも奈桜の鮮烈な人生を見届けることができた。
 俺にとって奈桜との契約は貴重な思い出で、得難えがたい幸福だったのだ。

「柊、梓。今までありがとう」

 切なさを込めた静穏せいおんな声。あんな温かな声は久しぶりだった。

「愛していたよ」

 思い出す度に心が苦しくなるほど、優しい音色。
 死に際の言葉で、俺は奈桜を愛していたのだと気付いた。
 家族としての言葉だったのだろう。それでも、俺は……。

 時は流れ、奈桜をおとしめた人間どもが社会的な制裁を受けてしばらく経った後。
 稲荷神の神使、ミケツカミが蘇った。

「奈桜に会いたいか」

 奴は、奈桜は異なる世界に生まれ変わったのだと言った。
 今度はただの人間だが、その世界の神から祝福を授かっていると。
 異なる世界の神に頼んで、本来名付けるはずだった名を贈ったのだと。

 ミケツカミの言葉は耳に入っても、全てまで頭に入らなかった。
 ただ、奈桜に会えるという希望がめていた。

 今度こそ守り通す。たとえ奈桜が他の人間と結ばれたとしても。

 決意を胸に秘め、俺と同じく奈桜と契約したぬえとともに異世界へ渡った。

 異世界は西洋のようだが、地球の平成最後の時代と同じで便利性がある。
 それを教えてくれたのが、異世界の中で精霊界と呼ばれる異次元を治める女神。
 精霊界にも格がある。俺はその中で最上位に位置する精霊となった。
 神位の精霊の中では上の下に位置するが、それでも成長次第で上の中に食い込むと驚かれた。
 それはそうだ。俺は奈桜と契約し、数々の妖怪と神霊と渡り合ったのだから。
 奈桜のおかげで、あの鮮烈な日々の中で己をみがき上げたのだ。
 人間に苦しめられても限界まで強く在り続けた。短くも鮮烈な人生にせられた。そんな奈桜だからこそ、もう一度契約したいと願えた。

 妖怪にとって短い、しかし奈桜と再会するまでの間は長く感じた。
 だが、やっと終わりが来た。

「久しぶり。柊、梓」

 瞳に涙を浮かべて笑った、『チハル』へ生まれ変わった奈桜。
 前世と変わらない笑顔に、どれだけ救われたことか。



「そんなに私の色が見たいの?」

 九年の歳月とともに、前世と同じ姿形に成長したチハル。
 彼女が見せる初めての色香は心臓に悪く、今までにない感情が込み上げた。

 俺が色香を学べと言った意趣返しだろう。俺以外に向ける前に自粛じしゅくさせなければ。
 親心と言えば聞こえがいいだろう。だが、ほんの少し出来心があった。

 仕返しもねて肩や首筋に唇を落とせば、色めいた声が耳に届いた。
 駄目だと、甘い声で俺の名前を呼びながら。
 もっとその声が聴きたい。そんな欲望に突き動かされかけたが、湿り気を帯びた声で我に返る。

 冷水を浴びたような心地とは、まさにこのことだろう。
 無体を強いる前に踏みとどまれて安堵するも、罪悪感もあった。
 くずおれたチハルの頬に一滴ひとしずくの涙が流れたときは後悔したが、頬を紅潮こうちょうさせ、潤んだ瞳で切なげに口走った言葉に、心臓が痛いほど跳ねた。

 色香に中てられかけたが、理性を利かせてなんとかチハルの行動をいさめた。
 けれど、どうしたのか。チハルは俺の胸板に頭突きしたと思えば……。

「ヒイラギじゃないと……やだ……!」

 泣きそうな声で、言ったのだ。
 頭の中が真っ白になるくらい思考が止まる。

 何故、恋慕れんぼを刺激することを言うのだ。
 何故、恋い焦がれる女のようにうったえるのだ。
 俺は榊奈桜前世の彼女を救えなかった。そんな俺がチハルに恋情をいだく資格はない。
 チハルも俺を家族として接し、振る舞っている。俺を男として見ていない。
 だから俺は、この想いにふたをした。こんなみにくい欲望を知る必要はないと。
 だというのに、何故、チハルが泣くのだ。



「どうしました、ヒイラギ」

 初春の外界に合わせて芽吹いてない紅葉の木々に囲まれた大池泉だいちせんにはいくつかの中島が点在し、無際橋むさいばしがなだらかな弧を描いて掛かる。池泉の中心には、瓦葺かわらぶきの屋根に朱塗りの柱といった華美な四阿あずまやが建つ。
 紅葉の木々が密集している場所には小さな滝があり、近くの陸には枯山水かれさんすい庭園が美しい茶屋がもうけられ、秋の紅葉と滝を鑑賞するに適した場所だ。

 見事な池泉回遊式かいゆうしき庭園は、榊奈桜の生まれ育った家と同じ。
 ミケツカミの神域を写しているが、寝殿造の屋敷の外である山の斜面に密集する千本桜の他に、山岳や断崖、湖や大河といった大自然が広がっている。
 まさに修験者の過酷な修行に適した地形だが、玄関である楼門から見れば壮観な景色。
 よくここまで再現できたと、あの時の驚きは今でも憶えている。

 見飽みあきない風景の中で、俺は広間で裏庭を眺めていた。
 奈桜はここでミケツカミの膝に乗って、飽きることなく景色を楽しんでいた。

 ぼんやりと過去に思いをせていると、アズサが声をかけた。
 風呂上りのようで、薄桃色の浴衣と藤色の羽織を肩にかけている。

 今宵こよいは満月。月明かりで庭も広間もよく見えるのだが、アズサは鵺。それも夜鳥と呼ばれる鵺鳥が進化し大妖怪化したものだ。精霊となっても変わらず、白金色の一対の羽は仄かな光を帯び、暗い室内で神々しい存在感を魅せつける。昼間でも、その輝きは変わらない。

「どうもしないが……」
「気付いていません? 貴方は思い詰めると、ここに来るくせがあります」

 アズサに指摘され、そんな馬鹿な、と言いかけたが、思い返すとその通りだった。

「特に、チハルに関することになると」

 アズサの言葉に、俺は目を細める。

「知ったような口振りだな」
「ええ。チハルに関しては、貴方は判りやすい。イリーナもロランも気付いていますよ」

 は、と声が漏れる。

 あの人間どもが、俺の何に気付いているのだ。

「好いているのでしょう? チハルを」

 今度こそ瞠目した。
 誰にも気付かれていないはずの心の内が気付かれていただと?

難儀なんぎな性格ですね。チハルにも言えることですが」
「……何?」

 どういうことだ、と言う前に、アズサはきびすを返す。

「しっかりチハルと向き合うこと。それが私の助言です。では、おやすみなさい」

 言い逃げのようだが、その助言とやらが頭から離れなかった。



 翌朝。普段より遅く起床した。
 昨夜のことが頭から離れなかったせいで、寝付くまで時間がかかったのだ。
 着流しを脱ぎ、普段の紫の着物と白を基調とした狩衣かりぎぬに着替える。

「ヒイラギ、朝食できたよ」

 俺の寝室である桔梗の間の外からチハルの声が聞こえた。
 いつもと変わらない声に違和感を覚え、布団を畳まず部屋から出る。

「あ、おはよう。今日は遅かったね」

 食堂へ行こうとしたのだろう。俺が出ると振り返り、いつもの微笑を見せた。
 無体を強いかけた昨夜のことが無かったかのような態度。

 胸の奥がざわつく。衝動的にチハルに近づき、巫女装束のえりを引っ張る。

「えっ!? ちょっ、ちょっとヒイラギ!?」

 抗議の声を上げるチハルに構わず首元を見れば、赤い鬱血痕があった。

 チハルはこの世界で主流となっている魔法を使える。
 そうでなくとも護符を用いる術で大抵の怪我を治せるほか、アズサの治癒術に頼れる。

 消したいと思えば消せるはずだというのに、消していない。

「なっ……何で赤くなってるの……?」

 チハルの声で、自身の顔に熱が宿ったのだと気付く。
 チハルは羞恥で赤面しているが、俺は所有印を残している事実に熱情が込み上げた。

 我に返るとチハルの襟元を直し、チハルを置いて食堂へ向かった。

「……厄介だな」

 抑えなければいけない感情。
 しかし、抑えきれない衝動があるのだと気付き、頭を悩ませるのだった。



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